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2008年8月 6日 (水)

8月6日原爆の日

広島の平和記念公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんは12歳で白血病でなくなった。
サダコと同じ病室で入院していた大倉記代さんは、サダコと一緒に折った折鶴を守り続けてきた。
「想い出のサダコ」を出版し、サダコ・虹基金を設立。被爆で苦しむ子どもたちの救援活動を行ってきた。

記代さんは、数年前からJIM-NETに寄付をしてくれている。
記代が亡くなった。卵巣がんだった。全身に転移していった。
記代さんの意思はJIM-NETに引き継がれることになった。
サダコのご両親から記代さんに託されたサダコの鶴も、JIM-NETの佐藤真紀にバトンタッチされた。

原爆にあって生き延びた人たちは、被爆しなかった人に比べ、白血病や癌になる確率が高くなっている。
原爆投下から数年後に慢性骨髄性白血病が急増し、ピークが終わった後、乳がんや胃がん、あるいは骨髄が抑制されるMDS等が次第に増えていった。
被爆者の癌死亡者は、2040年までに2万7千人に達すると予想されている。
原爆投下直後に生き延びた人たちの多くは、結局は癌になってなくなっていくという現実がある。
おそらく、幹細胞の遺伝子が傷つけられたため、長い時間を経て癌化を起こしている可能性が高い。

核戦争はどんなことがあっても止めなければならない。微量の放射能だからたいしたことはないといっても劣化ウラン弾を安易に他国に投下するのはやめるべきである。
自分の国に投下されれば、完全撤去するだろう。
今、イラクでは街の中にゴロゴロと劣化ウラン弾が放置されている。
今日もサケルという白血病の少年が亡くなったと悲しいメールが入った。

0803_1 8月1日、21歳のお客さんがベラルーシの放射能汚染地域からやってきた。ジーマ君。17歳のときに白血病にかかった。
チェルノブイリ原子力発電所が爆発したのが22年前、1986年4月26日。彼はまだ生まれていなかった。
お母さんのお腹の中で、放射能の影響をうけたかどうかは定かではない。

ぼくたちJCFが1991年1月に訪ねたミンスクのドクター・オリガの病院で、彼は治療を受けた。白血病を克服して元気になり、医学の道を志していた。
1996年チェルノブイリの健康被害を検討する学会をJCFとゴメリ医科大学の共催で行った。ジーマ君は、そのゴメリ医科大学の医学生となった。

0801_2 0801_3 奥志賀高原ホテルのJCFのチャリティ・ジャズ・コンサートに参加し、みなさんから温かな声をかけてもらった。一緒に草津温泉にも入った。

草津温泉の帰り道、菅平のお蕎麦屋さんに立ち寄って、イモ汁や蕎麦やモツ煮など日本的な食べ物も経験した。
ぼくがずっと来たかったお店である。忙しくてなかなか訪ねる機会がなかったが、今回やっと約束が果たせた。
このお蕎麦屋さんを切り盛りしていたおばあちゃんは、亡くなる数日前、同じく癌を患っているご主人のおじいちゃんと、痛みをこらえながら、諏訪中央病院の即席ダンスホールでラ・クンパルシータを踊った。そのご夫婦のお店である。夏の盛り、店は大変繁盛していた。

二酸化炭素と温暖化を理由に、再び原発肯定論が世界を闊歩し始めたが、原発にも大きな危険がある。
CO2の排出が少ないということで、温暖対策のエネルギーともてはやされているが、
長期間使用した後の廃棄の問題を考えれば、コスト的にも、健康被害のリスクの上でも、安易に原発に頼るのは良いことではないと思う。

ジーマ君は、1週間信州大学で勉強し、その後1週間長崎大学で勉強し、ゴメリへ帰る。

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