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2008年7月12日 (土)

日はまた昇る

0713_13s 日の出は5時10分。
南下とともに日の出が遅くなっていく。
ついに美しい日の出を見た。

昇っていく太陽を見ながら、人はそれぞれ色々な思いに駆られるようだ。
次から次へと声を掛けられた。

若い女性が泣きながらぼくにささやきかけてきた。

「先生、ずっと先生のレクチャーを聞いてきました。生きる意味はなんでしょうか。私はわからなくなっています。
結婚式のマネジメントをする仕事をしていました。楽しくて一生懸命やってきました。
でも、擦り切れて、少し疲れました。
一生懸命、生きる意味を考えていますが、答えが見つかりません。
先生はどんな風に考えているのですか」

0713_12s ぼくもまだわからないのだと答えた。

「38億年の生命の歴史の中で、命は生きてきました。
命は代謝することとDNAでつないでいくことが、大切なシステムとして仕組まれています。
すべての命は限りがあります。
しかし、つなぐことなのです。バトンタッチしていくことなのです。
そうして38億年、命は生きてきました。
だからぼくは精一杯、限りある命を生きて、次へバトンタッチしていくこと
そう思っています。

短期的にみると、生き方のコツのようなものが見えてくると思います。
たくさんの命と接してぼくが感じたことは、誰かのために生きている人は、人生の意味に近づいた人のように思います。
わからなくなったり、迷ってしまったら、とにかく人のために生きてみる。それがまわりまわって自分のためになる。まず自分のためではなく、人のために生きてみる。そうすれば生きることの意味が見えてくるのかなあ」

昇ってくる太陽を見ながらぼくは、独り言のように話した。
彼女は泣きながら聞いていた。

0712_05s 次は初老の女性が声を掛けてきた。

「先生のレクチャーに感動しました。私も違う親によって育てられました。
育ての両親がともに亡くなるまで、私は貰われたことを知りませんでした。
私は1人っ子として育てられました。

親が亡くなった日、参列してくれた方々に泣きながら『独りになってしまいました』と言うと、『独りではない』と声がかかったのです。私にはたくさんの兄弟がいたのです。親戚だと思っていた人たちが、私の兄弟でした。

私の生まれてすぐ、親のいない叔父・叔母に貰われていきました。
まったく知りませんでした。既に私の本当の両親も亡くなっていました。

あっと思いました。私が16歳のとき、本当の母が、胃潰瘍の吐血で出血性のショックになったとき、輸血が必要になり、今よりも50年以上昔のことで、自宅で母の隣に寝ながら、自分の血を輸血しました。母はどんな思いだったのでしょう」

ぼくは言った。
「きっとうれしかっただろうなあ。そして、本当のことが言えずに苦しかっただろうなあ。
二つの複雑な思いで、あなたの横に寝ながら、あなたの血をもらっていたのではないでしょうか」

「私は養護教員として一生懸命働きました。
両親の夫婦仲の悪い子どもが、お父さんとお母さんが喧嘩するといつも痙攣発作を起こしてしまう。私は養護教員としていつもその子を守りました。
だんだん発作も少なくなり、無事卒業することができました。
今では元気になり、結婚し、子どもができました。
今でもその子から手紙をもらいます。
たくさんの教室に出て行けない子とも達の面倒を見てきました。

心を病んでいる娘がいます。自分がいつか居なくなったとき、娘が一人でしっかりと生きていけるように、私はこの船に乗りました。
3ヶ月、娘が少し自立してくれることを望みながら、もう心配で心配で…どうしたらいいのかわかりません。
でもこうして太陽が昇っていくのを見ると、いつかきっと私達家族にも良いことが起こるような気がしてくるのです

先生、人間ってなんとか生きていけるのね。
何度も何度も、生きることが危なくなりながらも、私はこうして生きることができました。
色んなことがあったけど、幸せだと思っています」

そう。沈んだ太陽は必ず昇ってくる。そう信じていい。
そう信じながら、人はなんとか生きている。そんなことを感じた。

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