紅いこうもり傘
なんとなく、唐十郎のことが気にかかってしょうがないのである。
最近、DVD3枚組の『演劇曼荼羅 唐十郎の世界』を見続けた。
先日、彼の家を訪ね、芝居の話をいっぱい聞いた。
気になっていたのは、唐十郎と水の世界である。
水の中から登場することがかなり多い。
唐十郎の芝居の多くは、朝鮮半島と日本列島との間の海峡にもスポットを当てている。
「なんで水にこだわるのか」とぼくは聞いた。
唐十郎は、小学校4年のとき、水溜りを見ているうちに、魚がいるような気がして、釣り糸をたれた。
釣り糸をたれて、ずっと浮きを見ていると、浮きがたつ。
10センチくらいの水溜りの底に魚が泳いでいるような気がしてならなかったという。
『あのね 子どものつぶやき』(朝日新聞社)という子どもの言葉を集めた本のなかに、
冷やそうめんを食べながら、そうめんを浮かべた器の水の中で泳ぎたいなと言った子どもがいた。
唐十郎は、そんな子どもの想像力を、今も持ち続けている特権的想像力の持ち主のような気がしてならない。
かつて不忍の池のほとりで『二都物語』を上演したとき、
舞台の袖のテントがぽんと開かれると、大久保鷹や根津甚八が、池の向こう岸から泳いできた。
しかも、大久保鷹は和式の机を背負っている。
舞台にそのままあがってくると、引き出しから水がどっとあふれ出した。
まさに特権的肉体をもちあわせた異形的役者の集まりだった。
紅テントは、まるで子宮のようだ。
そのなかで育つ胎児は、羊水によって守られている。
だから、いつも水にこだわっているのかなと思った。
かつて寺山修司が「唐さんは私探しをいつまでもしている」と言ったことがある。
ぼくが、そのことについて聞くと、唐十郎はこう答えた。
「私探しをしているけれど、そもそも原点の私は壊れていて、私に似た私を探しているのです」
鋭い目をして言った。
だが、すぐににやっと笑い、その鋭い目を隠した。
芝居の話をたくさん聞いて、お昼を食べて、彼のうちを帰ろうとすると、雨が降っていた。
唐十郎が「この傘、もっていきな」と差し出してくれたのが、紅いこうもり傘だった。
傘を広げると、まるで、あの花園神社の境内に忽然とたつ、紅テントのような空気になった。
あれからぼくは、あの紅いこうもり傘を部屋の中で差しながら、小説や『唐十郎 紅テント・ルネサンス』(河出書房新社)を読んだり、DVDを見たり、
唐十郎の世界に浸っている。
写真は、唐十郎からもらった紅い傘、コレガホントウノ唐傘?
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