われわれはどこから来たのか④
~~ゴーギャンの島へ(3)~~
タヒチの人たちはゴーギャンのことをどう思っていたのだろうか。
現地の人に、ぼくは尋ねた。
「あまりポジティブには考えていない」と答えてきた。
ゴーギャンは、いろんな人といさかいを起こした。
当時、島に中国人の町ができ、タヒチアンと中国人が結婚する家族が増えてきたが、そんな風潮をゴーギャンは否定し、批判していたという。
にもかかわらず、彼自身は13、14歳の少女を自分の女にしていた。
若い女の子を裸で歩かせて、絵に描いたりもした。
こうした振る舞いが、タヒチの人にはあまり受け入れられなかったようだ。
ゴーギャンは、マルケサス諸島のヒバ・オワ島で、最後の数年をすごし亡くなった。
そこに墓もある。
ヒバ・オワ島には、もう一人ヨーロッパ人の墓がある。
歌手で詩人のジャック・ブレルである。
ヒバ・オワ島の人たちはジャック・ブレルが好きだった。
ジャック・ブレルを自慢にしており、彼の墓はきれいに掃除され、いつも花が飾られている。
だか、ゴーギャンの墓はあまり花が手向けられているのをみたことがないという。
「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」は、ゴーギャンの1897年の傑作。
この絵を描き上げて自殺をこころみる。
あらためて絵をみると、ここには、西洋人の人間至上主義、人間中心の世界が描かれていることがわかった。
タヒチの人には実に長い長い名前がある。
その名前には、亡くなったあとに魂がいくところ、そして、自分たちの生活している大地と釣りをするラグーンが語られている。
つまり、どこから来て、そして、どこへ行くのか、自分の名前が物語っているのだ。
この話を聞いたとき、ゴーギャンの傑作は、人間が生まれて育ち、老い、死んでいくところまでは描かれているが、
生まれてくる前の「どこから来たのか」、そして、死んだあと「どこへ行くのか」は十分に語りきれていないと思った。
ゴーギャンは西洋の合理主義が嫌いで、自然を求めてポリネシアにやってきた。
にもかわらず、西洋の人間中心主義の考え方を超えることはできなかった。
われわれが来たところ、そして、帰っていく大きな自然や宇宙。
ポリネシアの海を見ていると、それがよくわかるような気がした。
そして、ぼくたち日本人はこのポリネシアの海から、いくつもの椰子の実と一緒に流れ着いた可能性がある。
上の写真は、アラフラフのマラエ。下の写真はティキという偶像。ヨーロッパ人が入ってきたときに、一度破壊されてしまったが、復元された
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