お伊勢参り⑥
~~伊勢神宮はどのようにしてつくられたか~~
『伊勢神宮―魅惑の日本建築―』(井上章一、講談社、2940円)は550ページにもわたる大著だ。
興奮しながら読んだ。
現在の伊勢神宮の千木(ちぎ)や勝男木(かつおぎ)は天皇家独特のものといわれる。
古事記は、勝男木を天皇の宮殿に許された飾木であると書いている。
しかし、江戸時代、古事記の研究をしていた本居宣長は、勝男木は宮殿だけでなく山里の民家の防風用にも使われていることも知っていたという。
ちなみに本居宣長は開業医であった。
評判のいい医者で、たいへん忙しい臨床の合間に、源氏物語や古事記の研究をしたというからすごい。
井上章一は、天皇家にとって大事な伊勢神宮をやたらの推測で語るわけにはいかず、たくさんの研究者たちの研究や、歴史的文献を上手に使いながら、見事に伊勢神宮はどのようにしてつくられてきたかを示していく。
結局、天皇家独特のものかと思っていた千木や勝男木は、日本の各地域の民家にもみることができることがわかってきた。
千木にいたっては、南方のマレーシアや雲南地方、インドネシアでもみられるという。
この本の中で、太田博太郎という建築学者が出てくる。
太田先生は、蓼科に別荘があったため、亡くなる10年ほど前におつきあいをさせていただいた。
古代の建築の話をよく聞いた。
太田先生は、明治の新政権によって、神宮は途方もなく立派につくりかえられている、一種の工芸品になってきてしまったと批判的にみている。
絶対主義政権の一つの具体的な表現だ、と語っている。
伊勢神宮の社殿は、桧の節目のない、どちらかみても正目に見える贅沢な材でつくられるようになったが、おそらくかつて社殿は、贅沢なものではなく、素朴な美しさをたたえたものだったはずである。
建築史家の伊藤延男は、生命を失った形式化がいっそう進められた、明治以降、表面的なこぎれいさを狙う細工がされているという。
多くの学者たちが、大きな流れとしては大陸や南側からの影響を明らかに受けているが、どこかの時点から、これは意見が分かれるのだが、ある時代のところからより日本的なものに少しずつ切り替えられていく。
しかも、その時代、その時代の遷宮で、微妙にタッチの違う神宮がつくりかえられていったのではないかと、この分厚い本を読んで思った。
当然、人がやることであるから、まったく同じものはできず、その時代のなんらかの印象が現れていくことは致し方ないことだと思う。
高床式には床にネズミ返しがはられている。
おそらく伊勢神宮の始まりは、米の神庫であった可能性がある。
その時代のお米は祈りの対象であり、収穫された米を収めた場が祈りの場になっていったのではないか。
神宮の形式が日本的であるという話は、けっこう疑わしい、少なくとも鵜呑みにはできないと、井上章一は考えている。
神宮の社殿は大陸的なんだとも言い切れるわけでもない。
もちろん、短絡的にインドネシア的であると決め付けるのも間違っている。
権力の戦いの中でつくられ、そして当然、民衆の思いに支えられてきた伊勢神宮。
人は、ホモ・ルーデンス、遊ぶ動物ともいわれるが、その遊ぶ動物がお伊勢参りを名目に見たことのない土地を旅し、この伊勢で祈り、そして、いろいろな羽目をはずしながら、再び自分の日常に戻っていったのではないだろうか。
伊勢神宮という魅惑の日本建築を550ページの大著にまとめた井上章一、なかなかの腕力である。
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