「故郷」をめぐって
おもしろい対談を読んだ。
『雪』『私の名は紅(あか)』で知られるノーベル文学賞作家オルハン・パムクが、
『悪魔の詩』の作者サルマン・ラシュディと対談をしている。
パムクは、今、故郷イスタンブールを離れている。
ラシュディは、イスラム原理主義者に狙われて、潜伏生活を送りながら、執筆活動を続けた。
トルコやインドになかなか帰れない。
その2人が「故郷」とは何か語りあった。
パムクはこう言う。
「今遠く故郷を離れてようが、私には故郷の言葉があり、文化があり、そのほかのあらゆること、あらゆる人に対して、
ほかの場所で感じる以上の共振を感じ、自分の一部であり、母なるものを感じます」
作家が自由なことを書いた結果、故郷にいられず、故郷から離れていくが、望郷の思いは強まっていくような感じがした。
一方、ラシュディは「故郷や自分が帰属すべき場所について現実に考えている自分がいる一方で、気持ちのどこかでアウトローを願い、そこに葛藤が生まれている」と語る。
「故郷は自分を守ってくれるだけでなく、故郷ではコミュニティーに属するものとしての責任の重みを感じるし、
あらゆる質問にこたえていかなければいけないという気にさせる」(パムク)
ぼくの故郷はどこなんだろう、と考えた。
人生の半分以上を過ごした信州が、ぼくのホームなんだと思う。
ホームではコミュニティーに属しているから、今ぼくは地域の副常会長をし、いろいろな会合に出て、
道の草取りや村の共同墓地の掃除当番に出たりする。
これが故郷で生活するものの責任なんだろうと思った。
ラシュディは反対にこんなことを言っている。
「私は無責任なんですよ。私は今ニューヨークにいる。責任感を捨ててしまえる。一種の解放だね。私は責任を大事にしてきたが、責任を解き放つこともできる」
うん、うまいことをいう。
パムクの、故郷にいると責任が生じるというのと、ラシュディはその責任を感じながら、そこからの解放がありうるのだという。
どうも、この両方の間に居心地のよさがあるのではないかと思った。
共同体にどっぷりつかりすぎると縛られてしまう。
自由がない自分がみつかる。
共同体につながりを持ちながら、解放されている自分が感じられるそのバランスのよさが、生きていくために大事なのではないかと思った。
パムクはこういう。
「故郷は起点にすぎず、そこを離れてからの体験の判断基準は、そこにあるわけではありません」
そうなんだとぼくも思う。
故郷は起点なんだ。信州を起点にしなから、信州だけにこだわらずに、責任と自由と解放をバランスよく保ちながら生き抜いていくことが大事なのかなと思った。
学芸総合誌・季刊『環』2009年スプリング号37号(藤原書店)。
この対談はなかなか見過ごせない。
写真は、“ふるさと”信州の夕暮れ
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