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2008年6月

2008年6月30日 (月)

ノルウェー・ソグネフィヨルドより

0701_05s 世界一長く深いフィヨルド、ソグネ・フィヨルドを今度は海から船で眺めた。
全長204キロメートル。水深は一番深いところで1308メートル。
1500人乗りのピースボートが悠々と通れる。
ベルゲンの北側から大地を裂くように内陸に延び、先に行くほど何本もの細いフィヨルドに枝分かれしている。
昨日行った最先端のネーロイ・フィヨルドまで船は進んでいく。

浅瀬に乗り上げることはないだろうというパイロットと船長の判断で、船は突然、ソグネ・フィヨルドの支流ネーロイ・フィヨルドへ入っていった。実に美しい。
切り立った岩々はすべて氷河によって作られた。
その終点グドヴァンゲン村は夢の国のように美しかった。

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ピースボートの旅

ピースボートの旅はおもしろい。

0701_01s最年長が99歳。最年少が12歳。
12歳の中学1年生と13歳の中学2年生が、それぞれ1人で船に乗り込んできた。

寛くんはお父さんと散歩をしていて、ピースボートのポスターを見た。
世界一周の船旅。
お父さんが「行ってみないか」と声をかけてくれた。
自分でも行ってみたいと思い、船に乗った。とっても楽しいという。
この時期に世界一周ができるなんて良い経験だと思う。

21歳の大迫くんはひげ面の若者である。
自動車を作る会社を辞めて旅に参加したという。
今はダンスに夢中。ダンスをしながらアルバイトをして生きていこうかと思っているという。
憲法9条のダンスチームに参加している。
憲法9条、戦争、平和について勉強するようになって、自分たちの国のことが少しわかってきたという。

憲法9条を常に生活の視点から考えなおしたほうがいいとぼくは思っている。
いつも同じような言葉で左の人が左の発言をし、護憲という思想で憲法9条を守ろうとする。古ぼけているなと思っていた。

憲法9条を守るには、もっと違った発想があっていいと思っていたので、この若者のようにダンスを通して憲法9条を守ろうとする姿勢はとても面白い。
若者が憲法について勉強し、世界について勉強しようとしていることが、なんともうれしくなった。

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2008年6月29日 (日)

ノルウェー・ベルゲンより

ベルゲンに着岸した。人口約24万人のノルウェー第2の町である。1070年、北欧最大の魚の取引の中心地として発展した。

こじんまりした国だ。その良さが覗われる。メキシコ湾流の影響を受け、湿った空気が山にぶつかって、雨が多い。1年のうち2/3は雨の日だという。6月29日も雨で始まった。

Img080629ブリッゲン (Bryggen) 地区は、18世紀初頭に建てられた58棟の切妻屋根の木造家屋や倉庫が並ぶ、世界遺産の街である。。
港から見える街並みが実に美しい。上陸した後も息を呑むほどである。

バロック建築の美しさに圧倒された。13~16世紀ドイツのハンザ商人の家や事務所に使われていたという。火災にあい、1700年代初頭に作り直されたという。
今にも倒れそうにゆがんでいる。後ろに回ってみると、太いログで組み合わされていた。なんとも趣のある大型の木造建築である。

京都の古い街並みのように、奥深く、路地が切り開かれている。そしてその路地裏に新たな建物の発見があったりして、わくわくする街である。

船のエンジントラブルで着岸が3時間ほど遅れてしまい、スケジュールはずたずたに壊れてしまった。
しかし、見たいものは見ようと思い、ネーロイ・フィヨルドを目指してベルゲンから鈍行列車に乗った。ボスで乗り換え、さらにミュルダールから登山列車フロム鉄道に乗り換えてフロムを目指した。
フロム鉄道は全長20キロ。世界中の旅行者の憧れといわれているらしい。
全工程3時間半かけて、ノルウェーの西西部、美しいフィヨルド地方の西海岸線を見に行った。楽しい旅だった。
このフィヨルド一帯も2005年、ユネスコ世界遺産に登録されている。

100万年昔から少しずつ氷河が移動して、切り立った岩盤を作ってきた。
その合間に遠く山の頂には、万年雪が見える。
初夏の美しい緑とその間に時折点在するはっとするほど美しく小さな村。
方々に万年雪が溶けてできた滝が華麗に落ちている。
かつて氷河があり、氷河が切り開いた峡谷を列車が走る。
氷河期から間氷河期となり、間氷河期にこれだけの氷河が解けていったことを示している。万年雪も少しずつ少なくなっているという。

北極圏に入る一歩手前のこの土地でも、地球温暖化の影響が見て取れた。

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2008年6月28日 (土)

60回目のバースデー

0701_03sノルウェーへ向かう船上で、ぼくは今日60歳を迎えた。還暦である。

0701_04sピースボートのスタッフが、デコレーションケーキと、チェロ伴奏のバースデーソングをプレゼントしてくれた。

思い出に残る誕生日になった。

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オランダ・アムステルダムより

0701_02s アムステルダムでの初めての朝を迎えた。ときおり雷を伴って雨が降っていた。空は雲に覆われている。徐々に雨が上がり、厚い雲の向こう側に太陽が輝きを取り戻し始めている。レンブラントの朝を迎えたようだ。レンブラントが描いた空や雲を思わせるような朝だった。
(写真左は、アムステルダムの運河)

マウリッツハイス美術館へ向かう。デン・ハーグへ1時間ほど車を走らせる。郊外に入ると、オランダの風にまかれてたわみよじれるゴッホの糸杉のような木をいくつも見かけた。ゴッホの心の叫び、激しく描かれた糸杉がオランダにはあった。

マウリッツハイスで見たかった絵に出合った。「真珠の耳飾りの少女」。
憂いに満ちた瞳、美しい唇、不思議な青色のターバン。フェルメールの傑作である。

フェルメールの絵は他に2点あり、「ディアナと妖精たち」と「デルフトの眺望」が展示されていた。

0627_210627_20 「デルフトの眺望」も見たいと思っていた絵の一つである。傑出した風景画だと思った。

(左の写真は、ぼくが実際に同じ地点に立って撮ったデルフトの写真。右は絵画「デルフトの眺望」)

「失われた時を求めて」を書いた小説家マルセル・プルーストが、世界で最も美しい絵と言った意味がよくわかった気がした。

旅の終わりに、NYの美術館でもなんとかフェルメールの絵を見たいと思っている。

0627_22アンネフランクハウスを見た。(写真左)

右下の写真は、アンネフランクの隠れ家へ続く階段である。この上に小さな空間があり、3ヶ月8人が生活していた。アンネはそこで2年間必死に生きる挑戦をした。

0627_23

アンネはベルゲン・ベルゼンの収容所でチフスにかかり、亡くなっていく。8人のうち、アンネの父フランクを除いて全員が収容所で亡くなった。

アンネの日記の中に窓辺から見える運河の話がでてくる。
「運河に面したこういう古い家の中に、隠れ家があるなんて、そしてその中に明るい家があるなんて、信じられません」
運河は今も残っていた。

0628_01 夜、ピースボートに戻ると、オランダの平和活動家たちとの100人ほどの懇親会が行われた。

オランダの歴史家で、元国会議員であるJUDITH BELINFANTEさんと、平和の大切さについて語り合った。(写真右下)
子どもの頃、死の収容所ホロコーストに入れられ、たくさんの人々に助けれて生き延びた。今は平和活動家として生きているという。

0627_004s_2アムステルダム港を出航し、船はノルウェーへ向かっている。
ただただ、海が見えるだけである。

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2008年6月26日 (木)

ファン・ゴッホ美術館

0626 アムステルダムのファン・ゴッホ美術館へ行った。
前から見たかった「黄色い家」を見た。ぼくの大好きなゴーギャンが、ある時期この黄色い家にゴッホと二人で生活していたという。
ゴッホの特徴的な黄色と青が支配する、ゴッホらしい家である。

スリリングな絵は、「カラスの群れ飛ぶ麦畑」。銃で自殺を図る直前に描かれた。まるで自らの死を予告するような絵である。

亡くなる2週間ほど前に描いたもう一枚の絵、「荒れ模様の空の麦畑」にも目を奪われた。嵐をはらんだような空が見える。ゴッホの心の中に吹きすさぶ嵐があったのだろう。静かな青い空に、オランダらしい白い雲が描かれている。

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私の人生を変えた本2

Img080626これからオランダへ飛び立つ。
オランダから船に乗り、フィンランド、アイスランド、グリーンランドを通り、北極へ。

おもしろい計画がめじろおしだ。
オランダとNYの美術館でフェルメールを絵を見る。
自分の目で確かめながら何かを語ってみたいと思っている。

オランダでは憲法9条世界会議の報告会があり、
ピースボートの船の甲板で憲法9条の勉強会が行われると突然オランダから連絡が入った。
何らかの発言を求められるという。

憲法9条についてぼくの気持ちを書いた「この国が好き」の話をしようと、心の準備をしている。

出発間際まで取材は続いた。
ジャズシンガー石野みゆきさんについてのインタビューを受けた。

インターネットがつながれば、旅先からブログを更新します。お楽しみに。

それでは、いってきます!

私の人生を変えた本(2)

人間のすごさとか、面白さとか、わけのわからなさとかを教えてくれたのは、やっぱりドストエフスキーだろうか。
「罪と罰」や「白痴」や「悪霊」も良いけれど、最高は「カラマーゾフの兄弟」。
なんだか嫌な人間ばかり出てくるのである。

俗物で好色漢の父フョードル。
無頼漢で遊び人の長男ドミートリイ。
知的で冷徹な次男のイワン。
その中に三男のアリョーシャがえらく善良で、ほっとしながら読んだ。

初めて読んだときはアリョーシャに救われたが、二回目に読んだときには、なんともアリョーシャの人の好さに面白みを感じなくなった。

「どんな人間の中にもけだものが潜んでいる」
なんていうドストエフスキーの言葉が出てきて、人間ってそんなものかと思いながら、どうしようもない父や長男や次男の姿の中に、これが人間なんだという一面の魅力を感じるようになっていった。最近になってまた読み返している。

「カラマーゾフの兄弟」は、ドストエフスキーの遺作で、未完の大作である。
第2部の校正を考えている途中に亡くなったと言われている。

立派過ぎる三男が修道院を出て、恋に傷つき、革命家に変身していく構想があったと聞いて、ドストエフスキー恐るべしと思った。
この構想を聞いて、三男のアリョーシャが再び好きになった。

結局人間はいろんな面があるのだ。
もしかするとドストエフスキーは、俗物で好色的な面、無頼な面、知的で冷徹な面、人の好い面、登場人物4人それぞれの性格を合わせたような複雑さが、一人の人間の中に存在するということを言いたかったのではないだろうか。

チェルノブイリ支援のきっかけになったのも、ドストエフスキーだった。なんだか不思議な巡り会わせだ。チェルノブイリへ第1回目の調査に入ったとき、初めて聞かされた言葉がドストエフスキーの言葉だった。

「チェルノブイリの子どもたちは、今泣いています。悲しいことに、ロシアの大人たちは子どもたちを助けてあげることができません。助けてください。ドストエフスキーがこんなことを言っています。『一人の子どもの涙は、世界のすべての人々の悲しみよりも重い』」

なんだかロシア人は上手いことを言うなと思っていたら、実は「カラマーゾフの兄弟」の中に、これに近い言葉が出てきていたのである。
それ以来ぼくは、チェルノブイリの支援にのめり込んでしまった。

ドストエフスキーを若い人たちにも読んでもらおうと思って、最近、深夜まで読み直している。
クローニン全集を探すのは、古本屋へ行かなければならないだろう。
何冊かは手に入れることができる。図書館へいけばきっと読めると思う。
「帽子屋の城」とか、「人生の途上にて」はお薦めである。

もっともっと本を読みたいのに、まだまだ時間に追われている。
地方の小さな町で、電車が来るのを待つ間、小さな喫茶店でコーヒーを飲みながら、一冊の本を開いているときの幸せ感は、何にも変えがたい。

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2008年6月25日 (水)

私の人生を変えた本1

Image019 フラダンスの勉強をしている方々が、患者さんたちのために
病院の中庭でフラダンスを披露してくれた。

ぼくの絵本「雪とパイナップル」を取り上げて、雑誌「女性自身」の取材を受けた。
夜回り先生の水谷修先生が「雪とパイナップル」の感動的なコメントを寄せてくれたようだ。

寂聴さんを初め、料理研究科の辰巳芳子さんや、絵本の評価をたくさん書いている柳田邦夫さんなど、そうそうたるメンバーに褒めて頂いた。
幸せな絵本だと思う。

私の人生を変えた本(1)

本が好きだった。嫌なことや悲しいことは、本を読むことで、少しだけ中和された。
医者になってからは、じっくり本を読む時間はほとんどなかった。
病院づくりに役立つ本ばかりだった。そんな自分がうっとうしかった。

50歳頃から病院長を辞めたいと言い出したのは、自分の中にある本の虫がうごめき出したから、というのも一つの理由である。
病院を退職して2年。本をばんばん読み始めた。

18歳の頃、父とぶつかり合って、むさぼり読んだ本が「クローニン全集」20巻。
家は貧しく、母は病気だった。
医学部に行きたいと何度言っても、父は聞いてくれなかった。
「うちは貧乏だからダメだ」

父は小学校しか出ていない。
国立大学の当時の授業料は、医学部でも1月1000円だった。
父にはなかなか想像できなかったのだろう。
医学部へ行くのはお金持ちだけと思い込んでいたようだ。

泣いて泣いて父に頼んだ。
それでも初めのうちは、うんと言ってくれなかった。
そのときに読んだ本が、「クローニン全集」。

クローニン自身が臨床医で、貧しい炭鉱町の人たちを支える青年医師や、結核患者のサナトリウムで働く医師たちの姿が描かれていた。
ぼくの気持ちはますますのめり込んでいった。

泣きながら、大学へ行かせて欲しいと父に頼んだ。
あまりにも泣き続けるぼくに、父は好きなように生きていいと大学への進学を許可してくれた。
ぼくの気持ちを支えたのは「クローニン全集」。クローニンの二十巻の小説だった。

はじめにぼくが医者になろうかと思ったのは、実はもっと軽い気持ちだった。
きっかけは、あまり言いたくはないのだけど、北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」。
船医になれば本が読める、知らない国を見てまわることもできる。
なんとなく今の自分の世界から脱出できるような気がしたのだ。
なんとも軽い気持ちだった。

そのときに、父が壁のように立ちはだかってくれた。
大学なんて行かなくていいと言われ、落ち込み、クローニン全集を読み続ける中で、自分はこういう医師になりたいという具体的な思いが固まっていったのである。

医学部を卒業するとすぐに、医師がいなくて困っている諏訪中央病院へ行った。
同級生には誰一人としてそういう道を選ぶ人はいなかった。
クローニン全集が、そんな道を選ばせたように思えてならない。

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2008年6月24日 (火)

鎌田劇場へようこそ!(2) 「赤い風船」

今日は往診と、緩和ケア病棟の回診。
緩和ケア病棟の回診では、先週の焼肉大会の話で皆が盛り上がった
普段は地下で働く調理師さんたちが、2階のベランダで肉やシーフードを焼いてくれたのだ。 患者さんたちは大変よろこんで食事をした。

お昼に「健康365」という月刊誌の取材を受けた。10月号に巻頭インタビューが掲載されるはずだ。北極へ旅立つ前に、取材が相次いでいる。

「赤い風船」

080414_redballon_sub1見たくて見たくて仕方がなかった映画の試写を見た。
語り継がれてきた伝説の映画だ。
アルベール・ラモリス監督の「赤い風船」。
やっと見ることができた。 

1956年度のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。
特撮のない時代に、こんなに綺麗なシーンを作り出し、
見るものに、映画のおもしろさ、美しさ、心に沁みる感動を与えてくれる。

風船にまるで意思があるように、
風船にまるで心があるように、
風船は風に乗って飛んでいく。
少年と風船が、やがて一体化していく。 

今年の夏、日仏交流150周年を記念して、「赤い風船」がスクリーンに蘇る。
ラモリス監督のもう一つの名作「白い馬」と同時上映される。

「白い馬」もすごい。
白馬と少年との一体感をすごい迫力でカメラが捉える。
奇跡のラストシーンには、きっと誰もが感動するはずだ。 

この夏、「赤い風船」と「白い馬」をぜひ見てほしい。
7月26日シネスイッチ銀座他、全国でロードショー。

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2008年6月23日 (月)

がん難民をなくせ5

200806222 昨日は、東京で大腸がんインターネットフォーラムの生放送を終え、
あずさで帰ってくると、家族が久々に顔を揃えぼくを待っていてくれた。

ぼくは今年6月28日で60歳になる。還暦である。
皆が集まって、少し早いぼくのバースデーパーティーを開いてくれた。
茅野市のレストランピーターでおいしい夕食。
自慢のソーセージをはじめ、信州和牛のステーキなど、何を食べても実においしい。

若シェフの坂本くんがギターを抱え、スタッフが歌のプレゼントをしてくれた。
200806221楽しいパーティーとなった。

今日は、朝から病院で予約外来をし、自宅に戻り婦人公論の取材を受けた。「くじけない心」というテーマで巻頭インタビューである。
その後また病院へ戻って忙しく立ち回った。

がん難民をなくせ(5)

 しかし実際はそう簡単ではなかった。彼女は、放射線治療に否定的な友達から、止めたほうがいいと言われた。また暫くの間揺れた。
 中川先生の外来には通いながら、なかなか治療には踏み切れないでいた。
 
 そんなものなのだ。足を引っ張る友人がいるのだ。まともな医療にバッテンをして、サプリメントを勧める人がいるのだ。
 しかし結局彼女は、ぼくの勧めた放射線治療を始めた。ぼくとの約束を忘れないでいてくれた。
 
 予想外の効果を示した。幸い他の臓器には転移をしていなかった。
「がんが全部消える可能性がある」
 と、中川先生から連絡を頂いた。

 彼女は、がん難民の一人だった。
 進歩したがん治療から脱落してしまっているがん患者さんがたくさんいる。
 それは、医療者側の説明不足がまだまだあるように思う。

  ゆっくり患者さんの声を聞き、きちんとした対話をしていくうちに、妥当な治療法は見つかる気がする。
 ゼロにはできなくても、がん難民をもっと減らすことはできるように思う。
 再発がんにも希望はあると信じている。

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2008年6月21日 (土)

がん難民をなくせ4

午後、和歌山県の御坊にやってきた。

美人の里らしい。
文武天皇のおきさきになった宮子姫がこの地に生まれた。
かわいいけど、髪の毛がなかったらしい。

ある日、母親が海の底から観音様を拾い上げお祭りをしたところ、宮子姫に毛が生えた。
カマタミノルももしかしたらこれから毛が生えるかもしれない。

明日インターネットでライブ放送があります。
どうぞ御覧下さい。

大腸がんインターネットフォーラム
明日AM11:00~12:00 「がんとどう闘うか」

がん難民をなくせ(4)

 ザクロのように開いて出血し始めている乳がんに対し、放射線治療が傷を瘢痕化させ、出血を止めてくれる可能性は十分にある。
 毎日何回もガーゼを取り替えなければならず、匂いもひどくなってきている。
 その状況を考えると、生きる長さよりも、クオリティ・オブ・ライフという生活の質を守ってあげることが大切だと感じた。
 1日1日の「生活の質」が重なったものが、その人の「人生の質」にもなる。
 明るさを取り戻していけば、ときには「魂の質」だってアップさせることができる。だからあきらめてはいけないのである。
 病気はあるけど、今日一日どう快適にすごせるかを前向きに考えるべきである。

 紹介しようとする東大病院の中川助教授との電話が終わった後、彼女は
「よくわかりました。納得しました。先生の治療方針に従おうと思います」
 と言ってくれた。

つづく

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2008年6月20日 (金)

がん難民をなくせ3

大阪のクロスホテルの中にある三田屋ステーキ。
とにかくうまかった。
野菜がたっぷりで、ドーンとあつあつの鉄板の上に肉がレアで運ばれてきて
好みに合わせ、ミディアムで食べた。うまかった。

がん難民をなくせ(3)

「まだ手遅れではありません」
 ぼくは話し始めた。なぜ玉川温泉に通うようになったのか、なぜサプリメントを使うようになったのか、ゆっくりゆっくり話を聞いた。
 話を聞きながら、お互いの気持ちが一致していく。
 生きたいと思う患者の気持ちと、なんとか生かしたいと思う医師の気持ちが、徐々に近づいていくのである。
 
 東京の方なので、東京の病院のことを頭の中にいくつも浮かばせながら、どの治療がこの方に合っているかを考えていった。
 
 ぼくがたどり着いた先は、東大放射線科の中川恵一助教授であった。すぐ患者さんの目の前で、大学病院へ電話をした。
  ここが大事なのだ。隠し事をしない。多くの患者さんは疑心暗鬼に陥っている。舞台裏を見せてあげると信じてもらいやすい。
 患者さんに、病名も病気の進行状況も、可能性も全て、対診依頼の医師へ説明するのを聞いていてもらう。
 同時に、ぼくがあきらめていないことを知ってもらう。専門医に全力投球でお願いするのを、聞いていてもらうのが大事。
 
 再発したって、これからが勝負なんだと心の底から理解してもらう。

つづく

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2008年6月19日 (木)

がん難民をなくせ2

午前中は看護学校の授業があった。

ヒロサワ リエコさんという、途中失明をしながら子どもを出産し育てた方に特別授業をして頂いた。
徐々に目が見えなくなりだしていたとき、失明を覚悟で子どもを生もうと決意した話には大変感動した。
生まれた子どもの記録をつけようと、子どもの言葉を一つひとつ点字で書きとめたという。子どもが愛されているなと感じさせられた。

午後は、テレビ対談のため、鳥越俊太郎さんが諏訪中央病院へ来院された。

13時から看護学校の授業があったためお待ちいただこうとしたら、看護学校で授業に協力してくれることになった。看護学生たちに大きなプレゼントとなった。

鳥越さんが大腸がんの手術を通して、病院の中で見た看護の大切さについて熱く語ってくれた。看護学生たちは、笑ったり、うるうるしたり。大変役に立つレクチャーをしていただいた。

その後、岩次郎小屋(我が家)で1時間ちょっと、熱い議論をした。
この模様は来週水曜日、テレビ朝日スーパーモーニング(8:00~9:55)で15分ほど放映されます。お楽しみに。

がん難民をなくせ(2)

 この方は学校の先生をしていた。3大治療の手術、放射線治療、抗がん剤治療を、やりたいとは思わなかった。
 病院へ行くのをやめた。毎月玉川温泉に行くようになった。こうしてこの方はがん難民になった。
 
 どんどん症状が悪化し、ぼくが診察したときには、腫瘍から出血し、浸出液が出て、傷はザクロのように潰瘍形成をしていた。
 もう私のことはいい。なるようにしかならない。手遅れと思っていた。
 
 しかし、この方があきらめていないことがよくわかった。サプリメントを山のように使っているのだ。
 プロポリス、AHCC、サメ軟膏、アガリクス。驚いた。毎月15万円はかかる。
 玉川温泉に行く費用も考えると、毎月30万円ではたりないだろう。

 調査では、サプリメントは毎年1.3兆円使用されている。莫大なお金が、効果がはっきりしない治療に動いているのだ。
 不思議な水などを入れれば、年間3兆円くらい。ある調査によると、がん患者さんの4割はサプリメントを使っている。
 この方は30万円を超える額をがんの治療のために毎月使っているというのだ。生きたいのだと思った。

つづく

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2008年6月18日 (水)

がん難民をなくせ1

20080618_1819 午前は、原村診療所へいき、午後、松本で1件講演を行った。
その後、ホテルブエナビスタの1階にある中国レストラン聖紫花で、松本に住む孫と一緒に夕食を食べた。
ペキンダック、ふかひれや蟹が入ったスープがおいしかった。

がん難民をなくせ(1)

「がん難民」という言葉がある。悲しい言葉。医療が冷たくなっているのだ。
 患者側にも問題がある。西洋の医学では完治しないと言われると、直ると言ってくれる怪しい治療に飛びつくのである。

 がん難民からの脱出に成功した人の話をしよう。

 彼女は、自分のがんはもうどうすることもできないと言う。
 乳がんだった。23年前に乳がんの拡大手術をしている。右乳房の全摘手術を行い、肋骨を3本、3センチほど切除している。リンパ節も大きく隔清している。

 6年前、70歳のとき、乳がんの再発が見つかった。経過を追っていた主治医の外科医は、再発した以上積極的な治療はお勧めできないと言う。
 ここが大きな間違いだった。がんの種類によっては、再発だからと簡単にあきらめるのはもったいないがんもあるのだ。
 日本のがん治療を支えてきた外科医たちの多くは、再発すると簡単にあきらめてしまう。
 化学療法や放射線治療が、患者さんを痛めつけ、苦しめる、悲惨な例を身近で経験している人は多い。しかし最近の化学療法や放射線治療の進歩は目覚しい。

つづく

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2008年6月17日 (火)

鎌田劇場へようこそ!(1) 「最高の人生の見つけ方」

「最高の人生の見つけ方」という映画を見た。
洋題は“THE BUCKET LIST”――棺おけリストである。
棺おけに入る前までに、生きてるうちにやりたいことのリストという意味だ。

0617 ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマン。二人の役者が最高の演技をする。
余命6ヶ月。癌で脳に転移があった。

ジャック・ニコルソン演じるエドワード・コールは凄腕の企業家。お金持ちである。
モーガン・フリーマン演じるカーター・チェンバーズは自動車の整備士。
偶然病院の二人部屋で一緒になり、最高の人生を見つける旅に出る。

病院経営者のエドワードは、効率をあげるため病院の個室を認めなかった。
いざ自分が入院してみると個室がほしくなり、わがままを言うが、自分の病院で自分の作ったルールに縛られ、二人部屋に入ったのである。

カーターはその部屋で抗がん剤治療を受けていた。
反目する二人。しかし徐々に打ち解けあっていく。

棺おけリストにやりたいことを書き連ねていく。
エドワードは「最高の美人とキスをする」とか「ライオン狩りをする」とか具体的な夢。
カーターは「見ず知らずの人に親切にする」とか「壮大な景色をみる」とか抽象的な夢。

二人はエドワードの自家用ジェット機に乗りこみ、世界中を飛びまわる。
旅をしながらお互いが助け合い、人生の中で一番大切なものが徐々に見えてくる。
家族、友情、美しい景色、愛する人と食べるおいしい食事…。

旅から帰り、カーターは妻や子どもや孫たちに囲まれ幸せな夕食をとる。
エドワードは独りだ。しかしカーターに仕掛けられ、離ればなれになっていた娘に会いにいく。

ボブライナー監督の手腕が光る。
悔いのない人生のための処方箋がみごとに映画の中に仕込まれている。
スタンドバイミーの名監督が再びすばらしい映画を作った。

泣いた。泣きながら見てしまった。
映画館を出るとき、ちょっと恥ずかしかった。

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2008年6月15日 (日)

雪とパイナップル4

やっと茅野自宅、岩次郎小屋へ帰ってきた。やっぱり我が家が一番である。
ハワイから帰って二日後から、実に11日間、九州、中部、東京をいったりきたり飛び回っていた。また来週も忙しい1週間になりそうだ。

雪とパイナップル(4)

Jcf011 NYの9.11のテロ事件後、世界はぎすぎすし、憎しみや恨みが蔓延している。
憎しみは暴力や戦争を引き起こす。やられたらやり返す。気持ちはわかる。
しかしどこかで、憎しみや恨みを棚上げにする必要があるのではないだろうか。
人間はひどいことをされても相手を理解しようとすることができる。相手を許すこともできる。
自分が困難の中に生きているのに、それを横に置いて人を助けることもできる。

日本人が雪の中パイナップルを探すという温かな行為が、温かな連鎖を生んだ。温かさも連鎖するのだ。
温かさは温かさの連鎖を起こしながら、おそらく平和を作っていくのではないかと思う。
これっぽっちのことは何にもならないと思わずに、一人ひとりがまずは小さな温かさを生み起こすこと。それが必ず連鎖を生んでいく。
家庭や地域が温かくなり、国が温かくなり、海を越えて世界が平和になっていく。

そんな思いで「雪とパイナップル」を4年前に書いた。
温かな連鎖をもっともっと広げていきたい。

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2008年6月13日 (金)

雪とパイナップル3

昨日、福岡で高校生のための授業を行い、また名古屋へ戻ってきた。
同じ空を数日の間に何度も往復している。
豊田市で講演を1つ行い、新幹線に飛び乗って、東京でJCF(日本チェルノブイリ連帯基金)の理事会に参加した。 
ぼくの“なげださない”毎日はつづく。

雪とパイナップル(3)

And 白血病の少年アンドレイは、骨髄移植の後、敗血症の熱にうなされ、何ものどを通らなくなった。
「何が食べたいの?」と何度も聞いてくれる日本人の看護師がいた。
アンドレイはパイナップルと答えた。一生のうちに一度しか食べたことのないパイナップルを思い出したのだ。

日本人の看護師は、仕事が終わるとマイナス20℃の雪のゴメリの町を、パイナップルを探して店を一軒一軒歩いた。
経済の崩壊した貧しい国ベラルーシ共和国に、パイナップルは見つからなかった。

町中のうわさになった。パイナップルの缶詰を持っている人が、日本人はそんなことまでしてくれるのかと感激し、翌日缶詰を病院に届けてくれた。
息子はパイナップルを食べることができたのである。
奇跡が起きた。熱が下がり、退院することができた。
しかし残念ながらアンドレイは10ヵ月後、白血病が再発し、亡くなった。

お悔やみに訪れたぼくは、お母さんは泣きながら話してくれた。
「大切な息子を失ったけれど、日本人に感謝しています。
私達家族は、雪の中パイナップルを探してくれた日本人がいたことを忘れません」

助けてあげられなかったのに、感謝されたのだ。

つづく

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2008年6月10日 (火)

雪とパイナップル2

昨日、福岡空港から中部国際空港へ飛び、名古屋で1件講演を行った。
そして今朝、また熊本へ戻ってきた。明日は再び福岡へ入る予定だ。

雪とパイナップル(2)

Yukitopineapple 1991年1月。ぼくは初めてソ連に入った。チェルノブイリへ行くためである。
まだ共産主義のソ連邦があった時代。なぜソ連なんてひどい国の子どもを助けにいくのだと言われたこともあった。
子どもは国を選んで生まれてきたのではない。誰もやらないからそこへ行って子どもを助けたいと思った。

難治性の白血病の子どもたちを救うため、抹消血肝細胞輸血という骨髄移植の初期の治療を現地のドクターに教えながら、11人に骨髄移植をした。
10人は白血病が完治したが、1人だけアンドレイという少年が亡くなった。
亡くなった後、ぼくはお母さんをお悔やみに訪ねた。

そこで聞いたお母さんの言葉を絵本にした。
「雪とパイナップル」というヘンテコな名前の絵本ができた。大人が読む絵本である。

サマセット・モームの「月と六ペンス」という小説が好きだった。
ゴーギャンがフランスを離れ、大地を渡っていく。野に下るのが好き。
月と六ペンスというわけのわからない組み合わせもおしゃれな感じがして、いつかそんな題名の本を書きたいと思っていた。
「雪とパイナップル」―― 南国の食べ物と冷たい雪。視覚的にもまったく異なる組合せを絵本のタイトルにつけた。

つづく

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2008年6月 8日 (日)

雪とパイナップル1

Amakusa_2  昨日は天草市民センターホールで、「天草の地域医療を考える」というシンポジウムの基調講演を行い、夜は下田温泉 石山離宮 五足のくつに泊まった。

個室に露天風呂が備えられ、天草の食材を使ったおいしい食事。ライブラリーやバーが点在し、キリシタンの里天草らしい極上が漂っている、なんとも居心地のいい宿である。

なんとバーのカクテルのメニューには、「雪とパイナップル」とういうぼくの絵本の名がついたカクテルがある。以前訪れたとき、バーテンさんと約束をした。それを実現してくれたのだ。うれしい。

Yoki朝は、天草空港から福岡空港へ移動し、福岡で1件講演を行った。
今は福岡シーホークホテルに泊まっている。

雪とパイナップル(1)

4年前にぼくが書いた「雪とパイナップル」という絵本が、今になって2回増刷が決まった。寂聴効果である。

瀬戸内寂聴さんがテレビで「泣けた、泣けた。80歳を過ぎて人の本で久しぶりに泣いた」と言ってくれた。
ご自分の講演でも「雪とパイナップル」の話をして下さったり、新聞や雑誌にも書いてくれた。
それから本屋さんに問い合わせが入るようになった。なんだかうれしい風が吹き出している。

さまざまな環境NGO活動に関わっている田中優さんも、ご自信のメリマガ「田中優の“持続する志”」で紹介してくれた。
田中さんとは今月末からピースボートという船の旅でご一緒する予定だ。お会いするのが楽しみである。

つづく

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2008年6月 6日 (金)

この国が好き2

Img_kagoshima_jjhs昨日、妻のサトさんと東京で合流し、鹿児島へ飛んだ。
黒豚、さつま揚げ、鶏飯(ケイハン)など、おいしいものを食べ、温泉につかり、
ハワイの旅の疲れを癒した。

今日は鹿児島純心女子中学・高等学校で講演を行い、熊本へ移動して、熊本保健科学大学で講演を行った。
どちらも「いのち」についての話をした。

講演の前、高校生のインタビューを受けた。たくさんの生徒が集まり、会議室は満員となった。

明日は天草である。

この国が好き(2)

Round_bakuチェルノブイリやイラクを見て、いのち・環境・平和はつながっていると感じてきた。
ぼくたちの国の平和を続けていくために、憲法9条は、少し古ぼけてはいるが、なかなか立派な役割をしてきたのではないかと思った。
理や論ではなく、情で憲法を語ってみたい、自分の生活の実感の中から憲法を語って見たいと思った。

お嫁さんが、BAKUと名づけられた子どもに、ぼくの絵本を読んで聞かせた。
お嫁さんは泣きながら絵本を読み、BAKUはウーンと力んでおならをし、うんちをした。
なんとも幸せでのどかなお嫁さんの返歌が付いた、一冊の絵本ができた。

なんとなく護憲の人にも、なんとなく改憲の人にも、読んでもらいたい。
お年寄りも、若者も、ぼくたちの国をどうしたらよいか、もう一度考えてもらいと思った。
そして、国民投票が行われる時に投票権を持つ、今の中学生や高校生にも、ぼくたちの国の憲法を読んでもらいたいと思って、大きな字の、絵がきれいな、大人が読む絵本を作った。

一度ぼくたちの国の憲法をゆっくり考えてみませんか。
良い資料になると思います。

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2008年6月 5日 (木)

この国が好き1

ハワイから帰国して2日後の今日、朝早く、あずさで東京へ出た。
東京医科歯科大学でレクチャーをした後、明日の講演に備えて、
羽田から鹿児島へ飛んだ。

この国が好き(1)

信州の小さな町で、田舎医者として働いてきた。
脳卒中の多発地域で、健康づくり運動をし、現在では日本でも有数の長寿地域になった。長寿であるということは、お年寄りが多い。
お年寄りが多ければ、医療費が多くなるはずなのに、日本でも有数の医療費が安い地域になった。
常に暖かな医療を目指して、日本で初めてデイケアを始めたり、往診を始めたりしてきた。
今もぼくは往診をし続けている。

小さな田舎医者としていのちに関わりながら、
環境も大切だけど、平和も大切だと思うようになってきた。

Round_bakuちょうどそんな時、ぼくはおじいちゃんになった。

ぼくは、広島の原爆が落ちた日に生まれたぼくの長男に、原爆の「爆」という名前をつけようとした。
しかし、ぼくの父の反対にあってつけることはできなかった。
その長男が成長して父親となり、子どもにBAKUという名をつけた。
この子が、元気で幸せに、自由を謳歌して育ってもらいたいと思う。

ぼくはこの国が好き。
ぼくを生んでくれた父や母は、ぼくが1歳のときに、ぼくを育てられなくなって放り出した。
にも関わらず、貧乏な岩次郎がぼくをひろって育ててくれた。
ぼくの未来はつながった。

ぼくのような子どもはたくさんいたはずである。
日本は捨てたもんじゃないと、ぼくはいつも思い続けてきた。
しかし、このごろの日本はちょっとおかしい。
いい日本をいい日本のまま次の世代へバトンタッチしたい。
それがぼくたちの役目だと、ぼくは思っている。

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2008年6月 3日 (火)

旅あきらめない5

Img080603午後2時すぎ、日付変更線を越えて、成田に到着。
6日ぶりの日本である。
成田エクスプレス、あずさを乗り継いで夜、茅野の自宅についた。

たくさんの方と出会い、たくさんの方から感動を頂いた。いい旅だった。
また秋に上諏訪温泉でお会いするのが楽しみだ。

旅あきらめない(5)

病気や障がいや高齢のために旅に出られない人の夢を実現させてあげたいと思った。
夢のためにお手伝いしたいと思った。

「鎌田實とハワイへ行こう」とか「鎌田實と温泉へ行こう」といったバリアフリーのツアーのボランティアを買って出た。

旅に出ることを夢や希望にして生きる。
そして旅先の景色や、人との出会いや、おいしい食べものから、生きる元気を得て、また次の旅に出る。
寝たきりになり、あとは死を待つだけと宣告されながら、旅から勇気と元気をもらって、奇跡的な回復力を発揮した人もいる。

旅の力はすごい。

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2008年6月 1日 (日)

旅あきらめない4

Img0806012真夜中から午前3時まで、NHK BS「地球アゴラ」の生放送があった。
寝不足である。

Img0806011朝、ホテル近くのビーチまでみんなで歩いて、海へ。

サポーターの力を借りながら、気持ち良さそうに足をつける人、
専用の車いすに乗り換えて、波に揺られる人、
ビーチで海の風と香りと景色を楽しむ人、
それぞれが楽しい時間を過ごした。


Img080601正午には3組の銀婚式、金婚式、ダイヤモンド婚式が執り行われた。
ホテルの中庭に作られたチャペルで、それぞれが誓いの言葉を述べた。
たくさんの涙と笑顔につつまれて、感動のセレモニーとなった。

午後は、大村先生の歌のコンサート、ウクレレレッスン、バリアフリーフラレッスン、アロマテラピーなどが催され、ぼくの講演会が行われた。

パーティーではおいしいディナーと音楽とダンスを楽しんで、この旅で出会った新しい友人と、それぞれが感動の最後の夜を過ごした。

旅あきらめない(4)

小学3年のころ、親にないしょで小さい冒険をした。
東京・杉並区の和田から井の頭公園へ自転車の旅。
父はタクシーの運転手をしていたので、自動車の多い道を自転車で走るのは危険と思っていた。
だから父にはないしょだった。
見つかって怒られた。
でも、知らないところへ旅する楽しみを知った。

青春のころ「遠くへ行きたい」と思った。
でもあのころは貧乏で、お金も、一歩踏みだす勇気もなかった。
大学を卒業すると、忙しい仕事があって、結婚し、子どもを育てて、なかなか動けなくなった。
「遠くへ行きたい」はただの夢、テレビの世界だった。
でも、このままただの夢で終わらせたくないと思った。
一生懸命生きてきたのだから、自分にごほうびをあげてもいいんじゃないか。
子どものころや青春のころの淡い夢を実現した。

チェルノブイリへ通い始めた。
病気の子どもたちを救いたいと思って87回、医師団を派遣したが、ぼくが行けたのは5回だけ。
病院の仕事が忙しくて行けなかった。
14億円の医薬品を送るために、国内でお金を集める縁の下の力持ちの役を演じた。
でも、率先して病気の子どもたちのところへ飛んで行きたかった。

ぼくは病院を退職して、パートの契約医師になった。
これで、ぼくを必要としているところへ、いつでも、どこでも飛んで行ける。

イラクの5つの小児病院へ支援を始めた。
ヨルダンやクウェートへ行って、イラクのドクターたちと救援の打ち合わせをしたり、イラクの難民キャンプに飛んでいけるようになった。

ぼくは自由な身になった。

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