鎌田實 日本経済への提言⑩
~~日本の分水嶺~~
「MOKU」という月刊誌の1月号に、「あいまいで、あやふやで、いいかげんな日本の時代」というタイトルの文を書いた。
日本の分水嶺について、である。
二項対立をしたり、分化しながら進歩させていく、西洋的な学問の方法とは違い、日本には統合しながら、全体を見るために、あやふやで、不透明になる、そんなものの考え方が日本にはあったはず。
生と死を分けたり、善と悪を分けたりするのではなく、生のなかにある死、死のなかにある生を考えたりする。
そこに日本の特徴があったはずである。
イエスとノーの意見についても、ぼくたちは両方の意見を大事にしてきた。
「はい、そのとおりです、でも・・・」
煮え切らない、イエスとノーが共存してしまうような生き方を、ぼくたちはしてきた。
宗教でも、そう。
子どもが生まれると、神社でお宮参りをして、クリスチャンでもないのに教会で結婚式をあげ、亡くなるとお寺で葬式をする。
あいまいで、あやふやで、寛容な日本。
見事にいいかげんなのである。
アメリカ流のグローバリズムが、世界を席巻していたとき、日本的な、怠惰な、あいまいな生き方を日本人じしんが否定したり、批判する評論家が多かった。
しかし、このあやふやな考え方が、日本的な経済のスタイルをつくってきたし、60年間戦争をすることもなくやってこれたのはこのためではないか。
ここに、日本人の先見性があるのではないだろうか。
哲学や経済や憲法、すべてがあやふやであいまいである。
このあやふやであいまいな日本に胸をはって、守り続けていくことが、日本の政治の再生でもあり、経済の再生でもあり、日本文化を保持していくことになると思う。
あやふやでいいかげんな道を行くか。
それでも、アメリカ流を選ぶのか。
日本の分かれ道である。
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