「カティンの森」
待望の映画である。
監督は、ポーランド人のアンジェイ・ワイダ。
1950年代に「地下水道」「灰とダイヤモンド」など、すばらしい映画をつくった。
ナチスに対するレジスタンス運動に参加していた監督は、美しいカメラアングルで、戦争の悲しみや、そこに生きる若者の切なさを見事に描いてきた。
ポーランドは、ナチス・ドイツに蹂躙されただけでなく、その後、ソ連の衛星国として自由を奪われていた。
その自由のないはずの国で、見事に政治の枠を超えた人間に迫る映画をつくってきた。
彼のなかには、レジスタンス運動に参加した若者だったころの熱い血がずっと流れつづけ、ソ連に対する巧妙なレジスタンスを行ってきたのではないか。
そのワイダが、79歳になって渾身の力で描いたのが、ポーランドの悲劇カティンの森事件である。
ポーランド軍将校ら1万5000人が、忽然といなくなる。
後に、ソ連の国内のカティンの森で多くの将校たちの遺体が見つかる。
ソ連は、ナチスがやった」と情宣活動を展開。
ソ連の衛星国になっていたポーランドは、ソ連の言いなりになるしかなかった。
これが「カティンの森事件」である。
ポーランドはその後、何度もカティンの森事件の真相を究明する映画をつくろうとしたが、できなかった。
ワイダも、自分の人生が終わりかかった今、ようやく撮ることができた。
ワイダの父は、ポーランド軍の将校で、カティンの森事件で亡くなっている。
自分の家族の映画でもある。
家族の絆を描いている。
戦争のなかでも、引き裂くことのできない家族の絆はますます深まっていく。
人と人とのつながりによって、人は生きていくことことができる。
同時に、人と人とのつながりによって、人は疲れていく。
支え合いがあったり、憎悪があったり。
カメラが美しい。
「灰とダイヤモンド」では絶妙なカメラワークで、夜明けのダンスホールで靄のなかにわびしいダンスが繰り広げられるという、不条理な世界を映し出した。
そのワイダが再び、美しいまちクラコフを詩情高く映している。
タデウシューという青年が突然の死を迎えるが、「灰とダイヤモンド」のなかで、テロリストが洗濯物が干されたところで殺されていくシーンを髣髴させるような場面であった。
話が少しそれるが、ワイダと同時代の監督に、アニエス・ヴァルダがいた。
ゴダールなどヌーベルバーグの旗手といわれた人たちや、イギリスの「アングリー・ヤングマン」(怒れる若者たち)の監督たちに比べると、ヴァルダの映画にはあまり心を揺さぶられなかった。
きれいな映画を撮るなあというくらいである。
「5時から7時までのクレオ」は斬新だったが、「幸福」などは、なんとなくきれいな映画だな、ということで終わってしまったような感じがする。あまり記憶に残っていない。
しかし、「アニエスの浜辺」はなかなかおもしろい。
フランスでは、最近、アニエス・ヴァルダのことを知らない若者たちも映画をみにやってきて、25万人を動員する大ヒットになったという。
ちょっとしゃれたドキュメンタリー映画である。
「カティンの森」に話を戻そう。
反戦の映画である。
事件の真実を暴こうとしたアグニエシュカの言葉が重い。
「私は5年間、ドイツと戦ってきた」
ソ連の衛星国になってもドイツと戦ってきたときのように、ソ連に不正義があればそれをただす、とたぶんアグニエシュカは言おうとしたのだろう。
「私は犠牲者のそばにいたい。殺人者のそばにいるよりは、犠牲者のそばにいたい」
どんな時代にも、空気に負けずに、言うべきことを言う人間がいる。
そんなアグニエシュカは、ソ連の陰の力に殺されていく。なんとも不条理な世界だ。
戦争は、人間のなかにいる獣を暴れやすくさせる。
カティンの森で1万5000人が殺されたのも、人間のなかにある業あるいは獣が暴れたためなのだろう。
こうした悲劇は、これからもありうることである。
人間のなかには獣がいるから。
だから、戦争はしないこと。
獣を暴れさせない世界をつくっていくことである。
正月映画は、アニメの「ワンピース」が圧倒的に勝つのかもしれないが、どう生きるべきかを考えさせてくれる映画「カティンの森」はどうだろう。
ちょっと暗くなるけど、いい選択だと思う。