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2009年3月

2009年3月31日 (火)

鎌田實 日本経済への提言24

~~政治家の志を問う~~

経済をよくするためには、政治がリーダーシップをとらないといけない。
政治がリーダーシップをとるためには、志が高く、国民から尊敬される政治家が必要だ。
だが、二階経産相も、小沢民主党代表もアウトである。

一度は小沢さんに、この国の舵取りをさせてみたかったが、この不況のリーダーとしては適していないだろう。
ぼくが再三「首相よ、物語を語れ」ということで、麻生さんを批判してきたが、やはり小沢さんも国民に物語を語れないリーダーになりそうである。
冷え切った国民のこころに、あったかい演説ができるリーダーがいま必要なのである。
政局を得意としている小沢という虚像ではなく、国民に真摯に訴えかけることができる新しい政治のリーダー像が求められているのである。

民主党もどうしようもないことはわかっているが、とにかく二大政党という形にすべきである。
そして、民主党政権の間に、政治資金規正法を厳しく改革する必要がある。
政治をきれいにするのである。
そして、きれいになった政治に、国民は力を与えるべきである。
政治が、官僚をコントロールすることができるようにすべきである。
優秀な官僚が、十分に能力を発揮できる環境をつくりながら、天下りのうまみを吸わせないこと。
二大政党制を行いながら、垢のたまった政界をクリーンに再編成し、あたたかで豊かなものづくり国家としての土台を築いていく必要があると思う。

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2009年3月30日 (月)

ピースボートの仲間たち

この船には、おもしろい人たちが乗っている。
スキューバダイビングをする筋ジストロフィーの青年。
大学を卒業して福祉施設で働いていたが、外国に留学しようか迷っているという。
いいなあと思う。

東京の大学病院で超忙しい病棟で働いていたが、フィジーでインド人の家にホームステイしながら英語の勉強し、
そのあと、このピースボートに乗り込んだ。
違う仕事をしようか、外国で医療ボランティアをしようかと迷っていたが、ぼくの講演を聞いて、再び医療現場で仕事がしたくなったという看護師さんとも、食事をした。

この船に乗るために、命がけで働いてお金を貯めた若者もいた。0313fromd40_098_2
土日は、アルバイト。
平日は、ピースボートのポスターを3800枚貼ると乗船代がほぼタダになるので、ポスターを貼りまくり、目標を達成した青年もいる。
とにかく、たくましいのである。

農学部で勉強していて、大学を卒業したら、本格的に農業をやりたいという青年もいた。
家は農家ではない。
このちぐはぐさがいいなと思う。
こういう青年が、本気で日本の農業にとりくんでくれたら、もしかしたら画期的なことがおきるかもしれないと思った。

破産したリーマンブラザーズに勤めていた女性も、通訳として乗船していた。

ちょっとつまずいた医学部の学生もいた。
この船で、どんどん元気になっていった。
この経験をきっかけに、きっと、いいチームワークをつくることができ、患者思いのいい医者になっていくと思う。

85歳のおばあちゃんが、娘と乗っていた。
隣に座ってご飯を食べた。
おばあちゃんは、にこにこしながら、「私が船に乗りたいと言ったの」とゆっくり話しかけてきた。
数年前にはじめて船で世界一周をしたという。
「どこが楽しかった?」ときくと、「シチリア島」と言う。
シチリアの教会を、おばあちゃんは車いすで訪ねた。0313fromd40_100

先天性股関節脱臼があり、両足の股関節の手術をしているために歩行困難がある。
船のなかでは車いすで移動する。
部屋のなかでは、数メートルの歩行はできるそうだ。
娘さんが「飛行機だったら、とても10時間も乗っていることはできないけれど、船ならば大丈夫。観光するときにも、荷物を持たずに、おばあちゃんの車いすを押すことができるというのは、最高にいい」と言った。
なるほどと思った。
船の旅の利点である。

おばあちゃんはいろんなレクチャーに最前列で参加して、よく聞いている。
「人の話を聞くのは大好き、勉強になる」
好奇心が旺盛なのである。

おばあちゃんが、いちばんステキな経験をしたのはシチリア島の教会の前。
その前で車いすに座っていると、現地の太った女性がハグをしてきた。
ステキな笑顔をしているおばあちゃんは、人をひきよせるのである。
この船でも、おばあちゃんの周りには若者がいっぱいあふれている。
スタッフたちも、母親のように敬う。
人をひきつける空気をもっているような気がする。

シチリア島の女性がハグをした後、おばあちゃんの手を握った。
そして、おばあちゃんの指に、自分の指にしていた指輪をはめてくれた。
その女性は、何かを話しかけたが、おばあちゃんには言葉がわからなかった。

「この指輪は、命の次に大切なもの」
ぼくに指輪をみせてくれながら、おばあちゃんはニコニコしている。
「旅はすてきよ。本当に、何が起こるかわからない」
おばあちゃんは、こぼれるような笑顔でいった。

今回の旅のケニアでは、ゾウやシマウマが自分のコテージに水を飲みに来るのを見た。
アフリカの広大な砂漠もプロペラ機から見た。
南極も見た。
イースター島のモアイ像も見た。
全部、感動の連続だと、85歳のおばあちゃんは言う。
船の旅はあったかくて、人のこころにゆとりをつくり、一人ひとりにいい笑顔をつくっていく。

そして、いよいよ船旅もゴールに近づいてきた。
4月1日から仕事が決まっている人たちが、ぼくと同じようにタヒチで船を下り、飛行機で日本へ帰る。
豊かなこころを抱えて、また、それぞれの日常をはじめるのである。

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2009年3月29日 (日)

そして、すばらしいニュース

0313fromd40_097 3月28日は、スリーマイルアイランドの原発事故からちょうど30年だった。
その後、原発事故が次々に続いた。

この船に乗る若者30人ほどと、寺子屋という自主企画で、核について勉強会をした。

英語では、核も原子力も「nuclear」であらわすが、日本語では核兵器は「核」といい、「原子力」は平和利用のイメージをつけるために、「核」と使い分けている。
「太陽エネルギー、風力エネルギー、そして環境にやさしい原子力エネルギー」と、巨大な宣伝費を使って宣伝を続けているが、
民主的な決議も情報公開も、十分にされていると思えない。
いつも原子力発電所をつくるときは、小さな村や町が狙い打ちにされる。
たくさんのお金が投入され、莫大なブラックマネーがうごめく。
村や町は経営が厳しいので、原発による巨額の補助金は、一時的に経済が改善する。
小さな村や町には不相応なぜいたくな施設が建つ。
だが、結局、そのランニングコストに困り、もう一基原発をつくらないと村や町の経済がたちゆかなくなっていく。
いちど手を出すと、次々に欲しくなる「原発依存症」になってしまうのである。

ガビさんも同じことを言った。
フランスがポリネシアで核実験をすると、たくさんの兵士がやってきて、作業員としてタヒチアンが雇われ、巨額のお金が流れた。
しかし、島の経済は徐々にたちゆかなくっていく。
かつて、食物自給率は1960年では96%あったが、96年にはわずか4%になった。
放射能に汚染されて、安心な農作物がつくれなくっていくのである。
そして、お金で植民地化がすすむ。

情報公開もされていない。
フランスは当初、2018年に情報公開をするといっていたが、50年遅らせて、2068年まで情報公開をしないと決めた。
人権の国フランスとしては、あるまじきことだ。
「情報公開をし、核実験による健康障害をおこした人に対して医療保障をすべきである」
カビさんは、船の中で強く言い続けた。

結局、第二次世界大戦の戦勝国がしたことはこれなのである。
イギリスは、オーストラリアやクリスマス島などで核実験を行い、アメリカはビキニ環礁で核実験をし、フランスはムルロア環礁などポリネシアで核実験を繰り返した。
先住民たちの生活の場で、1000回以上の核実験を行うという暴挙を行ってきた。
その南太平洋を、ぼくたちは船で進んでいる。

そんな船の上で、突然、歓声が上がった。009
ぼくとガビは、熱い握手を交わした。
フランスのモラン国防相が、1960年から96年にかけて、アルジェリアの砂漠やムルロア環礁で大気圏実験や地下実験を210回行ってきたが、
その情報公開と、13億円の保証をすると発表したのである。

ガビはうれしそうであった。

今後、フランスがどの程度の情報を公開するのか、注目をしていかないといけないと思う。
だが、先住民に核実験を知らせることなく開始し、たくさんの先住民が被害を受けたことは、「核のテロリズム」だと言い、
多くの先住民の反対をおしきって核実験を続けたことは「核の植民地化」であり、「核の人種差別」であると言っていたガビの声が通ったのである。

すばらしいニュースだ。

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2009年3月28日 (土)

われわれはどこから来たのか⑦

~~ガビさんとの出会い~~

「こんなに美しいものは見たことがない。
本当に美しく思えてしまったのです。
3つの光がありました。その色は、黄色と青と赤。
母と、誇りに思うべきだよね、きれいだもんね、また見に行きたいね、と話したのを覚えています。
そのころ、核実験を、自分の土地で行っていることを、誇りに思っていました」

鮮やかな民族衣装を着たガビさんは言う。015
タヒチに生まれ育った。

フランスは1966年から96年まで、ポリネシアのムルロア環礁、ハオ環礁などで、約200回核実験を行っている。
ガビさんは、68年にハオ環礁で行われた核実験を見た。
実験の島では、兵士用に防御壁があった。
7000人を超える兵士が、ハオ環礁のオテバ村に住んでいた。
島の住民には何も知らされていなかったという。
ただ、核実験場の近くで働くと、給料が3倍くらい高くなった。
魚は獲ってはいけないといわれた。
食べていい魚は、遠洋漁業で獲れたマグロだけ。

フランスに留学して、広島や長崎の原爆被害をテレビでみて、核の恐ろしさを知った。
自分のふるさとが壊れているのに気がついた。

フランスで核反対運動を行った。
ドイツでの反核運動を後押しした。
ガビさんは、広島や長崎にも講演に行った。
旧ソ連のセミパラチンスクの核実験現場もみてきた。
ボブ・マーリーやエルトン・ジョンなどとも、反核運動を通して友人になったという。

フランスの核実験が再開された。
今度は地下実験を行うという。

「タヒチの島の大地は母なる大地です。
地下に穴をほって核実験をしないでほしい。
お母さんの大切なおなかです。
母なる大地の大切なおなかです。
タヒチの自然を汚さないでほしい。
タヒチの文化を壊さないでほしい」

何度も核実験反対のデモを行い、捕まった。

ガビさんは、ポリネシアに昔から伝わる物語として5つの大切なものがあり、「大地」はその一つだという。

「大地には精神が宿っています。
だから、人が大地に対して与えるものを持たないのなら、人も大地から何も受け取ることはできません」

大地から奪うだけではいけない、とガビさんは言う。
この話は、『がんばらない』で書いた、アメリカのマイノリティー、アメリカンインディアンが書いた詩を彷彿とさせる。
アメリカンインディアンも、ポリネシア人も、もとは西アジアのモンゴロイドに起源をもつ。
自然への考え方が、似ているのではないかと思った。

L1070001  現地の言葉で「ナポノコト」は、土地への感謝の言葉。
これは、家族や友人と一緒にするものである。
ひとりではできない。

「石を囲み、火を囲み、食べ物を得るとき、みんなが自然とひとつになります。
そのとき、ほんとうに神様と一つになり、先祖の声が聞こえてきます。
土地に人が属するのであって、人に土地が属するのではありません。
きれいな土地と豊かな果物を次の世代に手渡すのが義務です。
マラエという祭壇は、過去に戻るためのものではなく、
こころと頭と視野を開き、新しい世界に入るための場所です。
ポリネシア人はけっして世界を侵略しない。
侵略してきた先進国とだって戦争をしない。
そういう大切なことを話す場所がマラエなのです」

ガビさんは、フランス留学から帰国後、PIANGO(太平洋先住民NGO連合)をつくり、自分のたちの海や大地を守ろうという運動を展開している。
タヒチを中心にして、北はハワイへ、東はイースター島、西はニュージーランド。
ちょうど、蛸が足を伸ばしたようなネットワークだ。
また、タヒチの伝統文化を守る仕事をし、外国資本が観光開発やゴルフ場開発をしながら、自然を汚し、お金を吸い上げていく構造にも反対をしている。

この船を下りると、ガビさんの村へ行く。
ガビさんのバニラの農園をみたり、伝統料理を食べる予定です。

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2009年3月27日 (金)

われわれはどこから来たのか⑥

090322 64回ピースボートに乗っている。
イースター島からタヒチへと6日間の旅である。
ぼくが来た道を逆戻りするわけだが、船旅はまた一味違う。

昨年は、北極を回る62回のピースボートに乗った。
そのとき乗り合わせた人たちが30数人、今回も乗り込んでいて、懐かしそうに声をかけてくれた。

前回は、船が遅れ、予定していたツアーが取りやめになったり、部屋によってはシャワーのお湯が出なかったりと、ハプニングがあった。
週刊誌などにも、ピースボートの批判めいたことが載っていたこともあった。
だが、一方で、こういうゆったりとしたスピードや、不便さを逆におもしろがる人たちはけっこう多い。

ピースボートは世界一周の船旅とはいっても、ほかの豪華客船とはちがい、値段も2分の1から3分の1程度。
若者が利用するタイプでは、5分の1くらいの値段になる。0903222
そのうえ、船の中での交流や、船を下りた後、環境や平和をテーマにした現地の人たちとの交流は、ほかの豪華客船にはない企画。
そのために、ピースボートのスタッフが先乗りという形で、現地の人たちや文化とできるだけ触れ合えるように、調整してくれている。

前回からの旅仲間が口をそろえて言うのは、今回の船のほうが、圧倒的に居心地がいいということ。
約100日間の船旅をエンジョイするには、安くて、安全で、本を読む場所、お茶を飲む場所、食事をする場所が快適に整っていることが必須だ。0903222
そういう意味では、今回の船は申し分ない。
65回からの船は、1500人収容のより大きな客船になり、さらにグレードアップするようだ。

ぼくは船の上で、PHPの連載エッセイや読売新聞の「見放さない」という連載の原稿を書いたりしながら、猛烈に本を読んでいる。
ゴーギャンをモデルに書かれたという、サマセット・モームの『月と6ペンス』。
これは、何度も読んでいる小説だが、実際にポリネシアの地で読むと、その空気がより伝わってくる。
モームは、驚異と神秘、官能的、情熱的、呪術、みだらな美しさなどということばで、最後の大壁画を表現している。
そして、その壁画が完成した後、火が放たれる。
最高傑作の絵が残らないという設定も、なかなかおもしろい。

ゴーギャンの画集も、2冊もってきた。
ゴッホの画集も1冊もってきた。
2人の画家は、アルルでほんの短い間、一緒に生活している。

『還らざる楽園、ビキニ被爆40年 核に蝕まれて』(島田興生著、小学館)も読んだ。
1946~58年にかけて67回、アメリカがロンゲラップ島で核実験をした。
マグロ漁を行っていた第五福竜丸の23人が被爆した。
0903222_2 日本が唯一の被爆国といわれるが、じつはアメリカのビキニ、旧ソ連のカザフスタン、中国の内モンゴル、チェルノブイリの原発事故、そして、イラクの劣化ウラン弾。
核物質による放射能被害は、地球上のいくつものところで、人間や自然にダメージを与えている。
そして、このポリネシアでは、ムルロア環礁でフランスが水爆実験をしている。

ぼくは、この旅で、2つのテーマを決めた。
一つは、「日本人がどこから来たのかを探る旅」。
もう一つは、あるタヒチアンに会うためである。
彼は、すぐ近くでムルロア環礁の核実験をみ、フランスの核実験に反対しつづけている。

次回は、そのタヒチアンのことについて、ご報告したい。

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2009年3月26日 (木)

モアイからの警告

004 1680年、モアイ倒し戦争がはじまるころ、島の主導者たちが海岸の断崖絶壁に集落をつくった。
切り立った崖の上に、53の石の家がたっている。
岩には、神や鳥人などの彫刻やペインティングが多く残されている。
オロンゴの遺跡である。

ここでは、鳥人儀礼が行われた。
若者たちが、急峻な岩を滑り降り、サメの海を泳ぎ、孤島へと鴎の卵をとりにいくのである。
このレースに勝った若者は、マナという霊力をもつ者としてたたえられ、鳥人といわれた。
そして、島の権力者になることができた。

オロンゴの遺跡のすぐ横に、アナカイタンガタという洞窟がある。005
アナは「洞窟」、カイは「食べる」、タンガタは「人」という意味だそうだ。
カニバリズム(食人)が行われていたようである。
戦いに勝った者が、敗れた者を、その強さをたたえながら食べたという。
おそらく、食料不足のためではなく、マナという霊力を得るために行われた祭りだったのではないかと言われている。

いよいよこのころから、この島は滅びへと向かっていく。
霊力を蓄えようとしながら、部族間でさらに戦いを広げていった。
これはとても大きな問題である。
戦いを広げようとする宗教観も、この豊饒の島を崩壊させる一つのトリガーになった。

ひるがえって、現在の地球を考える。
キリスト教原理主義も、イスラム教原理主義も、この地球を崩壊させる大きなトリガーになるのではないか。
イースター島から学ぶことは多い。

003 イースター島が滅びへと向かった要因はいくつかある。
巨大な偶像モアイをつくるために森を伐採したこと。
苛烈な部族間の戦争。
そして、ヨーロッパから性病の梅毒や天然痘が持ち込まれたこと。
これらが豊かなモアイの島を壊していったのである。

現在の地球号では、砂漠化が進み、アフリカやパレスチナ、イラク、アフガニスタンで、戦争が繰り広げられている。
新型インフルエンザの感染爆発も心配されている。

ペルー艦隊による1000人の奴隷狩りも、この小さな島に大きなダメージを及ぼした。
今の地球号にとって、奴隷狩りに相当するものは何か。
それは、人々の生きる力を奪っていくもの、金融経済の崩壊による雇用の喪失かもしれない。
暴走する経済の下で、ワーキングプアや貧困層といった、新しい時代の奴隷をつくるべきではない。

地球号の乗組員として、地球号をどう守っていくべきか。
モアイの島は、大切なヒントを与えてくれている。

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2009年3月25日 (水)

ポリネシアから鎌田實の経済提言

013 ポリネシアに来て思う。
人々の笑顔がすばらしい。
すれ違うだけでほとんどの人が声をかけてくる。
幸せの閾値が低いような気がした。

ぼくはずっと「ウエットな資本主義」という言葉を用いながら、新しい資本主義のあり方を模索している。
古い資本主義は、欲求をあおり、かきたてることで発展してきた。

ぼくたちは、バブルをつくり、そのバブルを破裂させるという経済の失敗を経験した。
バブルの背景にあるものは何か。
幸せの閾値を身の丈以上にあげていったこと、がある。
1000万円を貯めた人は、1億円を貯めようと必死になった。
おいしいものを口にしたら、もっともっとおいしいものを口にしたいと思った。
ちょっとやそっとのことでは感動しなくなった。
欲望を際限なく暴走させていったのである。

012 だが、ポリネシアの人たちは、雨が降っていると、「いま雨の神様が来ているんだよ」と受け入れて、納得してしまう。
なんで雨なんだ、と愚痴ったり、文句を言ったりしない。
そして、天気がいい日は、それだけで幸せを感じている。
ちょっとおいしいものを食べただけで、いかにも幸せそうだ。

もっと幸せの閾値を下げて、小さなことに喜びを見出すこと。
これが新しい世界観にとっては必要なのではないかと思った。
たくさんの人たちがこの地球で生きていかなければいけないとすれば、幸せの閾値を低くしなければ、地球が永続しない。

ゴーギャンが最後に暮らした家は、「喜びの家」という名がつけれらていた。
原住民が住む木造りの安っぽい家である。
お金もなく、有名でもなく、しかし、豊かな自然のなかに生きることが、ゴーギャンの喜びだったのだろう。
ゴーギャンの、物質的なものに対する欲求の閾値は低かった。
だが、ゴーギャンのこころのなかにある、ほんものの幸せの閾値は高かったような気がする。

タヒチやイースター島を見てあるき、人々は貧しいはずなのに、実に明るくのびやかである。

新しい資本主義、ウエットな資本主義への道筋のヒントが、このポリネシアの人の笑顔に隠れていると思った。

写真は、バナナの葉で伝統料理クラントをつくっているところ。ちょっとしたお祭り騒ぎだ。

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2009年3月24日 (火)

クラントを味わう

090321 イースター島に住むパントゥさんという人のお宅に招かれた。
島に伝わるクラントという蒸し焼き料理でもてなしてくれた。

これは、バナナの葉に鶏や羊などの肉や、紫芋、パンなどを何重にも包み、熱した石をのせ、土をかぶせて蒸し焼きにする料理。
これが、うまい!
肉の味付けは、薄い塩とスパイス。
蒸し焼きにするので、とてもやわらく、おいしい。

イースター島はかつて豊かな森があり、肥沃の地であった。
その豊かさゆえに繁栄し人口爆発が起こり、食糧不足に陥った。
巨大なモアイを運ぶために、森は伐採され、豊かな土壌は流された。
食糧不足はさらに深刻化し、部族間で戦争が起きた。
敵の部族のモアイを倒す「モアイ倒し戦争」である。
さらに18、19世紀、イースター島を悲劇が襲う。
ヨーロッパ人が島に上陸し、奴隷狩りをし、性病と天然痘を持ち込んだのだ。
そして、圧政。
ピーク時には9千人とも2万人ともいわれるまでに増えた人口は、1877年にはたった111人になってしまった。
090320
この島の滅びの物語は、現在の地球に対する警告のような気がしてならない。

現在、イースター島の人口は4000人。
パントゥさんら、環境や、自分たちの文化を考えている人たちが必死に再生しようとしている。

この島には、野菜や樹木をよく育てるために、その周りを石で取り囲む(マナパイという)昔からの知恵があった。
一度、その知恵はすたれてしまったが、パントゥさんらが復活させたという。

パントゥさんは、外来種ではなく、もともと島にあったヤシなどを育てたいと語ってくれた。

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2009年3月23日 (月)

巨像の前で

海岸沿いに、海を背にたたずむモアイ。0903202
夕日に映え、とても美しい。
ハンガロア村という、ぼくが泊まった村のホテルから歩いて30分ほどのところにあるタハイヒ遺跡だ。

モアイは、8世紀ごろからつくられるようなったという。
そのころはまだ小さなものが多く、その後、次第に巨大化していった。
島の人々は、モアイの前で、地に伏して豊饒の祈りを捧げたという。

イースター島では、銅器も鉄器も使われたことがない。
黒曜石や玄武岩などの硬めの石で、石斧をつくり、やわらかな火山岩を刻んだ。
ずっと石器時代を生きてきたのである。
石の斧で、よくこれだけの大きなモアイをつくったなと思う。

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発見!特Bグルメ(49) 魚のスープ

001_2 イースター島のメインストリート。
といっても、人口3900人の島のメインストリートは、とてものどかだ。002

そのメインストリートのレストランで、魚のスープを食べた。
具だくさんで、とてもおいしかった。

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2009年3月22日 (日)

イースター島へ

0903203 タヒチからイースター島に飛んだ。
ピースボートに乗るためだ。
本来なら直接イースター島に向かいたいところだが、日本からイースター島への直行便がないので、タヒチで2日間待たなければならなかった。
タヒチに行く飛行機も週に2日しかない。

イースター島は180平方キロメートルほどの小さな三角形をした島。
4~5世紀ごろ、ポリネシアのマルケサス諸島のほうからやってきた人が住みついたといわれている。

そのルーツをはるかさかのぼれば、西アジアの砂漠にたどり着く。
紀元前5000年ごろ、西アジアにいたモンゴロイドは、北へ向かい後にイヌイットになっていく人たちと、南へ向かう人たちとに大きく分かれた。
南へと向かう人たちは、いかだで大海原に漕ぎ出す勇敢な人たちだった。
フィリピンから、太平洋の大海原に出て、フィジーやタヒチへと航海した。
そして、4~5世紀、ようやくイースター島にたどり着いた。090320
星を見つめながらの巧みな航海術。
南米大陸のチリからは3800キロ、もっとも近いピトケアン島からは2000キロ。
360度どこをみても、海以外に何もない。

当時、イースター島は亜熱帯雨林の大きな林があり、泉があり、肥沃の大地であった。
もっともモアイづくりが盛んだったのは、1680年ごろ。
この小さな島に、1000体ものモアイがひしめいていたという。

モアイは、アフという祭壇に置かれ、海を背にして立っている。
モアイはマナという霊力をもっており、その霊力が島の人々に生きる力を与えると信じられてきた。
だから、ほとんどのモアイは島の中央を見ているのである。

アフアキヴィというモアイの群像は、唯一、海を見つめて立っている。
海を渡って侵略してくる人たちへの威嚇ではない。
自分たちの祖先である、ポリネシアの海の向こうにマナを与えようとしているのではないか――。
サンチャゴ大学の日本語学科を卒業したフランシスコ青年は、そう推論を述べた。

西アジアから南へ下ったモンゴロイドたちには、大海原を旅する途中、北上するグループもいた。
それが沖縄へと渡り、日本列島に上陸したと考えられている。
もちろん、日本には北からも、中国、朝鮮半島からも多くの人たちが入ってくるのであるが、この南からのルーツも、紛れもない、ぼくたちの血なのである。

日本人はどこから来たのかを探したい――。
ぼくは、この旅の目的の一つをそう決めている。

写真は、夕日を見つめるアフアキヴィのモアイ像と、ラノカウ火山の火口湖。火口には水がたまり、青く輝いている。水が豊かな美しい島。

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われわれはどこから来たのか⑤

~~胎児の記憶~~

わが心の師、三木成夫先生は、「母親の子宮のなかで、太古の海と同じ羊水に浮かび、子宮の壁に響く、母の血潮のざわめきを記憶のなかに必ずもっているだろう」と、
発生学の授業で話してくれた。
比較形態学の話を展開しながら、ゲーテのメタモルフォーゼの話はなんとも感動的であった。007_4

三木先生の著書『胎児の世界 人類の生命記憶』(中央公論新書)は、人間はどこから来たのか、記憶の奥に眠っている38億年のいのちの歴史を紐解いている。

椰子の実の汁を吸いながら、三木先生は「懐かしい味」と感じた。   
はじめて飲んだ味なのに。
それは、生命の記憶があるからではないだろうかと、解きほぐしていく。

紀元前5000年ほど前、西アジアからモンゴロイドがおもに二手に分かれて移動していった。
一つは、北上し、ベーリング海峡を渡って南米に達するグループ。
もう一つは、南下し、いかだにのって、フィリピンやポリネシアへと渡っていく。
その大移動の過程で、日本には、北からも南からも入り込んでいるといわれる。

久々に三木先生の『胎児の世界』を読みながら、母親の子宮のなかにいた自分を思い出し、そして、何千年か前、
モンゴル平原のわが祖先の一人が南へ下り、このタヒチから、北上していった可能性を自分の実感で感じてみようと思った。

欧米人は、虫の音などを右の音楽脳で受け止めるが、日本人は言語脳の左脳で受け止めるという。
韓国人も中国人もヨーロッパ人と同じ。
しかし、西アジアとハワイ、サモア、トンガ、ニュージーランド、ポリネシアの人たちは日本人と同じように左脳で聞き取る。

008_2  三木先生は「命の波」「おもかげ」という言葉を使いながら、あやふやではあるが直感的に、ぼくたちに刻み込まれた38億年のいのちの歴史をたどっている。
『胎児の世界』は、伊勢神宮や天皇家のことにも触れている。
このへんになると、尊敬する三木先生の言葉ではあったが、なんだか聞こえないふりをしていた。
三木先生は、伊勢神宮が20年ごとに遷宮するが、その意味は生殖の営みと生命の営みをあらわしているという。
そして、同時に椰子の実や波打ち際の波の音を聞きながら、南へつながっている自分たちのこころを書き留めている。

今回、タヒチでアラフラフのマラエという神殿を見た。
なんだか、三木先生の伊勢神宮の写真に似ているのである。
不思議な錯覚を感じた。
南側の文化が伝わってきている可能性は確かにあると感じた。

上の写真は、日本の万博にもやってきたというモアイ。下の写真は、日本のクレーン会社が、世界遺産のために立て直したという15体のモアイ。

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2009年3月21日 (土)

タヒチの屋台村

L1070061 タヒチの主都パペーテにある屋台村は、ルロットというトラックを改造したレストランが30軒ほど並んでいる。
アルコールはいっさい扱われていない。
おもしろい屋台村である。

マーボー豆腐と酢豚、チャオメン、チャーハンを頼んだが、3人で食べきれなかった。
こちらのチャーハン1人前は、日本の4人前くらいある。090320
チャオメンもすごい。
なんだか、ものすごいボリュームなのである。

ぼくのおすすめは、チャオメンとマーボー豆腐。
こちらのマーボー豆腐は、青唐辛子がふんだんに使われていL1070069 て、日本の茶色いマーボー豆腐とは見かけも違う。
豆腐とたくさんの野菜、それに青唐辛子が山盛りというかんじ。

タヒチでも、B級グルメはうまい!

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われわれはどこから来たのか④

~~ゴーギャンの島へ(3)~~

タヒチの人たちはゴーギャンのことをどう思っていたのだろうか。
現地の人に、ぼくは尋ねた。
「あまりポジティブには考えていない」と答えてきた。

ゴーギャンは、いろんな人といさかいを起こした。
当時、島に中国人の町ができ、タヒチアンと中国人が結婚する家族が増えてきたが、そんな風潮をゴーギャンは否定し、批判していたという。
にもかかわらず、彼自身は13、14歳の少女を自分の女にしていた。
若い女の子を裸で歩かせて、絵に描いたりもした。
こうした振る舞いが、タヒチの人にはあまり受け入れられなかったようだ。

L1070001 ゴーギャンは、マルケサス諸島のヒバ・オワ島で、最後の数年をすごし亡くなった。
そこに墓もある。
ヒバ・オワ島には、もう一人ヨーロッパ人の墓がある。
歌手で詩人のジャック・ブレルである。
ヒバ・オワ島の人たちはジャック・ブレルが好きだった。
ジャック・ブレルを自慢にしており、彼の墓はきれいに掃除され、いつも花が飾られている。
だか、ゴーギャンの墓はあまり花が手向けられているのをみたことがないという。

「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」は、ゴーギャンの1897年の傑作。
この絵を描き上げて自殺をこころみる。
あらためて絵をみると、ここには、西洋人の人間至上主義、人間中心の世界が描かれていることがわかった。

タヒチの人には実に長い長い名前がある。
その名前には、亡くなったあとに魂がいくところ、そして、自分たちの生活している大地と釣りをするラグーンが語られている。
つまり、どこから来て、そして、どこへ行くのか、自分の名前が物語っているのだ。L1060995_2

この話を聞いたとき、ゴーギャンの傑作は、人間が生まれて育ち、老い、死んでいくところまでは描かれているが、
生まれてくる前の「どこから来たのか」、そして、死んだあと「どこへ行くのか」は十分に語りきれていないと思った。
ゴーギャンは西洋の合理主義が嫌いで、自然を求めてポリネシアにやってきた。
にもかわらず、西洋の人間中心主義の考え方を超えることはできなかった。

われわれが来たところ、そして、帰っていく大きな自然や宇宙。
ポリネシアの海を見ていると、それがよくわかるような気がした。

そして、ぼくたち日本人はこのポリネシアの海から、いくつもの椰子の実と一緒に流れ着いた可能性がある。

上の写真は、アラフラフのマラエ。下の写真はティキという偶像。ヨーロッパ人が入ってきたときに、一度破壊されてしまったが、復元された

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2009年3月20日 (金)

われわれはどこから来たのか③ ゴーギャンの島へ(2)

L1070081 ゴーギャン博物館は、ゴーギャンの息遣いと彼の愛したフレンチポリネシアの空気を見事に閉じ込めている。

1901年、ゴーギャンはやっと画商がつき、安いながらも年間の契約ができ、最低限の生活が確保できつつあった。
なのに、彼は、マルケサス諸島にわたる。
タヒチから1500キロ離れた、さらに辺鄙なところへ、彼は自然を求めに行くのである。
少しうまくいきだすと、下る。2
下りながら、問題を起こすのである。
それが彼の生き方だった。

若い女の子をパートナーにし、批判された。
教会は、原住民の人たちにゴーギャンの家に行くことを禁じた。
ゴーギャンは、教会にたてついた。
「助平神父とテレーズ尼」という彫像をつくったりしている。
挑戦的なのである。

L1060984 ゴーギャンは無頼漢である。
そんな彼を、原住民の人たちは慕い、毎晩、酒盛りに集まってきた。

このころゴーギャンはずっと、下肢の痛みを訴えている。
おそらく神経性梅毒があったのだと思う。
神経性梅毒だけでなく、梅毒によって全身の血管が動脈硬化をおこしていた。
最後の死に方はわからない。
1903年、彼は大嫌いな教会の牧師を呼びにいかせている間に亡くなっている。

「神と道徳を冒涜したものにして、偉大なる芸術家となったゴーギャン、ここに眠る」
墓にはそう書かれている。
なんとも、ゴーギャンらしい。
亡くなったあとまでも、教会から侮辱されているのである。L1060987
これがたまらなくいい。
神と道徳なんて、クソくらえ―。
ゴーギャンは、きっとそう思っていたにちがいない。
彼のなかには、つねに獣がいた。

1901年、マルケサス諸島のヒバオア島に行ったあとも、無頼の徒であった。
新聞記事を書いたり、エッセイを書いたりして、フランスの植民地支配を批判し続ける。
フランスは自然を壊し、原住民の生活を壊していると訴えているのである。

ゴーギャンは、大作「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」のなかに、生まれて、そして死んでいく人間の人生をが荒々しく描いた。
絵のなかには、仏像も描かれ、両側の上部に日本画の琳派の金を取り入れたようなジャポネスクの影響もみてとれる。

人生をうまく泳ぎきろうとしないゴーギャンの、面目躍如たる絵と、放浪の生き方。
絵のなかにも、彼の生き方のなかにも、ゴーギャンのなかに住みついた獣の存在を感じずにはいられない。

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2009年3月19日 (木)

ゴーギャンの島へ(1)

L1070033_2  週末、講演先の山口から東京へ。
その足で、空路タヒチへ降り立った。
ゴーギャンの愛したフレンチポリネシアの島である。

念願だったマタイエア村へやってきた。
ゴーギャンは、おそらく1891年から93年までこの村で暮らしていた。
ゴーギャンはここの教会に通っていたといわれている。
23年後、サマセット・モームが「月と6ペンス」を書くために、この村に滞在している。

白い馬 が、川で水浴びをしている幻想的な絵がある。
若い男女が裸馬にまたがる、いかにもゴーギャンらしい、荒々しい空気のある作品である。
まさにこの空気が、肌で感じられる。

Photoゴーギャンの晩年の大作に「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこに行くのか」がある。
1897年、彼はこれを描き上げ、砒素による服毒自殺をはかった。
そのあと、1898年、再び精神的な安定がおとずれたときに描いたのが「白い馬」であった。

ゴーギャンは、マタイエア村の川沿いをよく散歩したらしい。
この川で、ぼくは大きなうなぎを見た。
うなぎは、この地域では神様といわれている。

ゴーギャンも、神を見たのだろうか。

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2009年3月18日 (水)

新しい生き方を考える本1位に

『いいかげんがいい』(集英社)が全国のツタヤで、新しい生き方を考えてみる本の1位になっているそうだ。
店頭に平積みをしてくれており、たくさんの人の目にとまるところにある。09031
ありがたいことです。

このことは、友人からの電話で知った。
「ほかの人の本はまだ山積みになっていたが、鎌田の本は1冊しかの残っておらず、たいへんな売れ行き」だともいう。
本当に、ありがたいことだと思います。

『いいかげんがいい』は、今のところ絶好調。
ツタヤに行ったら、ぜひ注文してください。

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2009年3月17日 (火)

巣立ちのとき

先日、諏訪中央病院看護専門学校の第14回卒業式が行われた。
感動的な卒業式だった。
何度も目頭があつくなり、ハンカチを必要とした。0903061
年をとって涙もろくなっただけではない。
40人の看護師のたまごたちが、厳しい勉強に何度も燃え尽きそうになり、それでも立ち直って、
初志を貫徹してくれた。
一人ひとりの長い戦いに感動したのである。
諏訪中央病院看護専門学校の答辞は、歴代、卒業生全員が舞台に立ち、一人がワンフレーズずつ在校生に語りかける。
これが感動的なのである。

夜は、イタリアンレストランで謝恩会を開いてくれた。
卒業生たちは、見違えるように装っている。

中国から留学してきたチョウさんは、親戚のおじさんたちに「日本に行くな」と反対された。
それでも彼女は、日本はどんな国なのか、自分の目で見なければわからないと思い、やってきた。
「クラスのいい仲間、いい先生」に出会った。
「自分は少しやさしくなった」
「日本に来てよった。日本はあったかくて、やさしい国」と言う。

彼女はクラスでいちばんよく勉強した。0903062
2人の学生に学校長賞が与えられる。
一人は、子ども2人を育てながら、3年間勉強しつづけたお母さん看護師。
もう一人は、このチョウさんだった。

「愛のたまご」という校歌をみんなで何度も歌った。
みんな大好きである。
校歌らしくない。
あったかくて、さわやかないい歌なのである。

40人が巣立っていった。
22人が諏訪中央病院で看護師のたまごとして活動をはじめる。

いい一日だった。
3年間の苦労が報われる日である。
こんな感動的な一日があると、また学生たちにいい授業をしようと思う。
また4月から、新入生に保健医療論や看護の哲学を教える。
気力がみなぎってきた。

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2009年3月16日 (月)

ブラダン・コチのコンサート大成功

13日に東京の津田ホールでブラダン・コチのチャリティーコンサートが開かれ、大感動、大成功のうちに幕を閉じた。
当日、永六輔さんや、「鎌田實いのちの対話」で名コンビを組んでいる村上信夫さん、それからキムタクのお母さんらが募金活動に協力してくれ、会場から約60万円の寄付をいただいた。Dsc01307

ブラダン・コチのCD「ふるさと~プラハの春~」は400枚、坂田明さんのCD「ひまわり」と「おむすび」は100枚、合計500枚を来場者に買っていただいた。 

これらは、イラクの病気の子どもたちの薬代として、大切に使わせていただく。
ありがとうございました。

Furusato_m 「ふるさと~プラハの春~」にご興味のある方は、ぜひ、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)にお申し込みください。
日本人になじみ深い、すてきな曲を収録しています。

JCFの電話番号は0263-46-4218。

写真は、昨年チェコのプラハで、ブラダン・コチと。

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2009年3月15日 (日)

山口から、庭園でひと休み

講演で山口に来ている。
宇部にある宗隣寺というお寺に足を伸ばした。090315

この寺は、777年に唐から来朝した僧によって建てられたという。
庭園のまんなかには「心」という字をかたどった池があり、それを石や樹木が取り囲んでいる。
池の浅瀬は、海の干潟をあらわし、清水を調整することで潮の満ちひきを表現しているというおもしろい仕掛け。
遠くには、極楽の山が見える。
海があり、山があり、森があり、そのなかに「こころ」がある。

自然、宇宙というものにいだかれて、ぼくらは生きている。

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3/20 「鎌田實いのちの対話」総集編

3月20日は、恒例のNHKラジオ第一「鎌田實 いのちの対話」の総集編をお送りする。
午前8時35分から11時50分まで。
約3時間の長丁場で、1年間の「鎌田實いのちの対話」を振り返る。Photo
人生の生き方や、病気をしたときの対処の仕方や、子どもたちの未来のことや、この国のあり方や、環境のことや、食のこと、家族こと、自分たちのこころや魂のこと・・・。
さまざまなテーマで、村上信夫さんと2人で語り合う。
1年間、たくさんのリスナーの方にメールやお手紙、ファクスなどをいただいた。
多すぎて、今までの回では対応できなかった分を紹介しながら、リスナーの人たちと充実した形で向き合いたいと思っている。

3月20日、ぜひラジオの前でお会いしましょう!

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2009年3月14日 (土)

魔法の言葉

ぼくはピンチのとき、こころのなかでよくつぶやいてきた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。なんとかるさ」

こころが前向きなにり、元気と勇気が出てくる。
Photo
そして、もう一つ。

「なげださない」

どんなに困難な状況でも、医者も患者もなげださない。
そこから、人生は輝きだす。
人生、何事もなげだすことなく、真摯に正しいと信じる仕事をしていれば、いつか、きっといい風が吹いてくる。

ゆうゆう特別編集の「人生を豊かにする言葉の力」(主婦の友社、1200円)が出版されている。
「人生の達人」33人が、こころやからだにほっと灯りをともす「魔法の言葉」を紹介している。
柳田邦夫さんや曽野綾子さん、澤地久枝さんらとともに、鎌田實はトップで上の二つの言葉を紹介した。

ぜひ、読んでください。

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2009年3月13日 (金)

『だいじょうぶ』発売

Photo 夜回り先生の水谷修と鎌田實の往復書簡『だいじょうぶ』(日本評論社、1260円)が発売された。

あつい、あつい往復書簡が交わされている。
当然、水谷と鎌田の組み合わせなので、経済や教育や国のあり方、環境、平和などをテーマに厳しく切り込んでいる。

当初、夜回り先生が怒り、鎌田が受け止めるという話の展開が予想されたが、めずらしく鎌田が怒り、水谷が受け止めるという予期せぬことが起こった。
その結果、いままで水谷先生の本ではお目にかかれなかった水谷が出現し、
いままで鎌田の本では書かれたことがない鎌田が出現した。
夜回り先生のおかげで、自分のなかにしまっていた“うちなるもの”が出てきたように思う。

2人ともあきらめていない。
この国を少しでもよくしたい。
まだまだ、よくできる。

そう思いながら、どうしたらいいかを本気で考えた。

ぜひ、読んでください。

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2009年3月12日 (木)

おばあちゃんの知恵 干し大根

原村診療所に診察に行くと、
82歳のスミコさんが、干し大根をもってきてくれた。
うわさではきいたことはあるが、090225
はじめてみる。

大根を輪切りにして、まんなかに穴をあけ、縄でつなげて、軒下にぶらさげて乾燥をさせる。
日が当たるためにビタミンDが豊富になる。
かつて流通や冷凍技術がなかったころ、冬においしい野菜を食べる一つの工夫だったという。

信州の人たちは、長く厳しい冬、こうやって自分のからだを守ってきたのだろう。
ていねいな生き方をしている人たちだ。

こういう知恵を守っているおばあちゃん、大好き。

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2009年3月11日 (水)

メタボ健診に問題あり

メタボ健診の意味を問い直す研究が、厚生労働省の研究班から発表された。
鳴り物入りではじめた厚生労働省の、お膝元からの発表である。

ぼくはもともとメタボ健診にかんして、疑問視をしてきた。
メタボ、メタボと命がけで大騒ぎするのではなく、「ちょいメタ」とか、「ちょい太」とかのほうが、むしろ長生きする。
そんな主張を、「鎌田實のがんばらない健康法」で展開してきた。
(4月、朝日出版社から発売される)。

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健診では、腹囲を測定し、男性は85センチ以上、女性は90センチ以上が異常とされている。
だが、今回の研究で、CTで内臓脂肪面積が100平方メートル以上の人と、それ未満の人で、心臓病、脳梗塞を引き起こす動脈硬化の進み具合にあまり差がないことがわかった。
正確にCTを用いて内臓脂肪面積をはかった測定ですら、因果関係に乏しいという結果になったのだ。
まして、腹囲を測っただけでは、本当に内臓脂肪面積がわかるのかどうかも疑わしい。
また、メタボ健診では、まず腹囲の基準をオーバーしており、それにくわえて高血圧や高脂血症、高血糖のどれかがあるときに指導の対象となる。
これを新しい健診スタイルとして大々的に行ってきたわけであるが、どうも因果関係が薄いということがはっきりしたようだ。

日本中で講演をしていると、当然、健康づくりの話もテーマになる。
地域の医師会の先生たちからは、苦情や不満をたくさん聞く。
群馬県のある市の医師会長は、こう不満をぶちまけた。

「メタボ健診のおかげで、がん検診の受診率もメロメロになってしまった。なおかつ、腹囲が正常であると、血圧や脂質、糖が異常であっても、指導が入らない。地域での健康づくりの低下を、メタボ健診がおこしてしまった。しかも、メタボ健診のために医師も保健師も、燃え尽きそうな忙しさで、冗談じゃない」

この医師会長の話は正しいと思う。
各地でこういう話を聞くのである。

メタボ健診なんかやるよりも、『ちょい太でだいじょうぶ』(集英社)や、これから4月にでる『鎌田實のがんばらない健康法』(朝日出版社)のほうがよっぽど効果が出ると思う。

写真は、汐留から望む朝の東京湾。

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2009年3月10日 (火)

安倍文殊院に行く

陰陽師、安倍清明のいた安倍文殊院を訪ねる途中、タクシーの運転手がこんなことを言った。

12年前、大腸がんの手術をして、4年前に腹腔内のリンパ腺に転移した。090218_2
再発したリンパ腺のがんは手術できなかったが、抗がん剤を使ってなんとか5分の1くらいまで小さくなった。
再発以来ずっと、大安寺というがん封じのお寺と、この安倍文殊院にお参りをしている。
いまも、元気にタクシーの運転手を続けられているのは、大安寺と安倍文殊院のおかげだと言っていた。

090218_3 奈良は、「中央公論」3月号のがんの治癒力総合ランキングでは、各県のちょうど真ん中くらい。
長野県は1位だ。
埴岡というジャーナリストが奈良県のことを批判していた。
県のがん治療対策計画がつくられていない、どうしようもない県だという。
だが、ぼくはあまり計画なんか信じていない。
官僚がつくる計画でろくなものはない。
奈良県はけっこうよくやっている。

この埴岡さんがほめている島根県は、圧倒的に他県に比べてすばらしい対策を講じているはずなのに、がんの死亡率はけっしてよくないし、がんの治癒力もよくない。090218_4
対策のプログラムができていても、たいしたことはないのである。
しかも、がんの先端医療を担うがんセンターがあれば、がんの治癒率が高くなるというわけでもない。

もっと大切なのは、住民力だとか、病院と病院のネットワークである。
がんの拠点病院だけ整備すれば事足りるというのは誤解だと思う。
がんの治癒効果を上げるには、拠点病院だけではなく、2番目、3番目の病院の充実が大事なのである。

奈良県のがん封じのお寺が、がんの治癒力をあげるかどうかは別として、病院のセンター化や機能集中化というわかりやすく合理的なものではない、複雑な支え合いやネットワークが、いのちを支えているのかもしれない。

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2009年3月 9日 (月)

鎌田實の一日一冊(20) 言魂やどる往復書簡

『言魂』(石牟礼道子、多田富雄著、藤原書店)を読んだ。

打ちのめされた。Photo

免疫学の世界的権威、多田富雄が脳梗塞に倒れ、右半身麻痺のため全く話すことができなくなった。
さらに進行性のがんにも侵された。

受け手となる石牟礼道子は、重いパーキンソン病に苦しんでいる。
苦しみの中に生きる2人の間で、言葉の魂のやり取りが交わされる。

多田は石牟礼の書簡を読みながら、水俣の苦海と色町の苦海がつながっていることに気がつく。
そこから苦しみの中にいる2人は、アウシュビッツや特攻隊や、沖縄、広島、長崎など、人間が生み出した苦しみを語り合う。

石牟礼が「人間が営み始めた文明、これはたぶん絶望的な悪魔性を自覚した人間の自己救済でしょうか」と語りかける。
なるほどなと思った。

多田は、言葉を話せなくなっても負けない。
詩集を出し、広島や長崎や沖縄の新作能を次々と作り上げていく。
徐々に、がんは悪化していく。
どんなに辛くても、楽にぽっくり死にたいと思うのはよくないと多田は思う。

石牟礼は「存在の黄昏の中にたたずんで、思いめぐらしております。人間は思考力を持ち、歴史を持ち、文明をいとなみ、美的感受性を持ち、もののあわれを持ち、ここまできて、さてしかし人間とはいったいなんであったかと…」と考える。
豊かに生きようとして地球環境を汚染してしまった。
同時に人間の内部世界の魂も汚した。
人類に救いはあるのかと2人は問う。

多田はがんの苦しみにのたうちまわりながら、それでも報われたと書く。
アインシュタインを題材にした新作能を京都東寺で上演する。
命がけの上演であった。
感動的だ。
「おかげで私の人格は破壊されなかった。苦しみを文字にするだけで魂が救われた」と2年間の往復書簡に彼は感謝する。
希望を見出していたのである。
石牟礼も多田の手紙を受け止めながら、「人間精神の崇高さがここまで記録されたのは稀有のことではあるまいか」と書いた。
そのとおりだと思った。
苦海の中を生きる二人の巨人が、生命、魂、芸術を巡って、重い往復書簡をした。

読書の好きな人にはたまらない本だ。

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2009年3月 8日 (日)

浮き球

北海道に住む、大学の先輩の行木先生は、海岸に建つ「三郎小屋」の持ち主。
三郎とは、お父さんの名前だという。
ぼくが、茅野に建てた家に「岩次郎小屋」と父の名前をつけたのも、行木先生の「三郎小屋」がきっかけとなった。
その行木先生から、送っていただいた浮き球は、いまも岩次郎小屋にかけられている。

090207木先生は、いまは弟子屈でクリニックをやり、奥さんはペンションアリスガーデンを開いている。
ペンションは、洋館を改装し、
内部は、行木先生が北京大使館の医務官をしていたこともあって、外国で集めたクオリティーの高い調度品がおかれている。
行木先生手作りの野天の浴場もある。
広大な敷地のなかには、お茶を飲める小屋が点在しており、かなり居心地がいい。
すてきなペンションである。

朝ご飯はとてもおいしい。
夕ご飯は、近くにある安くておいしいおすし屋さんを紹介してくれる。

道東に行くときには、ぜひ、このペンションにお泊りください。

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発見!特Bグルメ(48) 陶板焼きの麻婆豆腐

ぼくは、麻婆豆腐が大好き。090211_2

先日、北海道に行ったとき、陶板焼きの麻婆豆腐をみつけた。

陶板焼きなんて、めずらしい。

あつあつで、おいしかった。

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2009年3月 7日 (土)

発見!特Bグルメ(47)森のレストラン カナディアンファーム

Photo_5  茅野市のとなり、原村にあるカナディアンファームに行った。
森の中のレストランである。090224_2

オーナーのハセヤンは、自分たちのパン工房を守るために、冬の間も丁寧にパンを焼き、定期的においしいパンを病院にとどけてくれている。
ぼくもそのパンをときどきおすそわけしていただいている。

産婦人科の青山先生が、緩和ケア病棟の回診をした後、原村への往診にもつきあってくれたので、その帰り道、カナディアンファームに寄って、一緒にお昼ご飯を食べた。

Photo_3

いのししの肉の燻製や、牛や豚の燻製、サーモンの燻製。なかなかおいしい。

090224_4 ハセヤンの燻製づくりは、レンガを積むところから始まり、肉やサーモンにカマンベールチーズをつくる菌をまいて、丹念につくりあげていく。

鶏料理は、ハセヤン手作りの鉄製のストーブで焼く。
下がオーブンになっていて、遠赤外線で肉がじつにうまく焼ける。
鶏肉の皮はパリパリ、中はじっくり火が通るので、とてもうまい。
それと、大きなハンバーグに、焼きたてのパンが、ぼくらの胃袋を
満たす。

090224_3 外は雪まじりの空模様。
うまい料理と、あかあかと燃える薪ストーブ。

ちょっぴりぜいたいくなお昼のひとときを済ませ、ぼくらは午後1時からの予約外来へと戻っていった。

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2009年3月 6日 (金)

最後の卒業式

今年、長野県立中野高校は、98年の歴史に幕を閉じる。
最後の卒業式が行われる少し前、ぼくは「教科書にない一回だけの命の授業」をしにいった。090227_2

中野高校の林先生が、ぼくの本を読んで感動してくれ、ぼくを招いてくれたのだ。 
学生たちにもぼくの本をすすめてくれたようで、読んでくれている学生たちが多かった。
なかには、今年の春、中野高校から諏訪中央病院看護専門学校に進学が決まった薩田さんもいた=写真。

中野高校は、98年間、1万7000人の卒業生たちを出してきた。
今年、最後のアンカーが巣立っていく。

見事なアンカーだった。
いい若者たちだった。

彼らの未来に幸あれ、と祈る。

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2009年3月 5日 (木)

われわれはどこから来たのか②

~~卑弥呼の墓に行った~~

箸墓古墳をみてきた。0902181
孝霊天皇の娘の墓ということになっているが、邪馬台国の卑弥呼の墓ともいわれている。

卑弥呼は184~248年の長きにわたって、邪馬台国というよりはもっと広い範囲の倭の国の代表だったらしい。
その倭の国は、弥生時代から古墳時代に移るころに、紀伊半島から関西、中国地方を示す領域に広がっていく大和王国の前身だった。

形の見える武力ではなく、祭祀呪術、あるいは原始宗教のようなもので国を治めた可能性が高い。
後に大和王国に王が生まれ、天皇と呼ばれるものがつくられていく。

箸墓古墳のある奈良県桜井市の南東には、あの三輪山がある。0902182
万葉集にもよまれている三輪山である。
三輪神社の祭祀は、天皇家の祭祀に似ているものがあるという。
そして、大和地方に、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳がある。
これはいったい何を物語るのか。

弥生時代の末期、この大和の地を中心に、卑弥呼の邪馬台国があったのではないか。
「邪馬台」は、漢字一字ずつに一音を発音していたので、「やまたPhotoい」ではなく、もしかすると「やまと」ではないかといわれている。
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国は、大和の国の前身ではなかったのだろうか。
大和という地域に大和の国があり、その中心が三輪山、三輪神社がある一帯ではなかったかと推測されている。

『三輪山と卑弥呼・神武天皇』(学生社)には、卑弥呼と三輪山と大和王国と天皇家のはじまりである神武天皇のことが、史実と神話に基づいて書かれている。
たいへんおもしろい本である。
もちろん、卑弥呼は北九州にいたという説もある。
大和説は諸説の一つで、証明されているわけではないが、たいへんおもしろい学説だと思った。

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2009年3月 4日 (水)

地域医療を救え

先日、このブログで兵庫県の県立柏原病院の話を紹介した。
   http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-1ad3.html

その立役者の一人、柏原病院の小児科を守る会の代表の丹生さん=写真=と、奈良県の地域医療のシンポジウムでご一緒した。090218

奈良県は、地域医療に対して住民の意識が高い。
たしかに2年前、妊婦が19の病院をたらいまわしにされ、亡くなったという悲劇はあった。
だが、それはマスコミに取り上げられていないだけで、各県にもあるはずである。
奈良は一生懸命、地域医療の充実を考えているようで、これからは少しずつ改善の道へ踏み込んでいくと思う。

問題は、この国の医療費抑制政策がボディプローのように日本の医療を痛めつけていることだ。
それによって、各地に医療崩壊が起きはじめている。
その一端が、いくつかの県ではっきり見えてきているということである。
国は、はやく方向転換をして、医療費抑制政策を解除する。
それが、医療崩壊を防ぐことになり、国民のためになる。

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2009年3月 3日 (火)

素朴な雛人形

NHK長野放送で、夜8時から1時間、介護の人材不足を取り上げた番組に出演した。090301
そのときに、素朴な雛人形に出合った。

飯田の南のいくつかの地域では、最近、伝統の雛祭りが盛んに行われているという。
昔あった雛祭りをもう一度ほりおこして、文化を伝えようとしている。

土雛の素朴な表情がいい。
豪華お雛さまが買えなかった農村では、素焼きの焼き物に色絵をつけたお雛さまを飾った。
なんともあったかい。

お雛さまに供えられているのは、「からすみ」というお菓子である。
からすみのような高価なものは買えなかった農村では、米の粉にお砂糖を入れて、色をつけた雛祭りのお菓子の復元である。
素朴な味がした。
おいしかった。

きょうは雛祭り。
女の子の健やかな成長を願う日。
地域に伝わるあたたかい風習が、少子化の現代にもしっかり伝わっている。

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2009年3月 2日 (月)

鎌田實の一日一冊(19) 夜回り先生の新刊

『あおぞらの星2 夜回り先生と生きる』(水谷修著、日本評論社)を読んだ。

リストカットをする子どもたちに向かって、夜回り先生が語りかけることばは、おっ、さすが、と思わせるものがある。

「君たちはなぜ、自ら死ぬことを自殺というか知っていますか。Photo
それは自らのからだを自らのこころで殺しているからです。
私たちはこころだけで生きているのではありません。
からだとともに生きています。
私たちのからだはいつも私たちのために戦っています。
細菌が入れば、熱を出して、それを滅ぼそうとする。
悪いところがあれば、痛みで私たちに伝える。
私たちのからだは、いつも私たちを生かそうとしてくれています」

「夜眠らないでからだにつらい負担をかけたり、大切な君自身であるからだを自ら滅ぼしてしまう子どもたちが増えています。
悲しいです」

なぜ自殺してはいけないか。
なぜリストカットをしてはいけないか。
水谷先生のことばは、説得力がある。

ぜひ、読んでください。

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2009年3月 1日 (日)

がん治癒力総合ランキング1位のわけ

東京医科歯科大学大学院、医療経済学分野の井上先生が、いくつかのファクターをいれて計算した結果、長野県ががん治癒力総合ランキングで1位になった。

長野県のがんの予防力は2位である。
検診率は、長野はけっして高いほうではない。
胃がん検診の受診率も9番目である。
喫煙率、喫煙率は長野は低いけれど、ベストテンには入っていない。

がんの専門医や緩和ケアの専門認定ナースなど、がんの医療資源機能力でも、むしろ低位である。
がんの放射線治療認定医数も、悪いほうから数えて11番目である。
呼吸器外科の専門医数も少ない。
もちろん長野県には県立がんセンターもない。
信州大学の医学部が中心的な役割をしている。
しかし、日本中のすべての県に医科系の大学がつくられているので、特別な状況でもない。

では、なぜ1位なのか。090228
長野県はがん連携拠点病院がけっして充実しているわけでもなく、早い時期に導入されたわけではない。
むしろ、遅い時期、最近になって拠点化が明確になった。
なかなか拠点病院がつくれなかった県である。
ゆえに、がんの拠点病院化が、長野県のがん治癒力総合ランキング1位にしているわけでもない。
むしろ、中小の病院と中核病院との連携のよさが、長野県の特徴ではないだろうか。

これは、長野県が日本一長寿であり、老人が多いわりには日本一老人医療費が安いことと似ている。
保健補導員の制度があって、住民の健康に対する意識は高い。
長野県は、もともと国保の病院や自治体の病院、農協の病院が地域医療を一生懸命行ってきた。
開業医も地域医療に関して理解が高い。
これが、たいへん大きな要素だと思う。

厚生労働省により、日本中が拠点化すすめられているが、
むしろ拠点化、集合化する前の、長野県の医療のあり方が、ランキング1位にしているのではないか。
それは、病院同士のネットワーク化である。
これまで長野県は、信州大学を中心にして、ネットワークを張り巡らし、小さな病院は小さな病院なりにがん治療を行ってきた。
このネットワーク化が、地域を支えてきたのだ。

がん対策基本法ができてから、病院の拠点化や集合化がすすめられている。
だが、そうすることによって、拠点病院の医療の質がアップする一方、患者が集中し、医療が乱雑になっている面も否定できない。
拠点病院さえあればいいというでは、すぐに破綻する。
拠点病院を中心にしながら、ネットワーク化を明確にしていくことが、がんの治癒力をアップさせるのではないかと思う。

写真:あたたかい今年の冬、久しぶりに雪が降った。
伊那の高遠へ抜けていく、杖突峠の山が真っ白く雪で覆われた。
朝日があたり、じつに美しい。

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もうすぐ発売『だいじょうぶ』

鎌田實と水谷修の往復書簡『だいじょうぶ』が、3月6日、日本評論社より発売される。
自分で言うのもなんだけど、なかなかおもしろい本。Photo_6

ニコニコ鎌田が鎌田らしくなく怒り、憤れる水谷が水谷らしくなく受け止める。
いつもの2人のポジションが入れ替わっている。
ちょっとしゃれた本で、写真もいい。

もうすぐ発売。
ぜひ、ご期待ください。

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