« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010年8月31日 (火)

暴力の報復

デヘイシャのパレスチナ難民キャンプは、0.5平方キロメートルという狭いエリアに、12000人が住んでいる。
子どもたちが遊んでいる光景は、ヨルダンやイラクのパレスチナ難民キャンプでみた光景と同じである。
教育も、医療も、水さえも十分ではない。
3000人いる子どもたちは、2つの学校で、20人の教師に教わっている。
冬には、寒さのために多くの人が亡くなっていくという。

アメールさんのお宅を訪ねた。
弟が18歳のとき、西エルサレム側で自爆テロをしたという。
難民キャンプをイスラエルに攻撃されたことが、弟を自爆テロに走らせた。
その報復として、イスラエルにより家をつぶされた。暴力の連鎖は止まらない。

Img_4168

アメールさんも、自爆テロは決していいことではないと思っている。一般の市民を巻きぞえにすべきではない。
しかし、イスラエルがやりたいことをやっていて、それに抵抗できないのが残念だという。

パレスチナ中に広がっている入植地と、それを囲む壁。
壁は、自爆テロを防ぐのに成功しているとイスラエルは言う。

高くそびえる壁をみていると、存在そのものが暴力的に思えてくる。

|

入植地の壁

ベツレヘムのまちには、壁がある。
高さ3メートル、高いものは8メートルもある高い壁が長く続いている。
イスラエルが、入植地を守るために自ら造ったものだ。

壁の内側には、イスラエル人が暮らしている。
ここには、パレスチナ自治政府の支配は及ばない。
丘の上の入植地には、オレンジ色の屋根に白壁のきれいな家が並んでいた。
壁は、上品な石のモザイクがほどこされ、気にならないように配慮されているが、入植地の外側の壁はコンクリートのむき出しである。

Img_4224

壁は、パレスチナ人の家の真正面に立ちはだかっているものもある。
ワラジャという村では、壁が村を二分している。
同じ村の人が行き来できない、同じ村の人を訪ねられなくなっているのだ。

ハルハマやギロの入植地も見てまわった。
当然、パレスチナ側は、イスラエルの入植活動に反対しているが、ヨルダン川西岸地区では、イスラエル人入植地がじわじわと広がっている。

イスラエルは、新しい入植地をエルサレムの郊外にもつくっている。
入植者が住民投票により、いずれ西エルサレムだけでなく東エルサレムまでも、イスラエルに帰属させようとしているのではないかと、パレスチナ人たちは危機感をもっている。

Img_4191

壁にはズポンをはかない男の背中がよくかかれている。
社会のあり方に背を向けて生きているが、いつか本物の平和が来たときに振り向くという。

壁にかかれた男が振り向くときは、いつ来るのだろうか。

|

2010年8月30日 (月)

ヨルダン川西岸へ

ついにヨルダン川西岸に入った。
まさか自分の人生で、パレスチナに来るなんて、考えてもみなかった。

Img_3958

ジェニンの虐殺があった現場をみてあるいた。
イスラエルの戦車や自動小銃から銃弾が雨あられと降り、壁を無残にえぐっている。
壁に青年の名前と顔がかかれているのは、ここで亡くなったことを示している。

Img_3971

パレスチナの難民キャンプも訪ねた。
1948年のイスラエル建国以降、国内外の多くのパレスチナ人が難民となった。
ぼくらが救援活動で訪れたイラクのノーマンズランドにも、パレスチナ難民がたくさんいた。
イラクからヨルダンへやってきたパレスチナ難民も多かった。
パレスチナ人は住処を追われ、流浪の民としてつらい人生を歩んでいる。

Img_4079

夜、ベツレヘムに到着すると、パレスチナ自治政府の大臣がホテルにやってきた。
イスラエルに捕まっている7000人の政治犯を助けたいと訴える。
彼らは、まともな医療を受けられていないという。
多くの殉死者の遺体はもどってきたが、317人の遺体は返還されていない。
この317遺体は臓器移植に使われたのではないか、とパレスチナでは考えられているとのことだ。
たいへんな話を聞かされた。

Img_4113

スタッフたちのラマダンに合わせて昼食なし。
気温40度近いなかで、朝早くから夜遅くまで休みなしの忙しい一日だった。

|

2010年8月29日 (日)

ぼくのルール

細川佳代子さんたちがやっているNPO「世界の子どもにワクチンを日本委員会」を応援することにした。
このNPOは、世界中の子どもが元気で、笑顔で育つように、ワクチンを支援している。
寄付の仕方がおもしろい。それぞれが「ぼくのルール」「私のルール」を決めて、ワクチンを寄付している。

福岡ソフトバンクホークスの和田投手は、1球投げるたびにワクチン10本というルールで、子どもたちにワクチンを贈っている。
かっこいいなと思った。

Photo

  画面をクリックすると拡大します

ぼくはピッチャーじゃないので、どういうルールにするか迷った。
毎年、諏訪中央病院には若い医学生や研修医たちがたくさんやってくる。
今年の夏もたいへんな数のようだ。

そこで、ぼくのルールは、医学生、看護学生、研修医たちが諏訪中央病院に研修に来ると、1人につき20本のポリオワクチンを寄付することにした。
昨年は125人が研修に来たので、125人×20本分のお金を寄付したい。

鎌田は、毎週火曜日、緩和ケア病棟を回診している。
そのとき医学生や研修医に、鎌田ががんの患者さんや家族とどんなコミュニケーションをとっているか、みてもらっている。

今年の夏はチェルノブイリやパレスチナに行くことになり、例年ほど若い医師たちに教えることができない。
そのおわびの気持ちもこめての、「ぼくのルール」である。

|

ハイファより②

イスラエルのハイファの旧市街のレストランで食事をした。
前菜でテーブルがいっぱいになる。

Img_3796

写真は、きゅうりのサラダ。
セロリなどの野菜を細かく刻んだサラダがおいしかった。
ヒヨコ豆をペースト状にしたホムスは、パンにつけて食べる。

Img_3798

これがまた大変おいしい。
こういう皿が10種類くらい出た後に、メインのチキンか羊が出てくる。

アラブ人はホスピタリティーが旺盛。
ピースボートの現地スタッフのラミ君や、なんと運転手のハリダさんまでご馳走してくれた。
アラブ人のおもてなしの心にはいつもビックリする。

              ◇

このチェックポイントの向こう側は、パレスチナ自治区。
イスラエル兵に子どもを殺された男性とここで会うために来たのだが、ピリピリと厳しい雰囲気だ。

Img_3810

夜中には、このチェックポイントをぼく自身が通って、パレスチナ自治区に入る予定だ。

|

2010年8月28日 (土)

ハイファより①

イスラエルのテルアビブ空港に着いたのは、現地時間の26日深夜3時半。
成田からフランクフルトに飛び、トランスファーで8時間待ち、ようやくここまでたどりつくのに30時間ほどかかったことになる。

1008262image650_2

Img_3728

Img_3740

イスラエルの入国はたいへん厳しいという情報を聞き、できるだけ荷物を少なくしていった。
しかし、入国は思いのほかスムース。
イスラエルは観光を重視しているため、緩和しているのかもしれない。
よいことである。

Img_3767_2

パスポートにイスラエルのはんこを押された。
イスラエルに入国できたのはうれしいが、今後、イラクに支援に入るとき、シリアには入国しづらくなるかもしれないとも思った。

テルアビブの空港に着くと、すぐに迎えの車に乗って、ハイファという町に入った。
ハイファの市場や港を見に行き、レバノン料理のレストランで食事をした。

Img_3788_2

Img_3787_2

写真は、ハイファの市場や港など。

|

2010年8月27日 (金)

報告・放射能のまちを訪ねて⑫

1週間近い視察や調査、診察を無事に終えて、ゴメリ駅を発った。
夜行列車に15時間揺られてモスクワに到着。
久しぶりの赤の広場からクレムリンを見た。

Img_3523

Img_3529

モスクワで新聞を読んで、驚いた。

モスクワでは連日42度の猛暑。
死者は、毎日平均380人が、700人を超えているという。
ロシア中で山火事が起こり、モスクワはスモックで汚れていた。
驚いたのは、ロシアの西端部にあるブリャンスクの森のことだ。
この森は、高い放射能で汚染されている。
グリーピースが、このブリャンスクの森も山火事になっていることを発見した。
この森が燃えれば、放射能が大気中に散らばってしまう危険性がある。
この地域では、山火事は二重の意味で恐ろしいのだ。

チェルノブイリ原子力発電所の周辺には、消防隊が整備されていて、狐色の森を厳重に守っていた。
絶対に山火事を出してはいけないのである。

メドベージェク大統領は、森林火災に対して迅速な対応ができなかった理由で、海軍高官を更迭している。
その後、必死の消火作業が功を奏し、ぼくたちがモスクワに着いたころには完全鎮火していた。

Img_3230

それにしても、ぞっとしたのは、ブリャンスクの森といえば、ぼくたちが訪ねたベトカに近いこと。
ロシア国境に近いニグルブルカ村を訪ねたのも、この森に火の手が延びようとしていた時期と重なる。
すぐ近くの森では、山火事で多くの放射能を飛び散らせていた可能性がある。
ブリャンスクの山火事のニュースは、日本でも報じられたようだが、知らぬはぼくたちだけだったのだ。

Img_3322

ニグルブルカ村には、1999年にタジキスタンからやって来たアジズ夫妻が住んでいた。
国内戦争で荒れているタジキスタンから出て、仕事を求めてやってきた。
来るまでは、放射能の汚染地域であることは知らなかったという。
ほかにも、周辺国から移住してくる人たちがいた。
放射能のまちのほうがまだまし、と考える人たちがいるのだ。
この現実をどうとらえたらいいのだろうか。

放射能汚染の地で、生きていくことの恐ろしさをあらためて感じた。そして、ぼくたちも、目に見えない放射能の脅威と隣り合わせで生きていることを、思い知らされる旅だった。

                 ◇

チェルノブイリの報告を読んでいただきありがとうございます。
連載は、いったんこれで終わります。

ウクライナやベラルーシの食事や絵、音楽などの話題は、少し間をおいて、後日お送りしたいと思います。
お楽しみに!

|

2010年8月26日 (木)

報告・放射能のまちを訪ねて⑪

若い小児科医の往診についていった。
赤ちゃんが生まれると退院後1ヶ月間、毎週ドクターの往診がある。
若いお母さんの育児相談にも乗っている。
このときは、2歳の男の子が発熱をし、緊急の往診だった。

Img_3445

放射能汚染地の幼稚園を訪ねた。
このまちでは、子たちを大事にし、教育も熱心だ。

Img_3458

Img_3462

ある女の子は、両親がアルコール依存症だった。
ベトカではアルコール依存症が多いという。
子育てを放棄された女の子は、ガリガリにやせていた。
しかし、病院のみんなで養育し、ついに小児科のドクターが養子として育てることになった。

Img_3474

20年前、モスクワの科学アカデミーの教授からこんなことを言われた。

「ドストエフスキーは、子どもの涙はすべての人類の悲しみよりも重いといっています。この国の子どもたちは泣いています。助けてください」

たしかに、「カラマーゾフの兄弟」のなかに、これに近い言葉がある。
子どもの涙は、すべての人類の悲しみよりも重い。

この言葉を何度も反芻しながら、20年間、支援を続けてきた。
一粒の子どもの涙をぬぐうために、ベラルーシの大人も、ぼくたちも必死にやってきたと思う。

|

2010年8月25日 (水)

行ってきます!

いま成田空港にいます。
2週間ほど前にチェルノブイリから帰国したばかりのカマタですが、またまた出かけてきます。
今度の行き先は、イスラエル、パレスチナ方面。
そこで、ずっと会いたかった人に会えることになりました。

100825image646

その後は、東南アジアからインドを経て、紅海をクルーズしてきたピースボートの一行と合流し、スエズ運河を抜けてエジプト、トルコ、ギリシャ、ナポリ、バルセロナ、カサブランカなどをまわります。

今回の旅は、28日ごろからほぼリアルタイムに毎日の様子をお伝えする予定。
それまでは、引き続きチェルノブイリの報告をお送りいたします。

では、次回28日のピースボートからのご報告をお楽しみに!

~~~☆~~~☆~~~☆~~~

成田を出発して11時間でフランクフルトに着きました。

1008252image648

8時間待ってもう一度飛行機に乗り、4時間ほどかけてテルアビブに行きます。
今のところ元気です。

|

報告・放射能のまちを訪ねて⑩

ベトカに往診に行くと、リンゴや洋ナシが出てくる。
何度もすすめられ、ついに洋ナシをかじってしまった。

Img_3213

今も8人が暮らすベトカの埋葬の村で、おじいちゃんが亡くなった。
つれあいのおばあちゃんを訪ねると、心労のためか、入院してしまったという。

Img_3395

Img_3406

おばあちゃんの親友で、留守番をしているという別のおばあちゃんが招き入れてくれた。
自分の村も、埋葬の村になったという。
この一帯は、悲しみがあふれていると話してくれた。

|

2010年8月24日 (火)

お知らせ

日本テレビ系の「ニュースエブリィ」で、8/26はホスピタルコンサートの模様、9/2、9の両日は、チェルノブイリの救援活動が紹介されます。
ぜひ、ご覧ください。

読売新聞で、鎌田實の「時代の証言者」が連載されています。
たいへん反響が大きいようです。
連載は26回の予定。
ぜひ、お読みください。

今年も、ドリームフェスティバルin上諏訪の季節となりました。
障害や病気があっても、旅をあきらめず、鎌田と一緒に旅を楽しみませんか。
日程は、10月25日からの2泊3日。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.kamataminoru.com/pdf/dfsuwa.pdf

|

報告・放射能のまちを訪ねて⑨

20年前、はじめてゴメリに来たとき、ホテルでぼくたちを待っている人がいた。
8歳の子どもを助けてほしいと泣かれた。
その8歳の子は、ウラジミール君。急性リンパ性白血病だった。

Img_3301

ウラジミール君は、現在28歳になった(=写真、右端)。
すっかりオヤジのようになっていた。
お母さんは、JCFに出会わなかったら、この子はいま生きていないと20年前と同じように泣き出した。
ウラジミール君は2回再発している。
日本からの薬の支援がなければ、完治はむずかしかったと思う。
当時のゴメリの州立病院はB型肝炎が蔓延しており、今も肝臓が悪いという。

あれから20年経ち、命があることを喜びあう再会となった。

|

2010年8月23日 (月)

太陽光発電

7/24の読売新聞の経済欄に小さな記事が載った。
チュニジアの太陽熱発電プロジェクトに、日本が官民合同で参加することが決まったという。
北アフリカのサハラ砂漠では、ヨーロッパが連合をつくって大掛かりな太陽光発電を行い、地中海に直流の電流を引いて、ヨーロッパに運ぼうという壮大な計画があるという。

再生可能なエネルギーの時代が来つつある。

Dsc_0004

シャープでは、取引先の施工業者の研修受け入れが年間1万人規模に拡大したという。
太陽光発電を売るための説明や取り付けなどができるようにしようとしているのだと思う。
三菱電気も、パネル取り付けの技術者を今年度中に1万6000人に倍増させる計画があるらしい。
明らかに雇用拡大につながっていく。
そして、地球環境を守ることにつながる。

ぼくのウエットな資本主義の方向に、加速しはじめていると思った。

|

報告・放射能のまちを訪ねて⑧

ぼくたちがゴメリに滞在していた日曜日は、ベトカ地区病院のナジェージダ院長の誕生日だった。
彼女の誕生会に招待された。
場所は、彼女のダーチャ(農業をするための別邸)。
ずらりとごちそうが並ぶ。

Dscf5065

コルホーズの議長や、学校の先生など、いろんな人たちが30人ほど集まって、おいしいものを食べ、ウオッカを飲んだ。
「カチューシャ」や「トロイカ」「100万本のバラ」など、日本人も知っている歌を歌い、ダンスをして盛り上がった。
じつに明るく、楽しい誕生会だった。

放射能汚染のまちで、新しい命も誕生する。
生まれたばかりの赤ちゃんは、とてもかわいい。

Img_3181

産婦人科医でもあるナジェージダ院長は、若いお母さんを診察し、子育てのアドバイスを行っていた。

院長は、小さな命が、安全に安心して生まれてこれらるような地域になるまで、がんばるのだと情熱を燃やしている。

|

2010年8月22日 (日)

報告・放射能のまちを訪ねて⑦

放射能が60キュリー以上ある森の中に、不思議な泉があるという。
この泉の水からは、何度調査をしても、放射能が検出されない。
おそらく、昔降った雨水が深い地層にもぐりこみ、ろ過され、再び地上に湧いてきているからだろう。

Dscf4959

泉の上には掘っ立て小屋が建っていて、雨が入らないようにしてある。
「きれいで、おいしいんだよ」と言われ、恐々と飲んでみたが、たしかにおいしい水だった。

Dscf4953

ベトカでは、59の村がつぶされ、土のなかに埋められた。
埋葬の村だ。
その村には、サマショーロといわれる人たちが今も住んでいる。
サマショーロとは、「わがままな人」という意味。移住を拒んで、自分の意思で村に留まり続けている人たちのことだ。
サマショーロの住む村は、ベトカには2つある。
1つは、16人のサマショーロが暮らしている。

Dscf4976

一人暮らしのおじいちゃんを訪ねた。
この日は、ゴメリとミンスクに住んでいる娘夫婦たちがやってきて、おじいちゃんはちょっとうれしそう。
「放射能で汚染されなけば、豊かで美しい村だった。私たちもできれば離れたくなった」と娘たちは口々に言う。

また別の、一人暮らしのおばあちゃんを訪ねた。
裸足だった。
汚染が強い地域でとてもこわい。

Img_3281

魚の干物を見せられた。
この地域でとれた魚を塩水につけ、ガチガチになるまで干している。
かじるとうまいというが、ちょっとこわくて食べられなかった。
たいがいのものは、何でもおいしくいただいてきたのだが、これには手が伸びなかった。

Img_3306

埋葬の村を訪ねていくと、人恋しいのか、おじいちゃんやおばあちゃんがたっぶりと話をしてくれる。
魚やりんごを持っていけという。
うれしいような、こわいような。

|

鎌田劇場へようこそ!(49)

「ザ・ウォーカー」

原題は、「The Book of Eli」。
核戦争後の崩壊した世界。
イーライという男が西へ旅をする。
大事な本を抱えている。
それは、世界に一冊だけ遺された聖書。

Photo_5

信仰をもつ人が少ない日本人には何となくしっくりこないが、その本を守るスペクタクル。
崩壊した世界を再生するため、必死にたくさんの本を残そうとする活動家たちがいる。
つまらなくはないが、それほどおすすめでもない。

この映画には、大ヒットした「フラッシュダンス」のジェニファー・ビールスが出演している。
年をとったなと感じた。
お互いさまである。

「ザ・ロード」

特別のスーパーマンが出てくるわけではなく、普通の父親が息子とともに旅をする物語。
舞台は、文明崩壊後の世界。
海に出れば生きていけるのではないかと思い、2人は南へ向かう。
父と息子が愛情を交わしながらの果てしないロードムービーだ。

Photo_6

「ザ・ウォーカー」も「ザ・ロード」もうまくはできてはいるが、なんとなくハリウッド映画の衰退を感じてしまう。
ダイナミックで大掛かりな映画にするために、人間のドラマはどんどん小さくなっていく。
そろそろ映画の原点に戻ったほうがいいような気がする。

|

2010年8月21日 (土)

最後のホスピタルコンサート

毎年夏、諏訪中央病院で行ってきたホスピタルコンサートの、ファイナルコンサートが行われた。

Dsc_0021_3

Dsc_0022_3

Dsc_0032

日本のオペラ界をひっぱってきた方たちによる、カルメンは実に感動的であった。
カルメンの役は永井和子さん。世界で活躍している声楽家だ。
ドン・ホセは、下野昇さん。
ミカエラは、岩崎由紀子さん。
来場者約400人と一緒に、「ふるさと」を熱唱する一場面もあった。
声楽家の伊藤京子さんや、チェロの青木十良さんも駆けつけてくれた。

Dsc_0044

Img_3622

音楽療法士の畑中良輔先生が、白衣姿で登場して、枯れススキをみんなで踊り、歌って、みんなで大笑い。
明るい笑いに包まれて、ファイナルコンサートは幕を閉じた。

|

報告・放射能のまちを訪ねて⑥

ベトカ地区病院では、20年前の古い内視鏡が使われていた。
ファイバーが切れて、画像がほとんど見えなかった。
これでは、検査や治療も難しい。

そこでJCFでは今回、電子内視鏡を寄付した。
下の写真の様子は、さっそくセットアップしているところだ。

Dscf4767_2

Dscf4768_2

Dscf5087_2

これによって、がんの早期発見が可能になっていくと思う。

ベトカでは、子どものがんだけでなく、大人の甲状腺がんや胃がん、肺がんなどが顕著に増えている。

ぼくも、婦人科外来に来たおばあちゃんたちに話を聞いたり、フェイシェルに同行し、甲状腺のチェックをした。

Dscf5104_2

Dscf4918_2

この地域の人たちは、がんにおびえながら生活している。
どうしたら早期発見できるか、考えていかなければならない。
まだまだ応援することはありそうだ。

|

2010年8月20日 (金)

報告・放射能のまちを訪ねて⑤

ゴメリの環境センターにある小児白血病棟を訪ねた。

10歳くらいの子どもたちに、ちょっとごあいさつ。
お父さんに連れられて来た、小さな子の姿もあった。

Dscf4706

Dscf4713

環境センターには、新しく院内学級ができた。
かつてJCFは、ゴメリ州立病院のタチアナ先生に頼まれ、院内学級を開設したことがある。
そのタチアナ先生のスピリットを引き継いで、今度は自力で、環境センターに院内学級を設けた。
教師は、ベラ先生。
ベラ先生は心理学を学び、子どもたちの心のサポートもしている。
「ここには世界でいちばんの先生がいる」と、7歳の子が描いてくれた絵を、ベラ先生ははにかみながら見せてくれた。

Dscf4710

20年間支援してきて、医療の質はだいぶ高くなってきた。
今回は、キリンから寄付していただいた白血球を増やす薬G-CSFを届けた。
ロシアの薬はあまり効かないが、日本の薬の効果はとても高い、とドクターに喜ばれている。

|

2010年8月19日 (木)

報告・放射能のまちを訪ねて④

ゴメリ州立病院付属産婦人科病院を訪ねた。
この病院は、ゴメリ州全体のリスクの高い出産をカバーする重要な任務を負っている。

チェルノブイリ原発事故から24年。当時生まれた子どもたちが、適齢期になり、出産の時期を迎えようとしている。
ぼくたちは、安全な出産ができるように、産婦人科医療をサポートしてきた。
以前、生化学検査の機械を送ったが、今回は、その機械で必要な試薬を1年分届けて来た。

Sany0541

16年ぶりに、ゴメリ医科大学を訪ねた。
2年前に研修に来た医学生ジーマ君が学んでいる大学だ。

Sany0550

ジーマ君に案内してもらい、懐かしい大ホールをのぞいた。
この大ホールは、1994年に開かれた日本ベラルーシ国際チェルノブイリシンポジウムの会場だった。

Sany0551

カザコフ保健省大臣や、ゴメリ医科大学のバンダブジュスキー学長、そして、ぼくが、この演壇に並び、挨拶をした。
日本からは、信州大学の当時の小児科教授、小宮山先生や、第二外科で甲状腺を得意とする飯田教授らが出席し、ベラルーシ、ロシア、ウクライナなど東欧の専門家たちにレクチャーをしている。

ベトカ地区病院のナジェージダ院長と、再会を喜びあった。
彼女は、3ヶ月前、研修のため来日した。
日本大好きドクターである。

Sany0569

ベトカが大好きで、放射能汚染の地にある病院に一生をささげる覚悟をもっている。
自分がやらなれば、この地域の健康は守れないと思い、積極的に五十数人の医師を集めた。
そして、出産、育児を支えるために、若いお母さんたちを往診するシステムや、人口2万1000人のまちで、7000人の検診を実施している。

Sany0628

汚染地ベトカでは、フェイシェルの存在が大きい。
医師と看護師の中間的存在で、地域に出ていき、住民の健康を守っている。
ぼくも、フェイシェルと一緒に往診に出かけた。

|

2010年8月18日 (水)

うまいもの2品

愛知県の豊橋で、大正時代から続く篠嶋屋のきしめんを食べた。
エビくずしという。

Img_2806

冷やしたきしめんの上に、エビのてんぷらや卵焼き、すりしょうがなどの薬味がちらし寿司ふうに乗っている。
ちょっと甘いだしに、しょうががきいてうまい。

それにしても愛知県の人のエビ好きには驚くが、これがなかなか夏の風情。
夏におすすめのB級グルメ。

相馬市では、割烹やましたのほっき飯を食べた。
はじめて食べたが、とにかく最高の味。

100722image639

地方にはすごい力があると思った。

|

鎌田劇場へようこそ!(48)

「インセプション」

ディカプリオと渡辺謙さんが、日本テレビのニュースエブリィに生出演したとき、間近で会った。
2人が共演する「インセプション」の宣伝活動らしい。
人の脳に入り込むことができるプロフェッショナルが登場する映画である。

Photo

ディカプリオは、どんな質問にもきちんと答える。
環境問題に関心をもち、活動もしているようだ。

ぼくは、ディカプリオに、「アクション映画だと思っていたけれど、ぼくにはラブストーリーのように感じた。役作りは難しかったですか」と質問した。
この質問にも見事に答えた。

人の脳の中に入って、情報を盗む仕事をしていた男が、最後に人の脳に思いを植えつけてくるという難しい仕事にチャレンジをする。
人の夢のなかに入る仕事をしながら、自分の大切な夢を持ち続けている役を見事に演じている。

渡辺謙さんにはこんな質問をした。
「謙さん自身はどんな人の脳に入ってみたいですか」

それは映画だけでいいんじゃないかと思った、と明快な答えがかえってきた。
人の脳のなかになんか、入らなくていいと。
1本とられたなと思った。

2

20分ほどの出演時間が終わって、最後に立ち上がって握手をした。
ディカプリオは、エキサイティングな時間だったと言って、ニコニコして帰っていった。
謙さんは、「先生の◎◎を読んでいます」と言ってくれた。
イヤホンが耳に入っていて聞き取れなかったが、ぼくの本か、絵本か、新聞か、いずれにしても何かを読んでいてくれたと思うと、とてもうれしかった。

映画は、ちょっとわかりにくいけれど、実におもしろい。
もう1回見ると、隠された仕掛けが見えてくるような気がする。
2回見たくなる映画だ。

|

2010年8月17日 (火)

うれしい依頼

あしなが育英会の学生寮「あしなが心塾」で、講演をしてほしいという依頼が来た。

あしなが心塾は、朝夕の食事と光熱費込みの月額1万円で、経済的に厳しく状況にある若者たちでも大学で学べるように応援をしている。
東京にあるが、神戸にも同様の「虹の心塾」という学生寮がある。

そこで、大学生となった遺児たちに、話をしてほしいという。
100人くらいを対象とした小さな講演会になる。
ぼく自身も、岩次郎さんという人が親になってくれて、何とか大学に行くことができた。

もちろん、喜んでボランティアで講演させてもらうと答えた。

Img_2647

若い人たちにチャンスがある国は、あたたかな国である。
若者たちが元気が出るような、そして、前に向かって強く歩いていけるような話をしたいと思っている。

なんだか、このごろうれしくなるような講演の依頼が飛び込んでくるようになった。
口蹄疫で苦労した宮崎のある町からの依頼も、そう。
こういう依頼は、手弁当でも飛んで行きたい。

写真は、車山高原で

|

2010年8月16日 (月)

第八回高齢者医療制度改革会議

中間とりまとめを出す前に、国民の意見のヒヤリングをはじめた。

高齢者が安心できる医療制度とは何か。
厳しい経済のなかで、企業や若者にこれ以上の負担をかけないようにするにはどうしたらいいのか。
至難の業だが、国民皆保険制度を守りながら、血の通った制度をつくらなくてはならない。

P8110016

改革会議では、国民が安心できるような高齢者医療制度をつくろうと必死に議論してきた。だが、制度の作り方として、もう少し時間的余裕がほしい。
国民の声をヒヤリングしてすぐに中間とりまとめをするのではなく、ヒヤリングを契機にしながら、もう少し広い範囲で議論し、国民の声を反映させながら、中間とりまとめを出したほうがいいように思う。

写真は、岩次郎小屋の庭に咲くアジサイ。

|

2010年8月15日 (日)

報告・放射能のまちを訪ねて③

プリピャチ市は、かつてチェルノブイリの原発労働者が住んでいたまち。
5万1000人の、旧ソ連が誇る近代都市は一瞬にして、ゴーストタウンとなった。

Img_3035

Img_3037

文化会館や、アパート、公共施設が廃墟となっている。
遊園地は1986年5月1日にオープンするはずだった。
その5日前に原子力発電所の爆発事故があった。

1回も子どもを乗せることなく、遊園地の観覧車はさび付き、風に揺れていた。

Img_3056_2

ガイガーカウンターがうなりをあげる。
17マイクロシーベルト。
案内する青年が、ここにいては危険だ、退避しようと叫ぶ。

-----------------

★10代いのちの対話

今日8月15日は、息子夫婦が孫を2人連れて帰ってきて、一緒に岩次郎さんのお墓参りをする。
そのあと、ぼくは東京へ。
夜、NHKラジオ第一の「10代いのちの対話」に出演し、10代の若者たちとともに、いのちの大切さを考え、語り合う。

ゲストは、JAPAN元気塾代表の加藤秀視さんと女優のサヘル・ローズさん。
時間は、午後8時05分~9時55分。
ぜひ、終戦の日の夜、ラジオのスイッチをひねってください。

|

2010年8月14日 (土)

報告・放射能のまちを訪ねて②

チェルノブイリ原子力発電所は、1号炉から4号炉の4つが稼動していた。
さらに5号炉、6号炉を建設中で、世界最大規模の原子力発電所となるはずであった。
あの事故が起こらなければ。

Img_3016

4号炉で爆発事故があった後も、ほかの炉では発電を行っていた。
被害の大きさに、すべての炉で運転は停止された。

ドニエプル川の支流プリピャチ川とつながる人工の川は、炉の冷却水に利用されていた。
富士山みたいな形の建物は炉心の温度を下げるための冷却塔だ。

Img_3014_2

あたり一帯が文明の墓場のようである。

現在も放射能の管理のためと、4号炉にドームをかぶせる工事のため、4000人の労働者がここで働いているという。
彼らは、2週間働き、2週間リフレッシュが与えられる。その間は、ほかの土地で働くこともできる。
しかも、サラリーがいい。
好条件のために、働く人たちはいる。

チェルノブイリ原発跡地から5キロほど離れたところにあるコルホーズは、廃屋になった姿をさらしている。

Img_3062

5キロ圏内では、かつて家屋が建っていたが、壊して土のなかに埋められた。
いまは、夏枯れの草むらになっている。
ガイガーカウンターで確認すると、6マイクロシーベルトが検出された。

林の奥に入ると、さらに汚染はひどくなるという。
これ以上は入らないほうがいいと言われた。

放射能汚染を示す、黄色いマークが点在している。侵入禁止という意味だ。

Img_3010

炉心溶解事故から24年たっても、放射能は飛散し続けている。
なかなか完璧な解決法は見つからない。

放射性ヨウ素を体内に取り込んだことが原因で、4500人の小児甲状腺がんが発生した。
内訳は、ベラルーシが2500人、ロシア共和国とウクライナ共和国で2300人。
これはWHOでも認めている子どもたちの健康被害である。

小児甲状腺がんの発生のピークは終わったとはいえ、あらたに25~35歳の成人型の甲状腺がんが多発しはじめている。

危機は続いているのだ。

|

イラクの義足の少女

2008年3月、鎌田がイラク難民キャンプを訪れた時の様子。 脳腫瘍の少女との再会。 骨腫瘍で右足切断の11歳の少女、義足で歩く。 非常に厳しい状況の中、負けずに笑顔で生きる子どもたちの姿です。

|

2010年8月13日 (金)

報告・放射能のまちを訪ねて①

8月2日から10日間、チェルノブイリ原発事故で深刻な被害に遭ったウクライナ共和国やベラルーシ共和国を訪ねてきた。
旅の予定は「チェルノブイリへの旅」として書いてきたが、これからは実際に訪ねた現地の様子を報告したいと思う。

813

今回の旅は、石棺から始まった。
コンクリートで固めた石棺はひび割れが進み、放射能漏洩を防ぐために、ドーム状の防御壁をすっぽりかぷせる工事が進行中。
のはずだが、実際にはほとんど進んでいなかった。

ガイガーカウンターは17マイクロシーベルトを示した。
地上に置くよりも、空中にかざしたほうが放射能は高い数値を示した。
残留放射能というよりは、いままさに石棺から放射能が放出されているためと思われる。

813_3

チェルノブイリ原子力発電所の4号炉が爆発したのは、1986年4月26日未明。
それから36時間後に5万人近い市民が、1200台とも1300台ともいわれるバスを連ねて、緊急避難を開始した。
事故後1~2日後には、スウェーデンが異常な放射能をキャッチ。
アメリカのNASAが、1000台を超えるバスが移動しているのを人工衛星でとらえている。

旧ソ連の時代、ゴルバチョフはグラスノスチをすすめていたが、まだ十分ではなかった。
ウクライナの新聞に、5行ほどの小さな記事が載ったのは5月1日。
2日ごろになって、風下にある村に口コミで伝わっていく。
ゴルバチョフ大統領が声明を発したのは、ようやく5月16日になってからだった。

チェルノブイリの周辺で、子どもたちにたいへんな健康被害が起こっている。
その支援の要請がモスクワから入った。
20年前、ウクライナ共和国のキエフから、ベラルーシ共和国のゴメリに移動する途中、原子力発電所跡に近づこうとしたが、5キロ圏のところで封鎖され、入ることはできなかった。

原子力発電所に連なる建物の中まで入り、視察することができたのは1995年。
今回は、ぼくにとって15年ぶりの再訪となった。

写真は、事故があったチェルノブイリ原子力発電所4号炉

|

2010年8月12日 (木)

改正臓器移植法に思う

改正臓器移植法がスタートした。
本人の意思表示が不明な場合も、生前に拒否していないかぎり、家族が承諾すれば可能になる。
生前の年齢が12週未満をのぞいて、年齢の制限もなくなった。
条件は厳しいが、親族に指定した臓器提供も例外的に優先提供できるようになった。

臓器移植法が法制化してから13年。
移植を待っている人に比べて、移植を受けられる人はまだまだ数が少ない。

今回の改正で臓器移植がすすむことが見込まれている。
しかし、医師や移植コーディネーターが不足している状況のなかで、臓器移植が安全に、安定的に行えるのだろうか。

Dsc_0003

もし、患者、とりわけ子どもの患者が脳死状態になったとき、いつ家族に話を切り出すか、医師は悩むだろうなと思う。

また、脳死判定をするためには従来の6時間から、24時間、同じ状態が続くことを確認することが求められるようになった。
判定に時間がかかる。
その後に臓器の取り出しをすることになる。
たとえば、救急医療をしている病院では、その間、救急医療が手薄にならないだろうか。

かつて院長をしていたときに、亡くなった後、腎臓と角膜を提供したいと強い意思を示された患者さんがいた。
脳死移植ではなく、呼吸停止や脳の停止、心臓の停止を確認した後、臓器を取り出し、ある2つの県で臓器移植が行われた。
そのとき、病院はとてもたいへんであった。

ご家族は、たいへんな状況下で、たいへんな決断を強いられる。
そして、その後もかなり心がゆれる。
遺族の心のケアは今の病院の体制でできるのだろうか。

日本は、1~4歳までの小児救急の救命率が、先進国のなかでも、アメリカについで2番目に悪いとされている。
その日本で、きちんと救急医療が行われた後の臓器移植であるのか、という点も心配である。
脳死移植を本当に広めていくには、病院の医師や看護師たちにもう少し余裕をあげなければ、法律をつくっただけではだめなのではないか。

|

鎌田劇場へようこそ!(47)

「ヤギと男と男と壁と」

ジョージ・クルーニー、ジェフ・ブリッジス、ユアン・マクレガー、ケビン・スペイシーといった大物役者が出ている。

Photo_3

実際にアメリカには、超能力部隊があったらしい。
超能力で壁を抜けようとしたり、見つめるだけで、ヤギの心臓を止めようとしたり、笑ってしまうようなことをまじめに訓練していた。
超能力にかける夢が、本気らしいので、ますます笑いを誘う。

笑っているうちに、戦争そのものがバカらしいと気づく。
真面目だか、不真面目だかよくわからないが、4人の俳優たちが人生の教訓に満ち満ちている。
まあまあの映画だ。

|

2010年8月11日 (水)

チェルノブイリへの旅⑧

1991年、極寒の雪の平原で、寒さと怖さを味わい、生きた心地がしなかった。
もう絶対に来るのはやめようと思ったのに、あれから20年近くも続けている。

現地に来て、病気の子どもをもつお母さんたちに泣かれ、子どもたちからまた来てね、と言われるたびに、つい応援したくなってしまうのだ。

008

写真は、15~19年前のもの。ミンスクの小児科医オリガ先生から「白血病の子どもを助けたくても、薬が足りない」と訴えられた

ぼくたちの活動の力となっているのは、現地の人たちとの交流ばかりではない。

出発数日前に、関西の方からあたたかい手紙をJCFにいただいた。
ご自分もがんと闘っているという。
賛助会員にならせてもらったとあった。
ぼくが、この方にはがきを書いたのが、きっかけだった。
ぼくのはがきをとても喜んでくれた。

この医療支援を通して、ぼく自身もあたたかな気持ちにさせていただいた。
1%はだれかのために生きる。
そんな人たちが集まっているからこそ、20年続けてこられた。

いよいよ今回の旅も終盤。
15時間の夜行列車でモスクワまで行き、13日には帰国する予定だ。

009

15~19年前、夜行列車に揺られるカマタ

ベトカの放射能汚染地域の小さな村に逗留し、子どもたちを診察した様子などは、帰国後にご報告したいと思っています。

----------------------------------------------------
今回は現地で更新できず、この数日のニュースはチェルノブイリに行く前にスケジュールの予定として書き込んだものです。

更新できる状態になったら、今回の新しいニュースをお届けしたいと思いますが、ご報告できるのは、おそらく帰国後になるかもしれません。

今後しばらくは、チェルノブイリに行く前に書きこんだものを掲載します。
----------------------------------------------------

|

2010年8月10日 (火)

鎌田實の一日一冊(74)

『となりのツキノワグマ』(宮崎学著、新樹社)

Photo

クマがこんなに写っていいのかと思うほど、いろんな姿のクマが登場する。
カメラに好奇心を示すクマの姿がユーモラス。

長野県のクマの生息数は、2006年で1300~2500頭と推定されている。
だが、宮崎さんは1桁違うのでは、もっと多いのではないかと思ったという。
10年、20年単位で獣道の様子をみつづけるなかで、ウサギが減って、クマが多くなっていることに気づいたという。

山でクマに遭ったら怖い。
でも、この写真集をみていると、かかわいい「隣人」に思えてしまう。
とても素敵な写真集である。

|

2010年8月 9日 (月)

チェルノブイリへの旅⑦

なぜこんなことをはじめ、そして20年近く続けているのか、よく聞かれる。
1991年にはじめて行ったとき、あるお母さんに泣きなから、訴えられた=写真。

005

「うちの子は白血病です。この国では助からない。日本へ連れて行って助けてください」

1人の子どもを日本へ連れて帰っても、問題の解決にならないと思った。
本当の医療支援とは何だろうか。
ベラルーシの医師がきちんと教育を受けて、自分の国の子どもたちを助けられるようにすることが、本当の支援だと思った。
それは時間がかかるが、根気よく続けることで、大きな成果につながる。
そう思ってJCFでは、信州大学の協力を得てを医師を教育し、薬品や医療機器などを支援してきた。

今回はゴメリ州立病院に生化学分析器の試薬1年分を届ける。
日本のODAやNGOのなかには、機械を贈って終わりというところがある。
せっかく機械はあるのに、消耗備品がないために使えないという話も聞く。
JCFでは、その後も、機械が使える状態にあるかどうかフォローし、必要備品の支援や機会のメンテナンスをしている。
こうした支援の仕方が現地で評判になっている。

チェチェルスクの病院では、3年ほど前にエコーの機械を再提供したが、それまで使われていたエコーは、15年間ほど有効に使用された。これも、ぼくたちがメンテナンスをしてきた結果だ。
1日約50件の検査を約15年間。
たくさんの小児甲状腺がんなどの発見に役立ってきたと思う。

今回もクニイ看護師と、ヒロウラMEが中心になり、今後の支援のあり方を確認しあっていく。

----------------------------------------------------
今回は現地で更新できず、この数日のニュースはチェルノブイリに行く前にスケジュールの予定として書き込んだものです。

更新できる状態になったら、今回の新しいニュースをお届けしたいと思いますが、ご報告できるのは、おそらく帰国後になるかもしれません。

今後しばらくは、チェルノブイリに行く前に書きこんだものを掲載します。
----------------------------------------------------

|

2010年8月 8日 (日)

鎌田劇場へようこそ!(46)

「ハロルドとモード 少年は虹を渡る」

70年代アメリカ映画の伝説的な映画。
19歳のハロルドは、恵まれた環境のなかで生きる力を失い、何度も自殺の真似事をする。

79歳の老女モードに出会う。
オートバイや車を猛スピードで運転したり、とにかく破天荒なおばあちゃん。
このおばあちゃんの生き方に、少年は魅了されていく。
少年は、おばあちゃんに恋をし、結婚しようとする。

Photo_2

老女は、人間は自由だ、100万人いれば100万人の生き方があり、それぞれがみんな自由に生きればいいんだということを、全身で訴えている。
少年は新しい生命観をもち、強く人生を生きていこうとする。

ちょっと人生を振り帰らせ、考えさせてくれる映画。

キャット・スティーブンスの70年代らしい音楽が効いている。

|

2010年8月 7日 (土)

チェルノブイリへの旅⑥

7~10日かけては、ベトカのなかでも放射能汚染が強い地区を訪ねる。
住んではいけないはずなのに、お年寄りが住んでいる。
「埋葬の村」と呼ばれている。

その村の人たちの健康チェックをしたり、なぜその地域に住み続けるのか、訊ねてこようと思っている。

010

今回の旅では、楽しみにしている「再会」がある。

その1人が、20年前、信州大学の協力で白血病を克服したウラジミール青年。
会えるように手はずを整えているところだ。
2人目は、『雪とパイナップル』にかいたアンドレイ君のお母さん。
お母さんとは、再会できることが決まった。
そして、3人目は、白血病を克服し、今はゴメリ州立医科大学の医学生となったジーマ君だ。
彼は、2年前に日本に研修に来ている。
そこで、研修先の信州大学の医師たちやJCFにかかわる医師たちが、必死にチェルノブイリの小児がんや白血病の子どもたちを助けようとしているのを見て、小児科医になろうと決めたようだ。
白血病で悩んだ少年が、白血病を克服し、白血病の子どもたちをみることができれば、子どもたちや母さんはどれほど勇気を与えられるか。

彼らと久しぶりに会えるのを、とても楽しみにしている。

写真は、15~19年前に会った白血病の少年

----------------------------------------------------
今回は現地で更新できず、この数日のニュースはチェルノブイリに行く前にスケジュールの予定として書き込んだものです。

更新できる状態になったら、今回の新しいニュースをお届けしたいと思いますが、ご報告できるのは、おそらく帰国後になるかもしれません。

今後しばらくは、チェルノブイリに行く前に書きこんだものを掲載します。
----------------------------------------------------

|

2010年8月 6日 (金)

チェルノブイリへの旅⑤

6日は、ゴメリ州のなかの、ベトカ地区病院を訪ねる。
この地域は、放射能が60~100キュリー以上残っている。
新規の体内被曝者も毎年50人ほど出ている。

006

今回は、大人のがんが発生しているということで、JCFから内視鏡を贈ることになった。
メディカルエンジニアのヒロウラ氏が同行しており、セットアップしてもらう予定だ。

また、この病院を拠点に、必死に格闘している医師や、フェイシェル(旧ソ連の医療制度で、日本の上級保健師と少し似た存在)の活動を見てきたい。
この地域では、子どもも大人もがんや白血病、体内被曝などの問題が多いが、同時に、ネグレクト(育児放棄)なども問題になっているという。
子どもたちの施設を訪ね、診察する予定である。

写真は、放射能の汚染を示す地図。19年前、どこの町にも張られていた

----------------------------------------------------
今回は現地で更新できず、この数日のニュースはチェルノブイリに行く前にスケジュールの予定として書き込んだものです。

更新できる状態になったら、今回の新しいニュースをお届けしたいと思いますが、ご報告できるのは、おそらく帰国後になるかもしれません。

今後しばらくは、チェルノブイリに行く前に書きこんだものを掲載します。
----------------------------------------------------

|

熱中症に注意

熱中症が急増している。
消防庁のまとめでは、7/19~25までの1週間で、熱中症で搬送直後に死亡した人が、全国で57人に達したという。
熱中症で入院した後、ほかの臓器障害で亡くなった人もいるはずなので、実際は、この数よりももっと多いと可能性がある。

Dsc_0002

熱中症は、体温の調節機能がうまく働かなくなることで起こる症状。
大量の発汗やめまい、頭痛、吐き気などが起こったら要注意だ。
さらに進むと、脳の血流が足りなくなり、もうろうとしたり、けいれんが起こる。

マラソンの選手でゴール間際に熱中症と思われる症状の選手がときどき見られるが、スポーツ中や炎天下での作業だけでなく、室内でも要注意である。

予防するには、水分だけでなく塩分の補給をこまめにとることが大事。
スポーツドリンクがいいだろう。
もちろん、エアコンも利用する。

ちょっと変だなと思ったら、すぐに冷たいタオルをあてたり、扇風機で風をあて体を冷やす。
太い動脈が流れている頸部やわきの下、そけい部に冷たいタオルをあてて冷やすとよい。

特に子どもやお年寄りは注意してあげたい。

写真は、岩次郎小屋からのノウゼンカズラの花

|

2010年8月 5日 (木)

チェルノブイリへの旅④

今日は、ゴメリ州立病院の産婦人科を訪ねる。
チェルノブイリ原発事故当時に生まれた子どもたちが、出産をする年齢になった。
その人たちが、安全にお産ができるよう、産科の充実の応援してきた。その状況をみてきたい。

007

小児白血病の治療では、信州大学の小池教授や小児科の医局員たちが、人工衛星を使った双方向テレビや、50回近く医師を派遣して、指導を続けてきた。
たくさんの現地の小児科医たちを、信州大学に受け入れて教育もしている。

ゴメリ州立病院の骨髄移植チームは、環境センターという新病院に移った。
白血球を増やす薬G-CSFをキリンからいただいているので、届けてきたい。

写真は、かつてゴメリ州立病院を訪ねたときのもの。ロビーの絵をバックに、まだ髪の毛が黒々としていた鎌田

----------------------------------------------------
今回は現地で更新できず、この数日のニュースはチェルノブイリに行く前にスケジュールの予定として書き込んだものです。

更新できる状態になったら、今回の新しいニュースをお届けしたいと思いますが、ご報告できるのは、おそらく帰国後になるかもしれません。

今後しばらくは、チェルノブイリに行く前に書きこんだものを掲載します。
----------------------------------------------------

|

10代いのちの対話

終戦の日の8月15日、NHKラジオ第一で「10代いのちの対話」を放送する。
10代の若者たちとともに、いのちの大切さを考え、語り合う。

ゲストは、JAPAN元気塾代表の加藤秀視さんと女優のサヘル・ローズさん。
もちろん、チェルノブイリから帰国後、ぼくも出演する。

時間は、15日午後8時05分~9時55分。
ぜひ、お聞きください。

番組では、10代の方からのお便りを募集しています。
詳しくはこちら↓

http://www.nhk.or.jp/radiosp/10inochi.html

|

2010年8月 4日 (水)

チェルノブイリへの旅③

今日はチェルノブイリ原発を視察した後、ベラルーシ共和国へと入る。
とてもたいへんな行程だ。

003

写真は、チェルノブイリ原発労働者の町プリピャチ。
今は廃墟になっている。
かつて原子力発電所の労働者たちでにぎわったことが、遠くに小さく見える観覧車からうかがえる。

004

原発に近い村は、人の姿もなく荒れ果てている。

写真は、15~19年前のものです。

----------------------------------------------------
今回は現地で更新できず、この数日のニュースはチェルノブイリに行く前にスケジュールの予定として書き込んだものです。

更新できる状態になったら、今回の新しいニュースをお届けしたいと思いますが、ご報告できるのは、おそらく帰国後になるかもしれません。

今後しばらくは、チェルノブイリに行く前に書きこんだものを掲載します。
-----------------------------------------------------

|

2010年8月 3日 (火)

鎌田實の一日一冊(73)

『ぼくのオカンがうつになった。』(佐口賢作著、サトウナオミ・イラスト、PHP研究所)

漫画を読まないぼくが、久しぶりに漫画を読んだ。
家族がうつ病になったとき、どうすればよいかがわかやりすい、コミックエッセイである。

うつ病は100万人を超えたといわれている。
うつは身近な問題だ。

この本は、うつ病になったオカンとぼくとの16年を描いている。
うつ病は本人もたいへんだが、家族もしんどいということを、作者は強く述べている。
同時に、家族としてできることは何かを考え、こんなふうに書いている。

「人はどんなにうつうつとしているときでも、家族に伝えたい気持ち、感情があります。そのなかなか言葉として出てこないひとことを聞いてあげるのが、家族にできることなのかな。今はそんなふうに考えています」

話をきくことの大切さは、すべての人間関係の大前提かもしれない。

Photo

著者の佐口さんとは、ある雑誌のインタビューの仕事でお会いした。
その佐口さんからぜひ読んでほしいと、いただいた。

お母さんがうつ病になり、たいへんだったと思う。
佐口さん自身もあぶないときがあったように思う。
でも、土俵際でこらえて、自分の人生を歩んでいくことは、すごいことだ。
お母さんも少しずつよい方向に向かっているようで安心した。

ご家族や身近な人がうつだという人は、ぜひお読みください。
参考になります。

|

チェルノブイリへの旅②

日本から12時間かけてモスクワに到着。
次の飛行機を4、5時間待ち、ウクライナ共和国の首都キエフへ入る、予定である。

002

1986年4月26日、史上最悪の事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所はウクライナの北部にある。
写真は、20年ほど前のものだが、現在はどんな状況なのか明日4日、視察する予定だ。

放射能がもれないように、コンクリートで固めれた「石棺」の工事がどこまで進んでいるか、見てこようと思う。

----------------------------------------------------
今回は現地で更新できず、この数日のニュースはチェルノブイリに行く前にスケジュールの予定として書き込んだものです。

更新できる状態になったら、今回の新しいニュースをお届けしたいと思いますが、ご報告できるのは、おそらく帰国後になるかもしれません。

今後しばらくは、チェルノブイリに行く前に書きこんだものを掲載します。
----------------------------------------------------

|

2010年8月 2日 (月)

チェルノブイリへの旅①

昨日は、諏訪中央病院看護専門学校の文化祭にピーコさんに来ていただき、感動的な講演をいただいた。
講演に続いて、ピーコさんとぼくの対談となり、だれかのために生きることの大切さを語り合った。

■やさしさが起こした奇跡

実は、ピーコさんの講演を楽しみにしていた人がいた。
肝臓がんの末期のおばあちゃん。
車椅子で何とか会場につれていくつもりだったが、当日、肝性昏睡に陥ってしまった。
残念である。
若い医師が、ピーコさんにそのことを告げると、ピーコさんはそれなら私が病室に行きましょう、とおばあちゃんの病室を訪ねてくれた。

「本物のピーコさんですよ」
みんながおばあちゃんに呼びかける。
すると、不思議なことに、おばあちゃんが目を開けた。
しばらくぼうっとしていたが、そのうちに意識が戻ってくる。
「うそっ、ホント? ホント?」
おばあちゃんは、目の前にいるピーコさんに驚き、信じられないようすだ。
そして、なんと体を起こして座り! みんなで記念写真を撮った。
本人も、ご家族も、大喜びである。

ピーコさんも、大きな病気をしている。
きっと、病む人の気持ちがわかるんだ。本当にやさしい人だなあ。

100801image642

その後、ピーコさんと一緒の列車で東京へ。
夕方、JCFに多額の寄付をいただいた方と夕食をともにしながら、子どもたちの命をどうしたら救えるのか、語り合った。
知らない国の子どものために大切なお金を寄付してくださる。
日本はあたたかいなあと思う。

そして、今日、いよいよチェルノブイリへ向けて発つ。

■19年前の命がけの旅

ぼくがはじめてチェルノブイリを訪ねたのは1991年1月。

ウクライナ共和国からベラルーシ共和国へと車で移動中、前を走る車が跳ねた石が当たり、フロントガラスが粉々に割れてしまった。
真冬の1月、極寒の大平原を、車はオープンカーになってしまった。
急遽、ぼくが下着を包んでいたビニールの風呂敷を風防がわりにガムテープで貼りつけて、風をしのぎながら走った=写真。
しかも、雪の平原を100キロ近いスピードで飛ばしていく。
スパイクもスノータイヤも履いていない。まったくのノーマルタイヤで。
寒いし、怖いし、もう死ぬかと思った。
もう絶対に来ないぞ、と思ったものだ。
あれから20年近くも続けることになるなんて、あのときは思わなかった。

001

今回は、現地から報告ができそうもない。
そこで、今日からしばらく、15~19年前に撮った写真を使いながら、ぼくたちJCFの今回の旅程を簡単に紹介していきたい。
詳しい様子は、帰国後にご紹介できると思う。

では、行ってきます!!

|

2010年8月 1日 (日)

うれしい波紋

南相馬市立小高病院の遠藤院長とお会いした。
院長を含めて医師が3人に減り、病院の存続が難しくなったという。

遠藤院長とは、3年ぶりの再会だった。
ぼくは、宮城県で障害者の支援活動をしている虹の園を全力で応援している。
東北新幹線で白石蔵王を通るときには、できるだけ下りて、小さな講演会を開いてきた。
30人とか50人とか、参加者が車座になれるような小さな講演会で、地域の人たちに虹の園のすごさを伝えたいと思ったからだ。
3年ほど前、この小さな講演会に、遠藤先生が来られた。
そのとき以来の再会だった。

Img_2714

小高病院は、非常事態にある。
地域から病院がなくなることに危機感をもった住民が署名活動をはじめた。
1万人以上の署名が集まった。
病院を守る会もできた。
住民のパワーを感じるすごい活動である。

Img_2740

こうした小高地区の活動は、兵庫の県立柏原病院を守る会の活動を見習ってはじめられたという。
驚いた。
柏原病院の小児科医・和久先生と地域の病院を守ったお母さんたちのことは、『空気は読まない』(集英社)などに書いた。
兵庫のある地域の取り組みが、場所を隔て、南相馬市のある地域にも波及している。
驚きとともに、うれしくなった。

Img_2744

住民運動の成果で、医師は1人増えて4人になった。
遠藤院長は月12回当直をしている。
ピンチはまだ続いているが、院長としてはできるだけのことをやっていきたいという決意ができたという。
急性期医療と在宅医療と介護の機能をもつ、やさしい病院として小高病院の存続を目指したいという。
どこにも地域医療に情熱を燃やしている医師はいるなあとうれしくなった。

Img_2751

遠藤先生は、ぼくの本のどこかをよく引用して、職員に話をしているといってくれた。
ありがたいことである。

地域医療を崩壊させないことが、日本の原風景やコミュニティーを守ることになるし、あたたかな日本を守ることになると信じている。

写真は、相馬野馬追祭の様子。

500頭近くの馬と武者装束をした人が集まるという、なんとも勇壮なお祭りである。
このために馬を飼っている人もいるとか。
馬や武者装束を借りると、15~30万円くらいかかるという。
しかし、経済はこうやって回っているのではないか。
そして、地域のコミュニティーはこうやって守られているのではないか。
日本の豊かな祭りは、観光立国日本の目玉にもなる。
それをどう世界の人たちに伝えるかが問題。

元気な日本にしたいなあ。

|

本物志向

先日、南相馬市に行ってきた。
NPOほっと悠は、障害のある人もない人も分け隔てなく、手をとりあって働ける社会を目指している。
就労支援センターほっと悠では、障害のある人たちに仕事を開発している。
そのなかの一つ、お食事処食彩庵は、古い酒屋の建物を利用した郷土料理レストラン。
古いいい造りの落ち着いた雰囲気のなかで、町のお客さんにおいしいものを出して喜んでもらえたら、そこで働く障害者たちも元気がでるだろうなと思う。

そのほか、資源回収をしたり、メール宅配便を配達したり。
月額7万円ほどもらえる人もいるという。
日本の共同作業所では、収入が月1万円以下というところも多い。
障害があっても、こんな形で働けたらいいなと思う。

■おいしいジャム

ぼくが応援している宮城県の虹の園では、今年からジャムを売り出した。
これが、じつにうまい。
角田市特産の梅をつかったジャムやあんず、ブルーベリーのジャム。
無添加で、本物志向の味だ。

Img_2811

パティシエに何十回も教わりながら、改良し、ここまでの味になったという。
虹の園では、国産小麦ゆきちからを使ったパンを販売しているが、これがまたおいしい。
お店に出すとすぐに売れていく。
このパンによく合う味だ。

ラベルもビンもしゃれている。
蓋についた裂織りの布も、味わいがある。

Img_2811_2

障害者だから買ってください、というのではなく、本物のおいしいものを真剣につくり、それを評価して買っていただく。
こういう力は、その地域の宝になっていくと思う。

南相馬市のほっと悠や宮城県の虹の園、徳島県松茂町の愛育会など、日本にはすごい取り組みがあり、それを支えるすごい人たちがいるなと思った。

虹の園のパンやジャムのお問い合わせはこちらへ↓

http://www.nijinosono.or.jp/

|

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »