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2008年8月11日 (月)

ゴメリより

フランクフルトで一泊した翌早朝、ベラルーシ共和国へ向かった。

飛行機から降りると、17年来のつき合いの通訳エリーナ・ネコちゃんと、なじみの運転手が待っていてくれた。時速120キロで飛ばして約4時間、ゴメリ市のツーリストホテルへ向かう。

17年前の1月、雪の夜。ぼくたちは同じようにゴメリ・ツーリストホテルを目指していた。スパイクタイヤもスタッドレスタイヤもなくノーマルタイヤで、時速100キロで飛ばした。途中、車のフロントガラスが割れ、凍え死にそうになりながら、命からがらホテルにたどり着いた。冷えきった体を温めようと裸になってシャワルームへ飛び込むと、シャワーのお湯はでなかった。水しかでないのである。唖然とした覚えがある。それ以来このホテルを利用している。
最近三ツ星ホテルになったという。17年前に比べると表面的にはだいぶ綺麗になった。しかし、変わらなかったのである。シャワーのお湯がでない。17年たっても、ホテルのシャワーは変わらなかった。

夜、町の中心部のレストランで食事を終えると、道端でばったりコトフさんの娘さんに出会った。以前コトフさんと一緒に来日したこともある。そのコトフさんは10年ほど前に亡くなった。

コトフさんはゴメリ市の執行委員会の重鎮だった。JCFのこととても気にいってくれて、7年ほど大変お世話になった。

ホテル代を安くしてくれるよう交渉してくれり、ゴメリ医科大学、ゴメリ市、JCFの共催でチェルノブイリの健康被害の学会を行う根回しをしてくれた。
ゴメリ医科大学の学長を説き伏せ、保健省の当時の大臣を呼び、ベラルーシだけでなくロシア、ポーランドの研究者を招いた。日本からは信州大学の甲状腺を専門にする飯田教授(当時)、現在信州大学の学長をしている小宮山教授にも出席してもらい、子どもたちの健康被害についてのシンポジウムを行った。
放射能の高汚染地域チェチェルスクの支援の間をとってくれたのもコトフさんだった。

乳がんで亡くなった小児科病棟の部長、タチアナ先生と同じように、JCFの支援を最も支えてくれた立役者の一人である。

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