« お伊勢参り⑦ | トップページ | ラブレタープロジェクト2009 »

2009年10月 8日 (木)

われわれはどこから来たのか⑮

~~命の旅~~

われわれはどこから来たのかという膨大なテーマを抱えながら、お伊勢参りをしてきた。
決して、単純なつながりとして、われわれは生きているのではないことが少し見えてきた。
われわれはどこから来たのかという膨大なテーマは、結局は命の旅を見つめようとしているのではないか。
そうすると、命とは何かという壁にぶつかる。

イヴァン・イリイチの『生きる意味――「システム」「責任」「生命」への批判』(藤原書店)という分厚い本を読んだ。
少し脱線するが、おもしろいことを言っている。

「法律家や医者といったかつてのリベラルな職業は、それらが提供するサービスを強制的なものとすることなく特権を獲得してきた。そして支配する職業になり、いずれ合法的な独占事業となり、暴力団の冥加金取立てと同じ仕組みを有するようになった」

イリイチは、脱病院社会とか脱学校社会など提唱した社会学者。
わかりやすい話として、墓掘り人についてこんなふうに書いている。
「自分たちを葬儀屋と称することによって、あるいは大学から信任状を獲得することによって、また自分たちの収入を増やすことによって、仲間の一人をライオンズクラブの会長にすることによって自分たちの商売につきまとう風評を取除くことによって、(中略)一つの職業を形成したのである」
なんともわかりやすい言葉である。

ぼくは、評判の高かった映画「おくりびと」をどうも好きになれない。
それは、この支配する職業、専門家の型枠によってかたどられたいびつ性を、「いやな空気」として感じたからかもしれない。

次の本を用意しているなかに、ぼくは「おくりびと」というエッセイを書いているが、専門家のおくりびとに任せるのではなく、自分たちの親戚や友人や地域の人などアマチュアがおくりびとになることにあこがれをもち、鎌田流の「おくりびと」のアンチテーゼを示している。
イリイチの思いに少し近いなと思った。

本題に戻そう。
生命とは高度に抽象的な言葉、だからこそそれは容易に操作されてしまうのでしょうか、という質問に対して、イリイチはこう答えている。
「生命という言葉は疑いなく根なし草の言葉であり、明らかに常識によって指し示される対応物を欠いた言葉です。一口に生命といっても、それは一人の人間であったり、一人の子どもであったり、あるいは一個の細胞であったり、すなわち子宮内の、乳児になる前の細胞であったり、一頭の熊であったり、一匹の蜂であったり、一個の分子であったりします。それゆえ単に生命といっても、それによってあなたは何のことを話しているのか、だれにもわからないのです」

そう、ぼくは最近、講演のなかで「命とは何か」という話をし、38億年つながってきた命の話をする。
命には、どうしても必要な二つの仕掛けがある。
一つは、生命活動を支え、維持するための代謝という機能。
もう一つは、伝えるという機能である。
地球上に奇跡的に生命が生まれても、その生命の代謝が終われは生命も終わる。
しかし、生命は途切れることなくつながった。それは、生命のなかに伝えるという仕掛けがあるからである。
ぼくが生命と言うとき、その二つの機能をもつ一つの細胞を示し、その細胞によって構成された、生きている何かを示している。それは熊であったりするし、蜂であったりするし、人間だったりもする。
命は、単細胞からはじまり、少しずつ変化を遂げながら複雑な命の形になっていった。
命は、長い旅を続け、今を迎えている。
われわれは、いまも命の旅をし続けている。

|

« お伊勢参り⑦ | トップページ | ラブレタープロジェクト2009 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事