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2009年6月29日 (月)

鎌田劇場へようこそ!(23)『嗚呼 満蒙開拓団』

いい映画である。
2008年キネマ旬報文化映画部門ベストテン第1位、2008年日本映画ペンクラブ文化映画ベスト1。
たしかに考えさせる映画である。
監督は、羽田澄子。

満州(現在の中国東北部)へ行けばお米もたくさん食べられると、役場の人に勧誘され、満州へ開拓団として出ていった。
しかし、すぐに終戦。避難命令が出て、逃げるだけ。
父母、妹らを逃避行中、亡くす。
役人に騙され、死にに行ったようなものである。

1929年、世界大恐慌がおき、その2年後、日本政府の国策によって旧満州内蒙古に入植されられた日本移民は27万人といわれている。Tky200906020129
そのうち約8万数千人が亡くなっている。
逃亡中、最も優先されたのは、軍人と軍人の家族。それから満州鉄道の職員や役人。
夫を兵隊にとられ、村に残っていた女と子どもたちは、手をとりあって逃げた。
そのとき、多くの中国人が日本の子どもを救っている。

しかも、中国人は戦後、日本人公墓を建てているのである。
周恩来首相が「開拓民たちも軍国主義の犠牲者である」と言って、国交を回復するまでに墓を建立してくれたという。
こういう政治家がいるんだな。
こういう哲学をもった政治家がいてほしいと思う。

さらにいい話は1966年、文化大革命のとき、荒れ狂った紅衛兵たちが日本人公墓を破壊しようとした。
そのとき黒龍江省政府は、これは日本軍の墓ではない、日本の庶民の墓である、彼らに罪はないと、紅衛兵の要求を断固として退けたという。
日本と中国は、このごろギクシャクしているが、こういう話をみんなが知っていることが必要なのではないだろうか。

今月号のPHPで、中国から諏訪中央病院看護専門学校に来た留学生チャンリーリーのことを書いたが、
日本と中国であったかな交流を繰り返す必要があると思う。
経済のパートナーとしても、日本と中国は友人関係を築いていく必要がある。

朝日新聞の伊那支局の田中記者に電話をして聞いた。
彼は、長野県の満蒙開拓団について詳しく取材をしてきた。
長野県は、全国で一番、満州に県民を送り込んでいる。
なぜ長野県が一番多いのか理由を聞くと、第一の理由は信州が貧しかったことだという。
生糸産業が大打撃をうけ、養蚕農家が壊滅的な状況になった。
それを打破するために、移民政策によって、生きる方法を模索したのではないか。
もう一つは、村長や村の役人、軍人など熱心な指導者がいたこと。
さらに教師も、15~17歳の教え子を満蒙開拓青少年義勇軍に送り込んだという。
なんともつらい話である。

ぼくは勝手に想像した。
長野県の人はとてもまじめである。
国の方針は100万戸、500万人を送り込むというものだった。
その命令が国から県へと下り、そして役場に圧力が加わると、村では誠実に実行しようとした。

それだけではない。
青少年義勇軍の生活を守るために、今度は「大陸の花嫁」といって若い女性がわたらされている。
国がつくった悲劇である。
しかも、満州にわたっても、開拓団には耕す土地がなかった。
結局、現地の農民の開墾した土地を安く買い叩き、日本人が耕作をした。
現地の農民は、小作人にさせられてしまったのである。
どんなことがあっても、戦争をすべきではないことを考えさせる映画である。
よくできている。

羽田監督の作品は、『痴呆性老人の世界』や『安心して老いるために』『終わりよければすべてよし』をみてきた。
いつもインテリの視線で物事をみているのが気になっていた。
とくに住民が選択した福祉のまち、秋田県鷹巣町の話などは、福祉の充実した町づくりの現場にカメラが入り込んだ。
町を変えていくには、町の中から、自分たちの町を変えなければというエネルギーが出るべきであったが、
町の一部のリーダーが東京の知識人とつながり、たくさんの知識人が何人も興味本位で町に入っていくことによって、
かえって反動がおきてしまったような気がするのである。
羽田さんたちのよそ者が、あの小さな町に入っていかなければ、あの町はゆっくりではあるが着実に新しい町づくりをしていったのではないかという気がするのである。

今年、福祉の町づくりをした元鷹巣町の町長が選挙に出たが、大差で負けたようである。
日本中から期待された福祉の町づくりは、羽田さんのようなインテリが入ったことで、かえって反動を生んだように思う。
地域づくりは、理屈ではないと思う。

ぼくは農村地域に来て35年になる。
数十年という単位で、住民とごはんをたべたり、お茶をのんだり、酒をのんだりしてきた。
いま、ぼくは地域の副常会長として若い人たちの球技大会の道具を集めたり、ジュースを用意したりしている。
内側から一緒に汗をかくことの大切さを感じている。

羽田監督の映画はたしかに1986年の時点で、認知症の社会的な問題だけでなく、認知症の人の心の奥へ入り込もうとする鋭さが感じられる。
だが、「住民が選択した福祉」で感じた、外側からのインテリの目がどうしても気になって、いつも全面的な大拍手はできなかった。
でも、今回の映画は肩の力が抜けてちょっといい。

上映は、岩波ホール。
映画はたいへん評判を呼んで、多くの客があるというが、夜の上映はまだ席に余裕があるようだ。
7月になると、水曜日の4時半からの休憩時間に満蒙開拓団にかかわった人のスピーチも計画中という。
ぜひ、みてほしい。

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