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2008年8月

2008年8月31日 (日)

岩次郎小屋の太陽光発電

Image118 今年の春、岩次郎小屋の屋根をウッドシェイクからソーラーパネルに切り替えた。
電力を売るようになった。1kwあたり23円。ドイツに比べると1/3の値段である。
ドイツは自然エネルギーで作られた電気を、電力会社が高値で買い取るシステムを作り上げた。
世界一の太陽光発電国だった日本は、3年前にドイツに抜かれたのである。
世界のトップを走っていたものが、なんでもこうやって抜かれてしまう。
政府が自然エネルギーを大事にするという姿勢を見せれば、もっと国民の意識は高まり、誘導できるはずである。
福田首相が太陽光発電を尊重すると言ったことは大きい。
首相はこうしたアドバルーンを高らかにあげていくべきである。
太陽光発電世界一奪還は、日本の技術力をもってすればそう難しいことではないと思う。

Image120_2 岩次郎小屋にはクーラーがない。そのため夏の電力消費量が極端に下がる。夏は電力を電力会社に売ることができる。
極力原発に頼らず、自然エネルギーを大事にすること。
夏のピークの電力消費を、国民が協力して下げること。
1年のほんのわずかのピークに電力不足にならないよう、電力を過剰に作り出すことに問題がある。
8月の1-2週間を除けば、電力は充分足りていると考えていい。
このピークに電力供給不足がおきないよう、日本中の電力会社は余裕を持たせて電力を作り出そうとしている。
しかし、余った電力は使ってもらわないといけなくなってしまう。
今の技術力では、大きな電力を貯めて置けないという問題がある。
大事なことは、8月の2週間くらいの間に、電力をどう使わないようにするか。
これに皆が協力すれば、これ以上原発を作る必要はなくなると思う。

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2008年8月30日 (土)

福島県立大野病院でおきたこと

2004年に帝王切開手術を受けた女性が福島県立大野病院で亡くなった。
産婦人科医は業務上過失致死罪に問われていたが、今回、
「過失のない治療行為をしたが女性の死亡は避けられなかったもので、異常死とはいえない。無罪」
と判決が下された。遺族にとっては大変残念な結果だったろうと思う。

もともと警察が乗り込み、司法が介入すること自体問題だったのである。
射水市民病院で人口呼吸器がはずされた事件に関しても、ぼくは主治医の軽率な行為と思いつつも、警察が介入すべきではないと主張してきた。
第3者機関が判断し、医師に倫理的な判断の誤りがあったとすれば、医師免許の停止などではなく、3ヶ月間の倫理教育の徹底とか、あるいは1年間の過疎地での医療業務の命令など、もっと違う処罰を下していくべきだと思っている。
今回の無罪判決は、遺族にとってはつらいだろうが、当然だと思う。

同じように東京都内の大学病院で、癒着胎盤と診断された女性が、帝王切開後直ちに子宮摘出手術を行ったにも関わらず、大量出血のため亡くなっている。
今回胎盤を剥離したことによって大量出血がおきたため、子宮摘出をするべきだったという意見が反対論としてあることを承知しているが、子宮全摘を行っても危険なわけである。

これは医療事故ではない。しかし家族にとってみれば、元気だったお母さんが突然亡くなったのである。
第3機関できちんとした話し合いが行われ、精神的な賠償は行われるべきだと思う。
そうすることによって医療者側も精神的なダメージを受けなくてすむ。

福島県立大野病院の産科医が警察に逮捕されたことによって、産婦人科を希望する若手医師が減ったことは間違いない事実である。
同時に、出産を扱っていた産院が、出産を扱わない外来だけの婦人科クリニックに衣替えしてしまったというケースも少なくない。

医療者側の「これじゃやってられない」という思いと、
患者側の「これじゃやってられない」という思いの妥協点を見つけるためには、
警察ではなく、医療安全調査委員会のようなものを作ることが大事だと思う。

病院の中で起きたことに対して、できるだけ警察は介入を慎むべきだ。
早急に第3機関の創設を望む。

追記:

翌日、舛添厚生労働大臣は、医療安全調査会の設置を前向きに検討し、次の臨時国会に設置法案を提出する意向を明らかにした。とてもいいことである。 
無過失保障制度が大事だと思う。医療者側にとっては犯罪ではない。そういう意味では無過失である。しかし、なんらかの方法でこの母親を助けれらかもしれなかった。遺族にとっては本当に残念な結果である。無過失ではあるが、遺族の精神的な苦痛に対して、なんらかの保障をする制度があっていい。
医療を供給する側も、医療を受ける側も、恨みあうのではなく、お互いが理解しあうということ。それを第3者委員会を通して現実のものにすることが大事なのだと思う。

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2008年8月29日 (金)

大阪~名古屋~京都

昨日は、大阪で、小説家で医師の久坂部羊さんと対談。小説「破裂」で有名だ。先月も中央公論のフロントページで後期高齢者医療問題について久坂部さんとの対談が掲載されている。

今日は、名古屋市長と名古屋テレビのいのちをどう守るかというテーマで30分番組の収録をした。9月中放送予定で、愛知県のみの放映だと思う。

テレビの収録を終えると京都へ行き、全国老人福祉施設大会での記念講演を行った。

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2008年8月28日 (木)

国民皆保険制度があぶない

カンガルー便でおなじみの総合物流商社、西濃運輸の健康保険組合が解散となった。
グループ31社の従業員とその扶養家族、計57000人が加入している健康保険組合が、政府管掌健康保険へ移るという。これにより国庫負担は年間約16億円程度増大するという。

小泉路線が引いた社会保障費毎年200億円の減額のため、国の負担を極力増やし国民や企業側に負担を押し付けてきたツケが、ここへきて結局回ってきたというわけだ。

2007年度は、老人保険制度と退職者医療制度への負担金が35億円。2008年度は、後期高齢者医療制度ができたこともあり、前年度比約62%増の58億円にまで増加した。
健保組合に関する負担が増強しすぎたのである。負担金を払うためには、保険料率を10%程度にしないといけないという。政管健保の保険料率が8.2%なので、政管健保に入ったほうが、57000人の加入者にとっては負担が軽くなる。

今年度は、健保組合の9割程度が赤字になると見込まれている。
後期高齢者制度に対してぼくがしてきた批判の一つとして、見えてこないサラリーマンの負担増を懸念していたが、早くもぼくの心配が現実のものになってしまった。
小泉以降、3代の首相による失政が原因だと思う。

国民皆保険制度は日本の宝である。これを壊さないように、速やかに抜本的な日本医療制度の改革が必要である。

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2008年8月27日 (水)

悲しいスポーツ、バレーボール

男子バレーボールは、オリンピックで予選全敗。女子は準決勝でブラジルに3-0で敗れて敗退。圧倒的な差だったようである。

かつて強かった日本のバレーボールはどうしてしまったのだろう。
ぼくはとても卑怯なスポーツになってしまったと思っている。

国際連盟と日本協会の絆か癒着かわからないが、世界選手権も、ワールドカップも、五輪予選さえも、いつも日本で行われる。そしてなぜかアイドルが出てきてマイクで絶叫し、日本の大観衆と一緒に「日本チャチャチャ」とやる。かつて日本は相手の国のファインプレーに、丁寧な拍手を送っていたのではないだろうか。日本に外国の選手を呼んでおきながら、「がんばれ、日本チャチャチャ」と絶叫するスタイルは、なんだか悲しい。卑怯なスポーツだと思う。強くなるわけがない。

今年は強い、今年は強いといわれて、いつも負け続けている。そして今回のオリンピックもやっぱり負けた。本当に強いチームを倒すためには、がんばるだけではダメなのである。がんばったり、がんばらなかったり、この呼吸が大事である。

かつて日本には、金メダルをとった最強のチームがあった。「がんばれ、日本チャチャチャ」とやればやるほど、選手の肩に力が入る。日本は所詮豪腕チームではなく、しなやかで柔らかなチームを目指すべきだと思う。がんばったり、がんばらなかったりすることが、バレーボールの再生につながると思っている。

身びいきしかしない中国を批判しておきながら、日本のバレーボールの観戦スタイルはなんだろう。それに比べると、女子サッカーやソフトボールは、ほどほどの応援があり、きちんと実力を出し切ったように思える。

人生を生き抜く上でも、スポーツを勝ち抜くためにも、がんばったり、がんばらなかったり、良い加減が大事なのである。

いい加減がいいのだ。(10月発売予定です)

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青森 ― 寺山修司と岩次郎と・・・

原村診療所で診察をしたあと、八戸へ向かった。父岩次郎の故郷、青森である。

500名の会場になんと900名ほどが集まった。会場に入れなかった400名は、ロビーで声だけをじっと聞き、途中で帰る人はほとんどいなかったというから驚いた。ぼくの講演会場に、入りきらない人たちが、どこへ行っても増えだしている。

Image125Image124  講演が終わると、八戸横丁屋台村で八戸ラーメンを食べた。シンプルな昔ながらの醤油ラーメン。B級グルメ家のドクター・カマトとしては、なかなかいい、と思った。合格点である。納豆入餃子もおいしかった。

特急津軽に乗って青森へ出て、青森市場(写真左)に寄った。岩次郎が、長野県から毎月電話でホヤやなまこを取り寄せていたお店がある。ここでは岩次郎が有名で、ぼくは「岩次郎のムスコ」と呼ばれる。

ホッケと、岩次郎が好きだったあんずの梅漬けを買った。仏壇に供えようと思う。

八戸の隣町、三沢に寺山修司は住んでいた。青森の弘前で生まれた。
ぼくは寺山修司の芝居は好きではなかった。
ぼくが好きだったのは、唐十郎の紅テント。
天井桟敷はぼくの感性には合わなかった。
しかし、寺山修司の詩は好きだった。
電車の中で「家出のすすめ」を読み、八戸から青森へ向かう特急津軽の中で、歌集「血と麦」を読んだ。
顔に似あわず、本当にやさしい詩を書く。

悲しみは 一つの果実 てのひらの 上に熟れつつ 手渡しもせず

昭和36年の詩が思い出される。
寺山の代表作
マッチ擦る つかの間の海に 霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや

本当に、「身捨つるほどの祖国」はあるのか。東北の海を見ながら考えた。

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2008年8月24日 (日)

ひさしぶりに帰ってきました

Image110 フランクフルト、ゴメリ、チェチェルスク、ベトカ、プラハ、ジュネーブ、シャモニー、モンダンベールなどを回り、やっと日本へ帰ってきた。

久しぶりの我が家へ直行といきたいところだが、妻のさとさんと成田空港で別れ、ぼくはタクシーに乗って羽田空港へ向かった。

羽田空港では、9月発売のクロワッサン・プレミアム10月号の取材を受けた。テーマは「気分転換」。ぜひ見て下さい。

取材を終えると松山へ。
坊ちゃんの湯の真前にある「寿司丸」に入った。10日ぶりの和食だ。やっぱり和食がいい。
寿司屋のおやじと環境問題について話した。
四国では一年中ムクドリがいるようになり、大量発生しているという。
季節になっても帰っていかないらしい。
鶯が、初夏だけでなく早春から秋まで鳴くようになった。
タンポポの花が、春だけでなく長期間咲くようになった。
松山の海で獲れていた魚がとれにくくなってきている。
そして魚つりにいくと、今まであまり見たことのない熱帯魚が増えているという。
温暖化はここにも確実に来ているようだ。

Image113 せめて長旅の疲れがとれるようにと、さとさんが温泉旅館を予約しておいてくれた。
「別邸 朧月夜」という名旅館である。

10月24日発売の「いいかげんがいい」の最終書き上げをした。詰め込み作業である。
お風呂に6回ほど入った。長旅の疲労が取れていく。
日本の食事はすばらしいなとつくづく思う。魚がうまい。野菜がうまい。

Image114_2右の写真は、夏目漱石が入ったという温泉「道後館」。
「ぼっちゃんの湯」と言われているそうだ。

Image116 松江では、小泉八雲記念館に寄り、皆美館の鯛茶漬けを食べた。これがすごくおいしかった。
Image115家族みんなに食べさせてあげたいと思うほどであった

そして今日ぼくは、やっとやっと、茅野のわがや岩次郎小屋へ約2週間ぶりに帰ってきた・・・。

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2008年8月22日 (金)

インドで赤ちゃんを作る

インドには以前から腎臓村があり、貧乏な若者が結婚する際に二つある腎臓のうち一つを売って、外国のお金持ちの腎臓移植を成立させてきた。インドでは、代理出産が法律で認められている。

日本人夫婦が海外で代理出産をすることは、日本学術会議が原則禁止をうたっている。

愛媛県の42歳の男性医師と妻はインドに行き、インド人女性と代理出産契約を結んだが、その後夫婦は離婚してしまった。
男性の精子と不明の卵子を使って受精卵を作り、インド人女性の子宮を使って子供が生まれた。
インドには、独身男性が女の子を養女に迎え入れることはできないという法律がある。

こんなことまでして子供をもたなくてはいけないのだろうか。

ぼく自身、岩次郎夫婦に1歳のときにひきとられた。
ぼくのように、親が子供を育てられない行き場のない子どもたちはたくさんいるはずだ。
そんなに子どもがほしいなら、そういう子どもを引き取って育て、その子の成長に喜びを見出せればそれで充分ではないだろうか。

男性医師の母が今、その赤ちゃんの面倒をインドでみているという。
子どもにとっても、こんな複雑な生まれ方をして本当にいいのだろうか。
足るを知るとか、ほどほどとか、何か大切なことをぼくたちは忘れているような気がする。

科学の進歩とお金で何でも解決ができる。心が少し傲慢になっているように思う。
ときに人はあきらめること、求めないことも大事である。
求めすぎない中に、幸せは隠れているような気がする。
求めても、求めても、求めても、欲望はキリがない。

「いい かげん」が大事なのだ。
「いい加減」は許されないが、「良い加減」は許される。

がんばって、がんばって、がんばって、全力投球して欲しいものを得るより、ほどほどの加減をもう一度思い出したほうがいい。

「良い加減」な生き方が大事なのである。

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2008年8月21日 (木)

ジュネーブ領事館で講演

Image108 早朝、ジュネーブの空港に向かう途中、国際連盟の跡地に寄ってもらった。

国際連盟は第2次世界大戦を回避しようとして、アインシュタインに仕事を依頼した。
「あなたが好きなテーマで、あなたがこの時代にとって必要と思われる相手と、往復書簡をしてほしい」
アインシュタインが選んだテーマは、「人間はなぜ戦争をするのか」。
相手は精神医学者のフロイトである。

Image109 アインシュタインは自分のおかれた切羽詰った状況を感じながら、戦争をなんとか回避しようとしてフロイトと熱烈な往復書簡をかわした。しかし世界は2人の強大な知識人の意に反し、戦争へと突入していった。国際連盟の戦争への不安は的中し、なんとか戦争を回避したいという夢はもろくも崩れたのである。

国際連盟は無力化し、その後国際連合ができる。

国連で監査役の大事な仕事をしている猪又夫妻が今回のジュネーブでの滞在をエスコートしてくれた。

「チェルノブイリの友inジュネーブ」は、猪又さんの奥さんの由加さん、綾子さん、亮さんという3人の女性によって運営されている。

長崎大学の山下教授がWHOの放射線プログラム専門科学者として2年間赴任したとき、チェルブイリ事故から20年経ち、支援が少なくなり困っていると聞き、ジュネーブでバザーを開いたりしながら寄付金を集め、3年前からJCFへ寄付をしてくれることになった。その恩返しの講演をした。鎌田實の講演会は、ジュネーブ領事館で行われた。

講演後のパーティには、日本から赴任してきているWHOのたくさんのドクターや、スイスの皆川大使が参加してくれた。20人も集まり、盛大に猪又宅で行われた。

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2008年8月20日 (水)

人間の心の中には獣がいる

旧市街のセント・ピエトル寺院の横にあるオープンカフェでコーヒーを飲みながら、3時間ほど読書をした。

Image107 柳田国男さんの「石に言葉を教える」の原稿を頼まれ、その原稿を書いている。
さすが柳田国男という本である。絵本の話があり、哲学者や心理学者の話が飛び交い、大きな筋書きが1本通って、みごとな結末へ読者を導いていく。

「少年事件」(同人社)という本を読んだ。
今、「人間の心の中には獣がいる」というタイトルで本を書いている。
神戸で子どもを2人殺すという事件を起こした酒鬼薔薇少年。彼が残したメモには、自分の中に悪魔がいると書いている。恐らく、ドストエフスキーの「人間の中には獣がいる」という言葉につながるものではないだろうかと思う。

38億年の生命の歴史の中で、かつて原始魚類や、爬虫類、哺乳類だったことがある。恐竜や狼の時代があったということだ。そして700万年前、人間が生まれた。
人間が人間たらしめている前頭葉前駆の理性や切れることを抑制すること。それがうまく作動しない場合、爬虫類の脳、これがときには悪魔になったり獣になったりするのではないかと思っている。

来年の夏の出版をめざして、このことを1冊の本にまとめようと頭の中の整理をしている。

ベラルーシの放射能汚染地域からプラハに入り、カフカやリルケの言葉を思い出しながら、人間の心の中にある獣にどう近づけるか、今ぼくの心の中に葛藤が起きている。

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2008年8月19日 (火)

氷河と地球温暖化

Image105 昨日、いよいよスイスに入った。

国連の日本の代表的な役割をしている猪又さんが空港に迎えに来てくれた。
外交官特権でパスポートチェックもぱっと終わり、どこへ行ってもすばらしい歓迎である。レマン湖のほとりのホテルに着いた。レマン湖を散策する。美しい。

Image100シャモニーから登山鉄道でモンダンベールに行った。

メール・ド・グラスという氷河を見た。氷の海という意味である。全長14㌔、最も厚いところで400mあり、1年間に90mの速さで動いているという。
モンブランからジェアン氷河、メール・ド・グラス氷河とつながっている。
厚さ100mはあるように見える。しかし細くどんどん痩せこけているという。氷河の上に落石がたくさんのっている。

氷河の中に入った。水が滴り落ちてくる。温暖化の影響で解ける勢いが増している。

Image101 悠久の時を刻み続けてきたメール・ド・グラス。何万年も前の氷が、風前の灯になっていくことはどうやら間違いなさそうである。

ジェアン氷河、メール・ド・グラス氷河、ボッソン氷河、どの氷河も小さくなってきている。

今年2月、チェルマットからゴルナーグラートに登り、ゴルナー氷河を見た。
雄大なサースフェイ氷河も見た。
そしてテオドール氷河、アレッチ氷河。たくさんの氷河を見てきた。

Image102フランス・シャモニーの氷河も今回見て、地球温暖化がますます勢いづいていることに確信を持った。

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2008年8月18日 (月)

フェルメールとデルフト

Fe_diana 先週、東京上野の東京都美術館で「フェルメール展 光の天才画家とデルフトの巨匠たち」を見た。フェルメールの絵が7点飾られていた。実際には1点は「絵画芸術」という絵が、作品保護のため出版不能となっていたが、見ごたえのある絵画展だった。

17世紀、フェルメールの時代、オランダの小さな街デルフトでは、画家達の間で透視法という手法が盛んに用いられていた。それがフェルメールの絵のダイナミズムを生み出しているような気がする。

同時代の人たちの絵と比べてみると、フェルメールの力量がますますよくわかる。
皆同じように透視法を使いながら、心を動かされる量が違う。何かが違うのだ。
他の画家達の絵も透視法を使っているなというのはわかるのだが、フェルメールの立体感には到底及ばない。光の濃淡のみごとな使い方が、フェルメールの絵の存在感に厚みを増しているように思った。

先月デルフトの街を歩いたので、デルフトの画家達が描いた風景が、なんとなくわかるような気がした。
凸面鏡や、凹面レンズなどを使いながら、遠近の妙を確信しながら描いていた可能性が高いと推測されている。
顕微鏡の完成者で光学機器に深い知識を持っていたアンソニー・ファン・レーウエンフック(1632-1723)は、デルフト生まれである。透視箱という新しい器具も作られた。デルフトの画家たちがなんらかの影響を受けていた可能性はある。今でいう広角レンズで切り取った絵と言えばいいのだろうか。

たくさんのデルフトスタイルの絵が生まれ、その中で群を抜いて才能を発揮したのがフェルメールであった。今回の展覧会でそれがよくわかった。

Fe_letter_2特に感動したのは、「手紙を書く婦人と召使」。これはすごい。
相変わらず窓から日が差し込んで、手紙を書く女性のふくよかな存在感が見事である。床に落ちたくしゃくしゃになって手紙と、赤い封印が、繊細に描き出されている。手紙を書く女性の胸元の影の作り方などは、感嘆に値する。

Fe_komichi 「デルフト眺望」のモデルとなった街、デルフトで実際に訪れて、今もフェルメールの見た街が残っている感じがした。今回見た、「小路」という作品も、デルフトの街を彷彿させる絵であった。おそらくいくつかの風景を合体させたようなフェルメールが頭の中で再構築した風景画なのだろう。
二人の女性がみごとに風景の中に溶け込んでいる。椅子に座っている女性、路地の遠く向こうで掃除をしている女性、古びたレンガの中にぬりこんだ白が映えている。
オランダの美しい雲が浮かんでいる。この雲はいまも変わらないように思う。

Fe_lute 「リュートを調弦する女」のモデルは、「少女」に出てくる女性に似ている。
「少女」は、レンブラントと同じように、お金を稼ぐため、誰かお金持ちのお嬢さんをモデルにして描いているのではないかと思った。
そして、フェルメールの最高傑作「真珠の耳飾の少女」は肖像画ではなく、その女性にデフォルメをほどこしながら理想の少女に仕立て上げたのではないか。と勝手な想像をした。

Fe_diana_2Fe_malta_2「マルタとマリアの家のキリスト」
「ディアナとニンフたち」
当時の有名な画家レンブラントたちが描く他の宗教画と似ているところもあるが、フェルメールが描くと何か不思議な温かさを感じる。

Fe_wine 「ワイングラスを持つ娘」は、ステンドグラスの開いた窓からさしこむ微妙な光が絵の中にみごとに表現されている。
若い女性のドレスが広がり、ドレスの一つひとつのヒダやヒダの向こう側にある影がすばらしい。テーブルに広げられたナプキンのしわもまた見事である。
少女に話しかける男の髪の毛の一本一本、そしてその男の羽織っているマントの襟の光の当たり具合、女性が持っているワイングラスの輝き。
なんとも絶妙な形で描かれている。

Fe_virginals 「ヴァージナルの前に座る若い女」は、フェルメールの作品の中では、どちらでもいいなと思うものだった。

この一月半ほどの間に、17点のフェルメールの絵を見てきた。
圧倒的にすばらしかったのは、マオリッツハイスで見た「真珠の耳飾の少女」と「デルフトの眺望」。
この2点がぼくの大好きな作品である。

いつか「牛乳を注ぐ女」を見たい。会えるのを楽しみにしている。

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2008年8月17日 (日)

介護の日記念講演会

11/11夕方  シダックスホールにて
「介護の日記念講演会」が行われます。

厚生労働省が、今後11/11を「介護の日」と決め、介護されている方のご苦労に報いよう、そして介護されていてもイキイキと生きようというメッセージを送りたいとしています。

厚生労働省の担当課長補佐と打ち合わせをして、舛添厚生労働大臣との対談を検討中です。
対談企画はまだ決定ではありませんが、鎌田實が出演することは間違いありません。
ぜひご参加ください。

主催は、「がんばらない介護の会」です。
4年前から9月に介護の日を設定して勉強会などさまざまな活動をしてきました。
それが国に認められ、大きな発展を遂げることができたのです。

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2008年8月16日 (土)

良心の囚人ブラダン・コチ

プラハから1時間ほど車で走って古城カールシュタイン城を訪れた。
カレル1世が神聖ローマ帝国カール4世に就任し、チェコが神聖ローマ帝国の中心になっていく輝かしい時代に居城とした城である。
農業国チェコを思わせる、広々とした緩やかな丘や森を抜けると、カールシュタイン城があった。

Image098 ブラダン・コチとはレコーディングスタジオを借りる話し合いをしたり、着々とレコーディングに向けての準備をしている。

来年3月13日、ブラダン・コチのコンサートを東京で行う。

彼は2度に渡って徴兵を拒否し、監獄に入れられた。
拒否した一つ目の理由は、人を殺すことはできないと思ったから。人を愛したいと思っていた。
もう一つの理由は、自分の良心を欺いたりごまかしたりすることはできないと思ったから。

奥さんのハナに、徴兵を拒否したときどんな思いでいたかと聞いた。

Image097 「夫と気持ちは一緒だった。何度もディスカッションして、私も夫と同じ気持ちになっていた。恐ろしい国だ。友達が去っていくことも覚悟していた。でも夫の判断が正しいと思った以上、どんなに国に踊らされても、何を失っても、夫の正しい判断を守ろうと思っていた。トーマスは3歳だった。収入もなくなり苦しかった」

Image094その後娘のルシアが生まれた。今バイオリンを学んでいる。
みんなが苦しみを知っているから家族は仲がいい。すべてのことを話し合い、すべてのことを理解しあっている。

日本のピアニストをプラハに送り込み、弦を中心にしたCD作りに取り組んでいる。迫力があり、染み渡るように温かで、魅力的なCDができそうだ。まちがいなくすごいCDになると思う。楽しみにしていてほしい。

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2008年8月15日 (金)

がんばらないレーベル第3弾

来年の春3月、がんばらないレーベル第3弾CDを発売する。今回は、良心の囚人ブラダン・コチのクラッシックCDである。プラハでそのCDのプロデュースに取りかかっている。

Image095 日本でたくさんの方にCDを買っていただくために、日本人の好きな曲を選ぼうと思っている。

ブラダン・コチがチェロの指導をしているプラハ音楽院の1900年代初頭の学長はドボルザークであった。そのドボルザークの「新世界」より「家路」、サラサーテの「ツィゴイネル・ワイゼン」、濃厚なアルゼンチンタンゴ等を、3本のチェロと1本のバイオリンで奏でようと計画している。もちろん「鳥の歌」も入れる。「故郷」「浜辺の歌」など日本の曲も加えたいと思っている。

ブラダン・コチの別荘でミニコンサートを聞かせてもらった。アメリカのジュリアード音楽院でチェロを学んでいる息子のトーマスが帰ってきていた。トーマスは今人生に迷っているという。ずっと音楽ばかり勉強してきて、周りから認められるようになった今、コロンビア大学の医学部の受験に合格した。来年から医学部へ通い、医師の勉強をしようと思っているという。ぼくはシュバイツアーのようだと思った。シュバイツアー医師は、アフリカでたくさんの恵まれない人を助けながら、有名なオルガン奏者でもあった。

同じくジュリアードでバイオリンの勉強をしているアメリカ人のガールフレンドも連れてきていた。将来を約束しているらしい。彼女は優秀なバイオリニストだった。しかしバイオリンを弾けなくなってしまったという。人間の心は複雑である。普段の生活はなんでもできるのに、バイオリンに触れても指が動かない。彼女も今、医学部入学を目指しているという。
トーマスは彼女のために神経学者になりたいという夢を持っている。

Image096 300ヤードも飛ばすゴルファーが、30センチのパターが打てなくなることがある。あまりにも夢中になり、やりすぎた結果、バイオリンが弾けなくなってしまったのだろう。いい加減がちょうどいいのだと思う。

*10月24日、集英社から新しい本の出版が決まった。タイトルは「いい加減がいいのだ」
  お楽しみに。

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カフカのプラハをさまよう

Image089 グレゴール・ザムザはある朝なにやら胸騒ぐ夢が続いて目覚めると、
ベッドの中の自分が一匹のばかでかい毒虫になっていることに気がついた・・・

フランツ・カフカはこの街で「変身」を書いた。
ぼくはいまカフカがさまよった街プラハに来ている。

Image091_2明け方いつものように起きだすと、カフカの街を歩いた。

小路がみな曲線を描いている。夜明けの薄明かりの中、モルドバ川まで散歩して、ホテルになかなか戻ることができなかった。ぼくはプラハの旧市街で迷子になってしまった。

カフカの匂いを感じながら、やっとのことでホテルにたどり着いて、もう一度ベッドにゴロンと横になった。ウトウトしながら、カフカの文章が頭の中に蘇ってきた。

甲羅のような硬い背中を下に、仰向けで彼は寝ており、ちょっと頭を持ち上げると、
丸く盛り上がった褐色の弓なりにいくつもの環節にわかれた自分の腹部が見えたが、
てっぺんには掛け布団がいまにもずり落ちそうになりながら、かろうじてなんとか踏みとどまっている。

プラハの朝に包まれて、ぼく自身が毒虫になっていくような感じを覚えた。

Image092朝ごはんを食べ、太陽の上がったプラハ城を散策し、一番楽しみにしていた黄金小路に入った。かつて錬金術師たちが生活していたという小さな小屋が並んでいる。頭をぶつけそうなくらい小さなドアを開け中に入ると、なんとも不思議な空気が漂っていた。

ダウンタウンの喧騒の中では小説を書くことができなかったカフカは、この黄金小路の小屋を借りて、昼間はサラリーマンとして働き、夜は小説を書き綴っていた。

カフカはプラハであり、プラハはカフカであるという言葉を聞いたことがある。プラハがあったからこそ、カフカはあの名作を書いたような気がする。

Image093 不思議な迷宮、美しい街。
どこまでも迷路のような道が続いている。
とてつもなく美しく、とてつもなく大きい。

不思議な街をぼくは今さまよっている。

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2008年8月14日 (木)

温暖化と原発

アル・ゴア元副大統領の「不都合な真実」は地球温暖化に大きな警鐘を鳴らし、ノーベル平和賞を受賞した。
しかしなんとなくぼくは好きになれず、ベストセラーになった本も映画も見たいとは思わなかった。

080711 週刊朝日によると、アル・ゴアの父親は原発推進派の可能性があり、アル・ゴア自信も原子力研究のメッカ、オークリッジ国立研究所に出入りしデータ協力を受けている。ここは原発を推進する研究機関である。
そして環境ファンドを立上げ、原子力発電の事業を世界的に展開しているGE(ジェネラル・エレクトリック)社に投資している。

温暖化を盾に原発推進のムードを作り出し、一時期原発を抑制したムードを一新し、いまや世界中で原発が建てられているという。
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)のラジェンドラ・パチャウリ議長は、第4次評価報告書の中で代替エネルギーとして原子力に言及している。
原発増設を訴えているのである。
そういえば日本でも7月末、2017年までに原発を新たに建設するアクションプランが閣議決定された。

080712 石油メジャーによって踊らされ、「温暖化なんて全くないのだ」といいながら石油で儲け、温暖化を認めない人たちがいる。
今度は原発を推進することによって利益をあげる原発メジャーが、温暖化理論を地球環境保護の名の下に利用しようとしている。
温暖化は間違いなくある。しかし原発を推進することが温暖化対策ではないと、きちんと理論立てていかないと危ない状況になってきたように思う。
アル・ゴアが代表を務めている環境ファンドは、約50億円分のGE社株を取得していた。

080718原発を推進することでお金を儲ける人たちが間違いなくいる。その人たちにとってみれば、理由はなんでもいいのである。
住民の反対意識を変えるには、地球温暖化というお題目はもってこいである。

しかしウランの埋蔵量には限界がある。おそらく70年程度くらいしかもたないのではないかといわれている。
石油は100年、天然ガスは60年、石炭は200年。資源にはどれも限界があるのだ。
地球温暖化のことを本当に考えるならば、天然エネルギーを大幅に取り入れていくことを考えなければならないだろう。太陽、風、水。

080716 今年の夏、ぼくの住む岩次郎小屋の屋根にソーラーパネルを取り付けた。電力会社に電気を売っている。
家の周りに木を植え始めた。夏を涼しく過ごすためである。夏の電力消費を少しでも減らそうと考えている。

写真は、岩次郎小屋のベランダ、家の前に立つニセアカシアの大木、小さな森、畑の野菜など・・・。

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2008年8月13日 (水)

豊かな資源に翻弄される国々

新疆ウイグル自治区の西部にあるカシュガルで警察官16人がテロで殺された。
独立派の五輪妨害かと報道されていたが、民主化した人たちの過激な民主化運動ととらえていいと思う。

なぜこんなことがおきるかというと、中国最大の天然ガスと油田が眠っている。中国政府は絶対に独立を認めないのである。

チェチェン紛争がどんなに激しくなっても、ロシアがチェチェンの独立を認めないのは、明らかにヨーロッパに通じる石油のパイプラインがチェチェンを通っているからだ。
この7-8年のロシアの繁栄を支えている命綱を、ロシアはどんなことがあっても放さないだろう。

スーダンで非人間的な虐殺の試合が行われているのも、実はスーダンにアフリカ有数の石油が眠っているからだ。

資源があることで豊かになり、資源があることで翻弄され自由な国になれないという矛盾を内包しているように思う・・・。

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2008年8月12日 (火)

北極点の薄氷

ぼくは行った北極圏へ行ったが、北極点へは行けなかった。
今年の夏、その北極点に潜水艦で旅した人がいる。
北極点に上陸するはずだったが、氷が非常に薄くなり北極点に立つのは危険とされ、見るだけに終わったという。

0712_04s 田中優さんからインディペンデント紙が発表したIPCC(気候変動に関する政府間パネル)第4次評価報告書の概要を教えていただいた。
100年後の気候変化の予測結果は、人類が対策をきちんとはじめた場合、2.4℃の上昇、最悪の場合、6.4℃の上昇ということである。
2.4℃上昇すると、グリーンランドの氷床の溶解がとまらず、山脈の氷河が消え、1千万人の人が水不足に苦しむ。また海面上昇が加速し、海に浮いている環礁の小さな島国や、低地デルタ地帯は海に沈む。
6.4℃上昇すると、メタハイドレードが噴出し、すべての生命は絶滅するとインディペンデント紙は予想している。
氷床は解け始めていた。実際にもう大変なことがおき始めている。
もし3.4℃上昇すると、北極の氷は夏消滅し、ここ300年で初めて北極に氷のない状態ができる。北極グマ、セイウチ、ワモンアザラシが絶滅する。
南アフリカを越えてカラハリ砂漠が広がり、数千万人の人が立ち退きを余儀なくされる。

もうすでに今年の夏、北極点の氷は異常に薄い状態にある。1ヶ月ほど前に北極点を訪れた人の話だ。夏のピークを迎えている今、北極点の氷はどうなっているだろう・・・。

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チェチェルスク~ベトカ

チェチェルスクを訪ねた。新しい病院長が就任していた。JCFが寄付した超音波の機械は1日18~25例ほど大活躍しているという。ゴメリ市にある病院の副院長をしていたようだ。有能な管理者にみえた。
ルカシェンコ大統領の体制の下、指名された院長なので、本当に信頼できるカウンターパートとなるかは、慎重に見てかないといけないと思った。

映画「ナージャの村」のナージャのお母さんに会った。ドゥヂチ村から引っ越して、チェチェルスクの地区病院の真裏に住んでいる。アルコールが大好きだった夫は5年前に亡くなったという。ナージャはゴメリ市で洋服を作る工場で働いているという。三女は結婚して一児の母となっていた。生活は厳しそうである。

0812 今回の旅の最大の目的地、ベトカを訪ねた。チェチェルスクより放射能汚染度の高い地域が、町の真ん中に広がっている。
ベトカ地区病院のナジェージダ院長は、すばらしい女性だった。まるでゴメリ州立病院のタチアナ先生の妹分のような空気を持った人だ。
ナジェージダ先生は、JCFが寄付した保育器を嬉しそうに見せてくれた。産婦人科医である。出産で未熟児が生まれたとき、どうしてもほしかったのだろう。ベラルーシ全体で4つしかない優れた保育器だと、うれしそうに語ってくれた。

ベトカの地区病院には35名の医師がいる。チェチェルスクの地区病院の医師は30名。ベトカのほうが病院も綺麗で、活気にあふれていた。分院は脳卒中や整形外科の患者たちが2週間半ほどのリハビリ入院をする施設となっていて、5名の医師がいる。医療費は無料である。
ナジェージダ先生は、その他に15の診療所を管理しているという。内2つの大きな診療所には医師が2人ずつおり、残りの13の小さな診療所には、フェイシャルという専門家が配置されていた。看護師資格を得た後、もう1年勉強して取得することができる、医師と看護師の中間のようなライセンスで、医師と相談しながら薬を投与することもできる。午後は往診し、健康指導をする。アルコール依存症の患者の生活指導をしたり、高血圧の患者の血圧を測って歩いたりしている。
ぼくの地域では、保健師さんを中心とした健康づくり運動をやってきた。似ているなと思った。日本の保健師よりもっと色々な権限をフェイシャルに与えているところがユニークである。ぼくはなかなか良いシステムだと感じた。

真ん中に60~100キューリ以上の汚染が残された森がある。人が全く住めない。埋葬の村がいつくもあり、そのうちの2ヶ所には、国の立退の支持に従わず放射能の汚染地域に残って生活しているサマショーロと呼ばれる人たちがいた。9人と2人の2つの村である。
9人の村を訪ねた。ナジェージダ先生の患者がいた。ナジェージダ先生の顔を見ると、おじいちゃんはバツの悪そうな顔をして、タバコを隠した。ナジェージダ先生はそれを見つけると「吸わない約束だったじゃない」とニコニコしながら言った。

ナジェージダ先生は、病院を歩いているときも、常に患者に声を掛けたり、スタッフの背中に手を当てたり、診察中の若い女医に激励の声をかけたり、院長としてなかなか優れたリーダーシップを見せていた。彼女より10歳くらい年上の医師の診察室にもつかつかと入っていき、ぼくに外来風景をみせてくれた。年上医師もナジェージダ先生に対しては尊敬の念を持っているようである。
掃除のおばさんがぼくに、「院長はすばらしい人だ」と声をかけてきた。タチアナの生まれ変わりのように見えた。「命がけで仕事しています」と笑いながら言う。まだ46歳。41歳のときに院長になった。ぼくは31歳のときに院長の辞令をもらった。似ている。

埋葬の村で、おじいちゃんと立ち話をしていると、次々と村の年寄り達がやってきた。ホールボディカウンティングをすると、やはり体内被曝をしている人が多い。ベトカの地区病院にはホールボディカウンターがあり、昨年は56名の市民が高度の汚染をしていることがわかった。今年はすでに年前半期で24人、新規の高汚染者が見つかった。高汚染者たちは年2回の詳しい検診を行いながら、癌の早期発見ができないか、慎重にフォローしているという。なかなかのシステムを作り出しているように思えた。

大人の甲状腺癌が増えていると心配している。癌は相変わらず多いが、この数年急に数値が変わっているわけではない。ベトカは真ん中が高汚染地のため、人の住む場所が南と北に二分されている。そこをナジェージダ先生はいったりきたりしながら、15の診療所を管理している。

南北の村は放射能の汚染があまりひどくないといわれているが、15~40キューリ以上の汚染が多くの場所で観測されている。汚染が40キューリを越えた土地の住民は、強制疎開させられるが、40キューリ以下の土地では、そこに住むかどうか自分で選択ができる。多くの市民がそのままの生活を選んでいるという。それでもチェルノブイリ原子力発電所の事故当時約4万人だった住民は、現在約2万人になっている。高汚染地で生活するということはとても大変なのだ。しかしここで生活せざるを得なくて残った人がいる以上、できるだけ良い情報を流して生活指導をしながら、少しでも被害を少なくするよう食い止めるのが医療の役割なのだろう。ナジェージダ先生は実に優れた仕事をしていると思った。

地区病院と分院を見学し、埋葬の村を見た後、ナジェージダ先生のダーチャ(別荘)へ行った。病院の婦長がお昼ご飯の準備をしていてくれた。すばらしいご馳走である。にくい心配りである。スタッフたちがナジェージダ先生を信頼し、色々な面で支えていることがよくわかった。

今も広い放射能の汚染。情熱的に市民を守ろうとする地域医療。民主的な運営をしている病院。きちんとしてくれそうである。カウンターパートナーとしては最適な人をみつけたように思った。

今後、南北の村の人々の生活を観察していくとともに、高汚染地の森や失われた村、そしてその村に残っている人々の心や体のケアをしていくことが大事だと思う。

世界中が温暖化を盾に原発推進ムードに走り出している。原発に慎重だったアメリカも原発容認へ舵取りをし始めた。環境を重視してきたヨーロッパも温暖化哲学に負け、原発建設へ動く国がいくつか出てきた。日本でも福田首相が、再び原発建設に向かうアクションプランをこっそり小さな声で発表している。今ある原発を壊せとはいわないが、原発を作ることに慎重であったほうがいい。もう一度、自然エネルギーを見直し、できる範囲での省エネを試みるべきだと思う。

ベトカを見て、原発の恐ろしさをまざまざと感じた。チェルノブイリ原子力発電所の事故から22年が経っているにもかかわらず、森は蘇っていなかった。
「きのこを食べるな」「ベリーは食べちゃダメ」と村人たちは相変わらず合言葉のように言い合っている。それでもお年寄りは森に入り、きのこやベリーを食べ、体内被曝してしまう。なんとも悲しい話である。

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2008年8月11日 (月)

許せないODAの贈賄を考える

日本の政府開発援助は、数年前までアメリカを抜き世界1位を走っていた時期がある。
しかし世界一の金額の支援をしても、なかなか日本の政府開発援助は世界から尊敬を集めなかった。世界を見ていて、そんな感じがいつもしていた。

080715 ドイツの北側、オーバーハウゼンにあるドイツ国際平和村には何度も通った。なぜ日本ではこれができないのだろうか。ぼくらのNPOに毎年3億円くらいのお金を政府が託してくれれば、世界の戦争に傷ついた子どもたちを日本で助けることができる。外国へ緊急医療支援へ駆けつけることもできる。そう考えていた。

もちろん最近、外国の災害等に対して緊急支援を送る日本の力は一歩前進していると評価はしている。しかしぼくらの国はなぜ他国から尊敬されるような途上国援助(ODA)ができないのか、いつも疑問に思っていた。

今回、パシフィックコンサルタンツインターナショナル(PCI)の贈賄事件でその理由がよくわかった。
ベトナムへの支援に9000万円の賄賂を使っている。現地に道路を作るプロジェクトである。
以前にもフィリピン、コスタリカ、モンゴルへのODAにからみ、不正が摘発されている。
不正の問題以外でも、巨額のお金が途上国へ支援という形で流れても、その国にとって本当に必要な支援でない場合が多い。例えば、日本製品の使用が条件とされていたりするのだ。

4年前、イラクのドクターたちとカンファレンスをしてびっくりした。
腹腔鏡の最新型機械の支援が盛り込まれていた。
イラクの小児癌の専門家たちは戸惑いながら話してくれた。
「今は子供たちを救うための最小限の薬すらない。手術で傷が小さく綺麗に縫える腹腔鏡の機械は、5年先にイラクが安定した社会となったときに必要だ。今は無用である」
その通りだと思った。

税金をもっと有効に使うためには、コンサルタントという業種に頼り、甘い汁を吸われてしまうのではなく、支援に入っている民間人の知恵や感覚を、政府はもっと勇気を持って利用すべきである。
福田首相は、今後アフリカ支援などたくさんの支援を約束している。
アフリカ支援をしているNPOの声を聞き、ぼくたちの税金が本当に困っている発展途上国の人々を救うために使われるよう、有効な支援をしてほしい。

Fujinkoron ★今発売中の婦人公論をご覧下さい。

特集 「いつも笑顔でいる心の秘訣」 
~弱い自分を認めてあげよう~

巻頭で鎌田實がニコニコ顔でインタビューに答えています。

※右上の写真は、岩次郎小屋の庭の小道

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ゴメリより

フランクフルトで一泊した翌早朝、ベラルーシ共和国へ向かった。

飛行機から降りると、17年来のつき合いの通訳エリーナ・ネコちゃんと、なじみの運転手が待っていてくれた。時速120キロで飛ばして約4時間、ゴメリ市のツーリストホテルへ向かう。

17年前の1月、雪の夜。ぼくたちは同じようにゴメリ・ツーリストホテルを目指していた。スパイクタイヤもスタッドレスタイヤもなくノーマルタイヤで、時速100キロで飛ばした。途中、車のフロントガラスが割れ、凍え死にそうになりながら、命からがらホテルにたどり着いた。冷えきった体を温めようと裸になってシャワルームへ飛び込むと、シャワーのお湯はでなかった。水しかでないのである。唖然とした覚えがある。それ以来このホテルを利用している。
最近三ツ星ホテルになったという。17年前に比べると表面的にはだいぶ綺麗になった。しかし、変わらなかったのである。シャワーのお湯がでない。17年たっても、ホテルのシャワーは変わらなかった。

夜、町の中心部のレストランで食事を終えると、道端でばったりコトフさんの娘さんに出会った。以前コトフさんと一緒に来日したこともある。そのコトフさんは10年ほど前に亡くなった。

コトフさんはゴメリ市の執行委員会の重鎮だった。JCFのこととても気にいってくれて、7年ほど大変お世話になった。

ホテル代を安くしてくれるよう交渉してくれり、ゴメリ医科大学、ゴメリ市、JCFの共催でチェルノブイリの健康被害の学会を行う根回しをしてくれた。
ゴメリ医科大学の学長を説き伏せ、保健省の当時の大臣を呼び、ベラルーシだけでなくロシア、ポーランドの研究者を招いた。日本からは信州大学の甲状腺を専門にする飯田教授(当時)、現在信州大学の学長をしている小宮山教授にも出席してもらい、子どもたちの健康被害についてのシンポジウムを行った。
放射能の高汚染地域チェチェルスクの支援の間をとってくれたのもコトフさんだった。

乳がんで亡くなった小児科病棟の部長、タチアナ先生と同じように、JCFの支援を最も支えてくれた立役者の一人である。

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2008年8月10日 (日)

日本の医療は沈没する

Chuokoron_2 中央公論9月号
「日本の医療は沈没する」

近年、危機を指摘されながらも悪化の一途を辿る医療。
さらなる破滅のシナリ オが明らかになった

〈医療崩壊に対応できない政治家、官僚たち〉
あまりにも現場を知らなすぎる!
「最も困るのは患者さんです」(鎌田)

鎌田實と、作家で医者の久坂部羊さんとの対談です。
後期高齢者医療の良い点も悪い点も明確に表現しています。
ぜひお読みください。

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フランクフルトより

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0810_2

今、フランクフルトにいます。
明日、ベラルーシのゴメリに入り、チェルノブイリの放射能汚染地帯ベトカを訪れます。

その後、スイスで講演を行い、チェコ・プラハでブラダンコチに会う。徴兵を拒否して牢屋へ入れられ、アムネスティ・インターナショナルから救出されたチェロ奏者である。何度も諏訪中央病院へボランティア・コンサートへ来てくれている。

ぼくがチェコの彼を訪ねるのは初めてだ。彼が、“がんばらない”レーベルに協力してくれることになったのだ。“がんばらない”レーベル第3弾CDは、初めてのクラッシックである。チェロの美しい音色をCDに収録してくる予定だ。どんなCDになるか、どうぞお楽しみに。

CDの売り上げは、チェルノブイリやイラクの傷ついた子どもたちの医薬品代になります。ぜひご協力ください。

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2008年8月 9日 (土)

第18回ホスピタルコンサート

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Dsc01092第18回ホスピタルコンサートを開催した。
みなすばらしい演奏ばかりだった。

93歳とは思えぬ青木十良先生の優しい調べのチェロ。
下野昇先生、岩崎由紀子先生のソプラノテノール。

峰岸壮一さんのフルート”精霊の踊り”はやさしく美しいフルートだった。
伊藤京子さんの朗読も観客を沸かせた。
奈良 真潮さんのリストもすばらしかった。
三咲順子さんのメルヘン一人語りも昨年に引き続き、大好評。
Dsc01100

最後は夏の思い出をみんなで合唱した幕を閉じた。
今回もすばらしいコンサートとなった。

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長崎に原爆が落ちた日

今日は長崎に原爆が落ちた日だ。あれから63年。

ぼくたちJCFは数年前、永井隆 平和記念・長崎賞という賞を頂いた。チェルノブイリ原子力発電所事故後の放射能汚染地域の子どもの救援活動を評価され、永井隆先生の賞を頂いたのである。

永井先生は、放射線科の医師であった。長年の放射線研究による被曝で慢性骨髄性白血病を患っていた。余命宣告を受けた後、長崎医科大学で仕事中、長崎に原爆落ち、直下で被爆した。
体調がわるくても、医師として被爆者たちの救援を行い、さらに病状が悪化すると、寝ながら顕微鏡をのぞき、白血病の研究を続けた。
同時に「長崎の鐘」や「ロザリオの鎖」、「この子を残して」など、本を書き続けた。
住まいとした如己堂はたった2畳の粗末な平屋である。
印税などの収入は被爆して困っている人のために使ったという。

「長崎の鐘」
こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る
(詩:サトーハチロー 曲:古関裕而 歌:藤山一郎)

歌も映画も小説も大ヒットした。

天皇陛下、ヘレンケラーなどが永井先生のもとを見舞った。
そして、二人の子ども達に見守られ、永眠。43歳であった。

ぼくたちが永井隆賞を受賞したとき、永井隆さんのご長女、茅乃さんが舞台に立ち、スピーチをしてくれた。茅乃さんは普段、永井隆賞の授賞式には顔を出されるが、舞台でスピーチをしたことは今までなかったという。
「父は、東京の学会で白血病の発表を行った後、東海道本線に乗らず、中央線に乗って名古屋経由で長崎へ帰ってきました。
そのとき父は、車窓から見える八ヶ岳山麓の美しい景色に心を奪われました。
私の名前は、そのときの美しい思い出の中で作られたのです」

そう、なんとぼくの住む茅野(ちの)市のことである。
「茅」の読み方を「かや」と変え、「野」の字を「乃」と変えて、「茅乃(かやの)」という名前を娘につけたのだ。ああすごい、とぼくは思った。不思議な縁である。

永井先生の本の中には茅乃さんのことがたくさん出てきる。大変愛されていた。
ぼくがお会いした当時、茅乃さんは60代半ばだったと思う。
その茅乃さんも数年前、癌でお亡くなりになった。
やはり被爆が遠因だと考えられる。子どもの頃被爆し、幹細胞の遺伝子に傷がつき、長期間かけて癌化する。被爆したひとたちが重複癌をわずらうことはよく報告されている。
こんなおそろしい武器、核兵器が、いまだに世界中にたくさん存在していることは信じがたい事実である。

今日は静かに、世界の平和を祈りたい。

今日これから、諏訪中央病院でホスピタルコンサートが行われる。
いままで8月9日に重なったことは不思議と一度もなかった。
今日のコンサートは「レクイエム(鎮魂歌)」である。

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2008年8月 8日 (金)

ミュージカルCATS

「一度ミュージカルを見にいらっしゃいませんか」
劇団四季から声がかかった。音楽も芝居も大好き。すぐに「見ます」とお答えした。
しかし忙しくてスケジュールの空きがなかなか取れず、何度も日程の変更をお願いし、ようやくCATSシアターへ足を運ぶことができた。

3週間程、北極を回る旅にでていた。オランダから船に乗り、ノルウェー、アイスランド、グリーンランドと、氷山や氷河を見ながら北極圏の海を渡り、1週間前にNYから日本へ帰ってきた。

NYではブロードウェイ・ミュージカルRENTを見た。生きることの意味、人生、そして死を考えさせられるストーリーが、心地良い音楽でつながれていく。なかなかみごとな出来ばえであった。

Cats CATSシアターに一歩足を踏み入れると、おっと驚かされた。都会のごみ捨て場が見事に演出されている。見世物小屋的な楽しさがあふれている。都会の中に怪しい空間があることが大事なのだ。劇場は都会の闇の空気に包まれていた。1200人の客席がうまく配置され、圧迫感がない。良い芝居小屋だと思った。

オープニングで引き込まれる。魔女猫タントミールの出だしの静かなダンスが、なんとも怪しく美しい。訓練されたダンス。異常に長い手足と、それをさらに何倍にも長く魅せるような踊りと照明。このオープニングを見た瞬間、「あ、日本のミュージカルもなかなかやるな」と思った。

しかしなんだかちょっと白けてしまうところもあった。
日本語と音楽がどうもマッチしないのである。
本来英語の詩につけられた音楽。
歌にするつもりで詞が作られたのではなく、詩人エリオットの言葉に後から音楽がつけられた。
おそらく作曲したアンドリュー・ロイド=ウェバーは、エリオットの英語の詩を繰り返し暗誦しながら、自分の心の中に旋律が舞い降りてくるのを待ったはずである。

今年5月、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの「星の王子様」をフランス新鋭の作曲家アルベルトがオペラにして、紀尾井ホールで初演を行った。
非常にすぐれた楽曲であった。オリジナルに作り直された日本語訳の詩も素晴らしかった。にも関わらず、それがオペラとなったとき、おそらくフランス語でこれを聞いたら何倍も素晴らしいだろうなとそのときも思った。

日本語の歌詞が説明口調になってくると、熱くなりかけた心に水をかけられるような気がする。
CATSはもともとそれほどストーリー性のないミュージカルなので、いくつかの音楽は英語の原曲でやっても、日本の観衆もついていけるのではないかなと感じた。

昼間は一切動かない物ぐさな太ったおばさん猫ジェニエフ・ドッツは、確かにおもしろいキャラクターだが、中肉でなんだか物足りない感じがした。中途半端はよくない。もっと本気で太っている猫が一匹くらいいてもよかったのかなと思った。

個性が求められる海賊猫グロールタイガーや長老猫のオールド・デュトロノミーなどの歌唱力もちょっと問題がありそうな気がした。それほど引き込まれなかったのだ。

に娼婦猫グリザベラはもっとカリスマ性があってもいい。
ボロボロ猫の向こう側に光り輝く何か、それがなかなか見えてこなかった。
ちょっと残念な感じがした。難しい役どころなのだろう。

とはいいつつ、もちろんその後ぼくは、圧倒的なダンスや声量や音楽にぐいぐいと引き込まれていった。

若い黄色いメス猫シラバブの「メモリー」は圧巻。
若いオスのマジシャン猫ミストフェリーズの歌やダンスには感動した。
ガラクタから機関車を作り出した、気のいいオス猫スキンブルシャンクスの声は魅力的で、白猫ヴィクトリアのダンスも神秘的で素晴らしかった。

俳優たちの圧倒的な運動力には脱帽した。
1階と2階を鉄柱をつかって自在に登り降りし、ステージと客席を疾走する24匹の猫たち。
そのフットワークは、まさに猫そのものであった。
客席に入り込んでくる猫たちの息遣いや親近感は、このCATSシアター2004の構造とマッチし、見事な演出だと思った。

総合的に判断すると、日本のミュージカルもなかなかすごいと思った。

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2008年8月 7日 (木)

第三国定住制度導入について

昨秋、「黙っていられない」(マガジンハウス)を共著した池田香代子さんからFAXを頂いた。
難民受け入れに関するぼくのワキの甘い評価に対して、厳しいチェック。さすが、なるほど、と思った。

池田さんのお許しを頂きましたので、ここに掲載します。読んでください。

カマタクン、お元気ですか。池田です。

お忙しいと思い、FAXにします。
「毎日が発見」、送られてきました。
 (鎌:←ぜひ読んでください)
読んでみようかなと思わせる、彩り豊かな誌面になっていて、さすがと思いました。

ある方から、カマタクンがなんとブログをなさっていると聞いて、きのうのぞいてみました。
よくそんな余力がおありですね。
つくづくすごいと思う。

船旅の記録は、ゆっくり読ませていただこうと思います。
いいなあ。

直近の、第三国定住制度導入について。

難民キャンプでじかに切実な訴えを聞いているカマタクンが、これを歓迎する気持ちはよくわかります。
わたしも、難民鎖国日本の扉にほんのわずか隙間が開いたと思う。
でも、UNHCR認定難民だから日本としては構成で迅速な認定ができる、という政府の説明には釈然としません。
日本に逃げてきている難民の人たちとかかわる立場からいうのだけど、UNHCRが認めたマンデート難民でも、これまで法務局は偽難民だといいはって、追い返してきたんです。
それで強制帰国させられて逮捕され、拷問を受けた人はたくさんいます。
だから、よくもまあぬけぬけと、というのが本心だけど、そこはおとなとして、いいことをしようとするムキは褒めないと、と思います。

恐いのは、日本で難民申請をしている人たちが、これまでに増して冷たい仕打ちを受けないか、ということです。
わが国は第三国定住制度によって一定数の難民を受け入れているのだから、その一方で日本国内の難民申請者にはこれまでより厳格に対処する、なんていうお役所の論理がまかりとおたらたいへん、よーく目を光らせていないと、と身構えてしまいます。

ブログによると、かなりむちゃな移動をなさっていますね。
わたしだけじゃないんだ。
ちょっと安心。

                                       池田 香代子

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病院の中庭で

080702080701_2 諏訪中央病院の庭の写真を撮りました。

緑がきれいです。

080705こちらはホスピスに入院中の肝臓がんの末期の患者さん。
「緑の託老所に行ってきます」と、酸素を吸いながら車椅子で庭へ出て行く。

肋膜にも転移があり、胸水がたまり、過大静脈の閉塞もあり、両下肢の浮腫が多い。
いつも本を持って、この緑の木陰で1時間を過ごすのが、この方の日課である。
あたたかな穏やかな背中が、なんともほほえましい。

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2008年8月 6日 (水)

8月6日原爆の日

広島の平和記念公園の中にある、「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子さんは12歳で白血病でなくなった。
サダコと同じ病室で入院していた大倉記代さんは、サダコと一緒に折った折鶴を守り続けてきた。
「想い出のサダコ」を出版し、サダコ・虹基金を設立。被爆で苦しむ子どもたちの救援活動を行ってきた。

記代さんは、数年前からJIM-NETに寄付をしてくれている。
記代が亡くなった。卵巣がんだった。全身に転移していった。
記代さんの意思はJIM-NETに引き継がれることになった。
サダコのご両親から記代さんに託されたサダコの鶴も、JIM-NETの佐藤真紀にバトンタッチされた。

原爆にあって生き延びた人たちは、被爆しなかった人に比べ、白血病や癌になる確率が高くなっている。
原爆投下から数年後に慢性骨髄性白血病が急増し、ピークが終わった後、乳がんや胃がん、あるいは骨髄が抑制されるMDS等が次第に増えていった。
被爆者の癌死亡者は、2040年までに2万7千人に達すると予想されている。
原爆投下直後に生き延びた人たちの多くは、結局は癌になってなくなっていくという現実がある。
おそらく、幹細胞の遺伝子が傷つけられたため、長い時間を経て癌化を起こしている可能性が高い。

核戦争はどんなことがあっても止めなければならない。微量の放射能だからたいしたことはないといっても劣化ウラン弾を安易に他国に投下するのはやめるべきである。
自分の国に投下されれば、完全撤去するだろう。
今、イラクでは街の中にゴロゴロと劣化ウラン弾が放置されている。
今日もサケルという白血病の少年が亡くなったと悲しいメールが入った。

0803_1 8月1日、21歳のお客さんがベラルーシの放射能汚染地域からやってきた。ジーマ君。17歳のときに白血病にかかった。
チェルノブイリ原子力発電所が爆発したのが22年前、1986年4月26日。彼はまだ生まれていなかった。
お母さんのお腹の中で、放射能の影響をうけたかどうかは定かではない。

ぼくたちJCFが1991年1月に訪ねたミンスクのドクター・オリガの病院で、彼は治療を受けた。白血病を克服して元気になり、医学の道を志していた。
1996年チェルノブイリの健康被害を検討する学会をJCFとゴメリ医科大学の共催で行った。ジーマ君は、そのゴメリ医科大学の医学生となった。

0801_2 0801_3 奥志賀高原ホテルのJCFのチャリティ・ジャズ・コンサートに参加し、みなさんから温かな声をかけてもらった。一緒に草津温泉にも入った。

草津温泉の帰り道、菅平のお蕎麦屋さんに立ち寄って、イモ汁や蕎麦やモツ煮など日本的な食べ物も経験した。
ぼくがずっと来たかったお店である。忙しくてなかなか訪ねる機会がなかったが、今回やっと約束が果たせた。
このお蕎麦屋さんを切り盛りしていたおばあちゃんは、亡くなる数日前、同じく癌を患っているご主人のおじいちゃんと、痛みをこらえながら、諏訪中央病院の即席ダンスホールでラ・クンパルシータを踊った。そのご夫婦のお店である。夏の盛り、店は大変繁盛していた。

二酸化炭素と温暖化を理由に、再び原発肯定論が世界を闊歩し始めたが、原発にも大きな危険がある。
CO2の排出が少ないということで、温暖対策のエネルギーともてはやされているが、
長期間使用した後の廃棄の問題を考えれば、コスト的にも、健康被害のリスクの上でも、安易に原発に頼るのは良いことではないと思う。

ジーマ君は、1週間信州大学で勉強し、その後1週間長崎大学で勉強し、ゴメリへ帰る。

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2008年8月 5日 (火)

学生たちと

080703 医学部の学生が毎週毎週たくさん諏訪中央病院に研修に来ている。
今日は1時間ほど3人の医学部の学生と、緩和ケア病棟の回診をし、意見交換を行った。

中国から看護学校に留学してきて勉強をしているチョウさんは、夏休みに中国へ帰らないというので、昼食に誘った。久しぶりの森のレストラン、カナディアン・ファームである。

大きな釜戸で焼いたハンバーグや、遠赤外線でじっくり焼かれた鶏肉。皮がパリパリでとてもおいしい。

チョウさんはよく勉強し、礼儀正しく、言語のハンディを跳ね飛ばし、2年生のときには卒業式で在校生代表として送辞を読んだ。

今まで6人の中国人留学生とお付き合いしてきたが、皆努力家で素直で、日本の文化にも溶け込んでくれて、優秀な学生たちが多い。日本で良い時間を過ごしてもらい、日本と中国が仲良くやっていける橋渡しをしてくれるといいなと思っている。

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2008年8月 4日 (月)

終末期医療について

元岐阜県知事の梶原さんがやってきて、茅野市長などと昼食をとった。
健康医療市民会議信濃を茅野の市民たちが立ち上げた。梶原さんはその全国版の代表である。市民が自ら健康や医療について意識を高め、医療を変えていく必要があるのではないかというのが梶原さんの考えのようだ。

080704 安らぎの丘の回診、予約外来、東京の方二人の新患。ぼくにとっては電子カルテ化の初めての日である。クラークがついてパソコンのしくみを教えてくれているが、息を合わせるためにはまだまだ時間がかかりそうである。地獄の外来となった。しばらく外来はとてもステレスフルになりそうである。穏やかな気持ちで診察をし続けるよう注意しなければいけないと思った。

終末期医療について

終末期医療について、読売新聞が全国の3百床以上の病院にアンケート調査を行った。

終末期医療に問題があるとした病院は91%。大変病院が疲れていて、きめ細かく温かな終末期医療がやれていないと病院自体が自己批判している数字でもある。

終末期の延命中止が2割行われているが、ガイドラインどおりたくさんの患者や家族を巻き込んだ形で延命中止が意見がまとまることがあまりないということも、アンケート調査でわかってきた。

こうして考えてみると、後期高齢者医療制度の終末期医療相談料が2週間くらい前に点滴をことや人工呼吸器につないで欲しくないことなどを本人に確認することによって、2000円もらえるという制度は、大変批判がでた。そのとおりである。
この制度は感性の鈍いどうしようもない制度だと思う。

しかし終末期のあり方を、本人が元気なときに自分はどうしてほしいかと言っておき、それをできるだけ守ってあげられるようにすることは、新しい医療の流れだったはずである。

後期高齢者医療制度に、終末期の問題にふれたこと自体はそう悪いことではないのではないかと思っている。

ヒステリックに、後期高齢者医療制度のすべてが悪いと批判するのではなく、終末期のあり方を強制ではなく、患者さん自信が選べて人工呼吸器などは自分で必要ないと思う人は、必ず2~3割りいるはずで、その人たちがその思いがちゃんと達成できるようにすることは問題がないように思った。

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2008年8月 3日 (日)

社会保障費の抑制

ずっと福田政権がやってきたことを批判し続けてきたが、この頃少し方向転換しだしているかなと思っている。

ぼくは、社会保障費2200億円の抑制をやめるべきだと主張してきた。
2009年予算の概算要求基準(シーリング)の中で、社会保障費2200億円の抑制をやめるわけではが、3300億円程度、社会保障費や環境などの重点化枠に振り向けるという。
つまり、差し引き1100億くらい、環境、医療、福祉にお金が回ってくる可能性が出てきたということだ。これは大歓迎である。

確かに財政赤字の建て直しは必要である。日本国家として赤字の解消が行われていない状況は、世界から見てもまずいだろう。財政赤字のことも考えながら、重点項目を見直すという点では、柔軟性のある良い案だと思う。
医師不足なども大きな重点項目の一つとして捉えられているようである。

なんといっても良いのは、公共事業費や防衛費などの削減を行って、3300億円程度のお金を作るということだ。これが政治の仕事である。
もちろん公共投資が必要だった時代もある。しかし、無駄な道路、無駄なダムの建設をやめ、防衛費を削って、環境や社会保障費に回すというのは、大変いいことだと思う。

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2008年8月 2日 (土)

療養病床・低炭素社会づくり

2012年までに、35万床の療養病床を18万床へ減らす計画を修正し、22万床にすることが決まった。4万床増えたのである。

老人のベッドが18万床まで減ることについては、大変なことが起こると感じていた。
医療費の抑制だけを最優先に考えた机上の理論だと批判してきたが、やっとそのことに気がついて、緩和措置を行われることになった。患者が行き場を失うという点については、若干ではなるが、改善されることとなった。

福田政権は相変わらず人気はないが、このところ実はちょっと舵取りが変わってきだしているのではないか、と思うようになりつつある…。

政府は温室効果ガス排出を大幅に減らすため、低炭素社会づくり行動計画の中で、太陽光発電機の価格を3-5年後に半額程度にする政策を打ち出した。これはすごいことである。

日本の太陽光発電の導入は2004年まで世界一であった。しかしそれが小泉首相の時代に環境に手を回さなかったため、2005年ドイツに抜かれ、大事な時期に政府は、世界の先頭を走る企業を持ち上げることも怠ってしまい、後手に回ったのだ。そのことは大変不満に思っていた。

080720_2 ぼくは岩次郎小屋を300年もたせようと思って建てた。
今年春、20年使ったウッドシェイクの屋根をやめ、迷った挙句、太陽光発電機のついた屋根に替えた。見栄えは少し悪くなり、もちろんコストはかかったが、満足している。
電力会社に電気を売るようになった。ソーラーパネルのついたカバンというのも買ってみた。旅行中も携帯電話などの充電は太陽光発電で行うよう努力し始めている。

住宅向け太陽光発電機の価格は現在、2~300万円。3~5年の間にそれを半額程度に引き下げられるよう、迫真的技術を作り出すために、政府が新たな応援するという。これは大変良いことだと思う。
電力の節約は大事である。LETを使った電気は徐々に自宅の電気を変え、消費電力を少なくする努力をしている。

080710しかし同時に政府はドサクサにまぎれて、低炭素社会作りの行動計画の中に、原子力発電の建設について、2017年度までに九基の建設をしようとしている。これは発想がおかしいと思っている。

電気のピークに電力供給量を不足させないために原発をつくるれば、高い電気を買わざるを得なくなる。
夏のある時期を除けばあまった電力を作り出しているのだから、夏の一時期の電力消費量を減らす政策を講じることの方が重要だ。そうすれば、新規の原発を7基も作る必要はないだろう。
老朽化し廃棄するときの危険やコストを考えると、簡単に低炭素行動案の中に原発をコソコソと作るのはいかがなものかと考えている。

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2008年8月 1日 (金)

ダグラスファーの息吹

「植物文化考」と題して、望月昭氏。
ランドスケープ・アーキテクトの専門家らしい。
彼が書いた「心の木(しんのき)ダグラスファー」というエッセイを読んだ。

木の発する息吹が満ち溢れ、
気持ちをくつろがせ、
時の経つのをすっかり忘れさせ、癒してくれる。
巨木の持つ冷静・・・

080726_2 カナダには樹齢800年のダグラスファーの巨木があるらしい。
この文を読んでいて、ぼくの住む岩次郎小屋の丸太のことを思い出した。
カナダのダグラスファーである。樹齢200年、直径40センチ。

「200年経って育った木は、大切に使えば200年はもつ」
と、マイルスポーターという世界的に有名なカナダのログビルダー建てもらった。

確かにダグラスファーの息吹が感じられるのである。
200年の樹齢ではあるが、木の持つスピリチュアルな何かを感じさせてくれる。

忙しく飛び回りながら、岩次郎小屋に帰ってくるとほっとする。
父岩次郎のために作った丸太小屋だが、
その木の持つ大いなる力に癒されている毎日である。

(写真は岩次郎小屋のテラスでの朝食)

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