介護の新しい発想⑥
居心地のいい杜の中のゴジカラ村
愛知県の長久手町に、ゴジカラ村という不思議な村がある。
杜のなかに、いろんなものが点在している。
ケアハウスや特養、グループホーム、訪問看護ステーション、託児所、幼稚園、多世代交流住宅。
「ほどほど横丁」という老人アパートがあったり、すきまだらけで、なんだかわからないけれど、居心地がいい。
そのゴジカラ村に、新しく小規模特養「だいたい村」ができた。
「だいたいで生きていけばいい」というのが、名前の由来。
だいたい村には、29人が入る。
この村のリーダー吉田一平のいい意味でのいい加減さが発揮されている、おもしろい施設である。
杜のなかには、古民家もある。
これがなかなかすばらしい。
吉田一平は、杜を残すこと、木を植えること、古民家を再生させることを柱に、こんなにおもしろい村をつくりあげた。
グループホームは、「よりみち」と「嬉楽家」がある。
それぞれ9人が生活できる。
そこには、“居候”が泊まれるところもいくつかある。
“居候”は、吉田の好みか、若い女の子に2万数千円で泊まってもらいながら、お年寄りたちに声をかけてもらおうという戦略である。
杜のなかを見て回ったが、なんともほっとした。
認知症のおばあちゃんが、ぼくを見つけると、「いい服きているじゃないか」と話しかけてきた。
「おばあちゃん、元気だね」と言うと、「元気、元気」とぼくに抱きついてきた。
ぐっと抱きしめてあげたら、うれしそう。
息子さんがやさしくて、毎日来てくれるという。
遠くにお嫁にいった娘が顔をみせてくれたときには、このだいたい村に何日も泊まっていった。
家族もここに泊まると、ほっとする、気持ちがよくなる。
環境がいいと、家族も訪ねやすくなる。
施設に行くと気持ちが滅入ってしまうと、どうしても足は遠のいてしまう。
ここには、家族がふらりとやって来て、杜のなかのあちこちで、いい交流が行われている。
ぼけてしまっても、どうってことはない。
人間の当たり前の姿。
おばちゃんは、ちょっと抱きしめられただけで、にこにこおだやかな顔をしている。
職員とともに、せっせとご飯づくりをしている。
ここではグループごとに、自分たちでご飯のメニューを考えて、勝手に作っている。
これがまたいい。
自分たちの好きなものが作れる。
昔の得意な料理、得意技を見せてくれる。
ぼけてもみんな生き生きしている。
みんなまだらなのだ。
ぼけたところもあるし、いいところもある。
ただそれだけ。
ぼくもそう。
まだらのなかのいいところと付き合っていけば、けっこう上手に付き合えるものだ。
いいところと付き合っていると、不思議なほど人間が壊れていかない。
このだいたい村には、そんな工夫がほうぼうに張り巡らされている。
居心地のいい村である。
入り口には障害者が運営している喫茶店がある。
吉田は、夜はここで一杯飲み屋ができないかと考えている。
二には、そろばん塾になっていて、子どもたちが来る。
そのうち、入所しているおばあちゃんが昔とった杵柄で、そろばんでもはじき出したら、おもしろいことになるな、とぼくは思った。
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