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2010年9月

2010年9月30日 (木)

NEWSのコンサート

NEWSのコンサートを見に、東京ドームへ行ってきた。
言うまでもなく大変な人気で、大阪、東京のコンサートはソールドアウト。
この日は、延長されたコンサートの最終日であった。

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小山慶一郎君とは「ニュースエブリィ」(日本テレビ系、16.53~)で共演している。
礼儀正しい好青年だ。
「気になる」というコーナーで、とてもいい取材をしている。
歌って、踊れて、そのうえニュースのキャスターなどもやりたいと考えているようだ。
一生懸命勉強している。
たくましくて、さわやかで、気配り、心配りができる青年。
みんなが応援したくなるようなヤツなのだ。

ぼくは、新潟で講演をしたあとに、東京ドームへ。
小山慶一郎ファンの一人として、熱気あふれるコンサートを楽しんだ。

                  ◇

いつも木曜に出ているニュースエブリィですが、今週は10/1(金)に出演することになりました。

10/1は、ピンクリボンの日。
鎌田のコーナーでは、乳がん予防についてお送りする予定です。
ぜひ、ご覧ください。

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2010年9月29日 (水)

鎌田劇場へようこそ!(51)

「シングルマン」

ファッションデザイナー、トム・フォードの初監督作品。
グッチやイブ・サンローランを再生させた男でもある。
その男が、愛する者を失った人生に意味はあるのか、と人生の意義を問う映画をつくった。

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昔の恋人と会い、恋人は癒してくれるが、愛する者を失った悲しみは癒されない。
色彩が消えてモノトーンになり、生きていることの悲しみや喪失感がみごとな感覚で表現されている。

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各国の映画賞を14部門で受賞している。
主人公をコリン・ファースが演じる。
見事な演技である。
隅々まで計算されている映画でおもしろい。

10/2からロードショー。

映画好きの方はぜひ。
心が揺さぶられます。

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2010年9月28日 (火)

この人に会いたい(29)内田麟太郎さん

あこがれの内田麟太郎さんに会った。
絵本作家で、詩人。
『さかさまライオン』(絵/長新太、童心社)は、本物と入れ替わった影のライオンが活躍する物語。
絵本にっぽん賞を受賞している。

絵本のベストセラー作家である。
1年間で出す作品は、何冊くらいか聞いてみた。
「本当は4冊。それ以上出したらダメと思っているが、断れなくてつくってしまう」という。

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ぼくは、この夏、パレスチナとイスラエルを訪ねたが、両国の間で行われた「命のバトンタッチ」の話を絵本にしたいと思っている。
ある有名な絵本作家にお願いしたら、1年半待つことになるといわれた。
この話を内田さんにすると、「それは鎌田さんの名前と内容のおもしろさで、順番をずいぶん飛ばしているのではないか」と言われた。

15年も待っている作品が2つもあるという。
すでに絵描きさんに頼んでいるが、なかなか仕上がらない。
あきらめかけると、パーティーなどで絵描きさんに会い、もう少し待ってください、と言われる。
なんだ、まだ続いていたのかと思い、また待つのだという。

絵本づくりというのは、そういうものなのか、と思った。
だとしたら、ぼくの「1年半」は、やはり特別扱いなのかもしれない。

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継母から愛されなかった内田さんは、少年時代、荒れていた。
『だれかがぼくを』(絵/黒井健、PHP)という最新刊の絵本は、5年かかったという。
「ころさないで」という言葉がいつも聞こえる少年の話。
19歳のとき、母親を殴り、台所に包丁を取りにいったとき、産みの親の「ころさないで」という声が聞こえたように気がした。
それを絵本にしている。

だが、あるとき初めて、継母から「愛さなくてごめんね」と言われる。
それから、お母さんの本をたくさんかきはじめる。

『おかあさんになるって どんなこと』(絵/中村悦子、PHP)という絵本は、若いお母さんにやさしく教えてくれる。
名前を呼ぶこと。
手をつないで歩くこと。
心配してあげること。
ときには一緒に泣いてあげること。
そして、ぎゅっと抱きしめてあげること。

内田さんは、東京へ出てからも苦労した。
それでも父親はふるさとに帰ってくるな、東京でずっと書き続けろと厳しかった。
つらい人生を歩いたぶんだけ、内田さんがつくる本はあたたかくてステキだ。

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『きんぎょのきんぎょ』(理論社)という詩集も、内田麟太郎らしくて笑ってしまう。
『かあさんのこころ』(絵/味戸ケイコ、佼成出版社)という絵本は、美しい詩である。

悲しみを知っている絵本作家。
ナンセンスなことも言う、不思議なおじさん。
得体の知れない魅力的な詩人である。

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2010年9月27日 (月)

若き女性監督との往復書簡

現在発売中の「婦人公論」で、映画『冬の小鳥』のウニー・ルコント監督と往復書簡を始めた。

映画は、親に捨てられた韓国の子どもが運命を受け入れ、新たな人生を歩む決意をする物語。
その監督自身が、韓国で親に捨てられ、フランス人の養子となって渡仏した経験をもつ。

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彼女は、「親に捨てられたおかげで私の新しい人生がはじまった」と語る。
「捨てられたことによって、韓国語や韓国の文化から切り離された悲しみは残っているが、別れの代償として究極の自由を手に入れた」とも語る。
とても聡明な女性。
ぜひ、読んでください。

『冬の小鳥』は、10/9から岩波ホールで公開、全国順次公開されます。

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2010年9月26日 (日)

いまだ時差ぼけ

「高嶋ひでたけのあさラジ!」(ニッポン放送)に毎週月曜出演しています。
午前6時20分~のコーナー「有楽町 朝活クラブ」では、旅の話や本の話、月に一度は健康法の話をしています。
8月末から9月中旬にかけて旅してきた、イスラエルとパレスチナの「命のリレー」の話や、ピースボートの旅の話などもしたいと思っています。
ぜひ、お聴きください。

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日本に帰り、鼻風邪はほとんど完治しましたが、時差ぼけが戻らず、朝4時半にスパッと起きられない状態が続いています。
今までは外国に行ってもすぐに戻っていましたが、今回は体内時計のリセットがうまくないようです。

文庫『本当の自分に出会う旅』(集英社)は、完全にぼくの手を離れ、10月の出版を待つのみ。
11月に出版する『人は一瞬で変われる』(集英社)も、あとがきを書くだけになりました。
とてもおもしろい本になりそうです。

日本に帰っても、講演などで各地をまわる旅暮らし。
飛び回りながら、あせらず時差ぼけを治したいと思っています。

写真は、岩次郎小屋から見た午前5時45分ごろの空。
山の下に霧がたなびき美しい。

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日本と中国

尖閣諸島沖の漁船衝突事件で、中国人船長を釈放したという。
つくづく日本は外交オンチである。
まだ漁船船長が釈放されていない段階で、「ニュースエブリィ」でコメントを求められ、こう答えた。

1960年代まで中国も台湾も、尖閣諸島は日本の領土として地図に書かれていた。
石油が埋蔵されているとことが出てから、両国とも自分の領土と主張しはじめた。
その事実関係をきちんと述べるべきである。

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今回の漁船衝突事件に関しては、いち早くビデオを世界に公開すべきであった。
中国の主張が大人気ないことがわかる。
おそらく、ビデオ映像は裁判で使おうとしたのだろうが、一人の人間の罪を問うてもあまり意味はない。
これは明らかに外交の問題である。
個人の罪を問うのではなく、中国がいかに理不尽なことをしているのか公開し、世界の世論に訴えるべきだった。

船長の拘留も1、2日でよかったと思う。
中国に恩を売って、すばやく船長を中国に返し、もう二度としないと発言でもさせればよかっただけの話である。
中国は国民も政治もヒステリックになっているが、大事なのことは、日本は大人の対応をして、ヒステリックにならないことだ。

先日、長崎を訪ねたとき、ぼくはあえて中華街に行ってみた。
何人かの人に、「漁船衝突事件後、中華街に来るお客さんは減ったか」と聞いたら、「いつもと変わらない」と笑って答えてくれた。
事件どころか、中秋節のお祭りの準備でにぎわっていた。

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ここが日本のいいところである。
中国系の人たちを日本は大切にしてきているはずである。
衝突事件くらいで、中華街に行くのをやめようなんていう日本人はいない。
ヒステリックな反応を示す中国に対して、日本はいたって冷静だ。
こういうことをニュースで流せばいいのだ。
そして、この現状を世界中の目にみさせていくことが大事なのだ。

世界と渡り合っていくとき、もう少し日本の外交は戦術的に磨きをかけなければいけないと思った。

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長崎中華街の中国人の店に入った。
豚肉のレタス巻きは抜群の味。
角煮どんぶりも食べた。
本当は、新鮮な魚の和食を食べたかったが、あえてこの時期、中華街に寄ってみた。

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2010年9月25日 (土)

鎌田實の一日一冊(76)

『シゲコ! ヒロシマから海をわたって』(菅聖子著、偕成社)

著者はぼくの友人の菅聖子さん。
菅さんと、この本の主人公・笹森恵子(ささもり・しげこ)さんと一緒に、チェルノブイリを旅したことがある。

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広島で被爆し、ヒロシマガールズとしてアメリカに渡った笹森恵子さんの物語が、小学生から大人まで読めるように書かれている。

笹森さんは、ピースボートに乗って反核を訴えたこともある。
アメリカでも核を無くしてほしいと訴え続けている。
週刊ポストにも書いたが、反核を訴える笹森さんに対し、ミネソタ州立ウィノナ大学は名誉博士号を授けた。
授章スピーチで、彼女は三つのことが大事だと語った。

一つは勇気。目標に向かっていく勇気が大事である。
次に行動。勇気があっても行動しなければ、何も変わらない。
最後は愛。愛がなければ進むべき方向を間違うことがある。
「愛をもって行動すれば、神様はあなた方を必ず守ってくれるでしょう」と言う。

現在78歳。
日本に来るたびに連絡をくれ、ときにはアメリカの養父ノーマン・カズンズの遺品をいただく。
ぼくのことを「日本のノーマン・カズンズ」と言ってくれるあたたかな恵子さん。
勇気と行動、愛は、78歳になっても変わらない。

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2010年9月24日 (金)

この人に会いたい(28)湯浅誠さん

湯浅誠さんと会ってきた。
自立生活サポートセンター・もやい事務局長、反貧困ネットワーク事務局長で、内閣府の参与をしている。
「パーソナルサポートサービス制度」について、内閣府に湯浅さんを訪ねた。

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失業する人は複数の問題を抱えていることが多い。
相談する人は問題によって、社会福祉協議会へ行ったり、福祉事務所へ行ったり、ハローワークへ行ったり。はたまた失業のためにうつ病になれば、行政の保健師に会ったりする。
いろんなところをまわっている間に根気が続かなくなってしまう。
サポート体制が縦割りだったのだ。

「パーソナルサポートサービス制度」は、一人の担当者がすべての問題の相談役になり、それぞれの部門と連携しながら問題を解決していくというワンストップサービス。
秋からは全国5箇所でモデル事業として実施される予定だ。

失業して収入のない人には、生活保護を含めていろいろな福祉的サポートしないといけないが、それよりも就労に向かわせたほうが社会にとっても、本人にとっても、いいことだと湯浅さんは考える。
失業した人を排除する社会ではなく、再チャレンジができるような社会をつくりたいと抱負を語っている。

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2010年9月23日 (木)

下り坂のなかの幸せ

文藝春秋スペシャル季刊秋号では、「ゼロからはじめる幸福論」を特集している。
そこに「下り坂のなかの幸せ」という原稿を書いた。

いま日本は、なかなか経済がよくならない。
日本は成熟社会に入っている。
上り坂を駆け上がってきた日本だったが、いま下り坂に差し掛かり、多くの人がどのように適応してよいのか見えてこないように思う。

下り坂のなかでも、幸せな生き方はあるように思う。
ぜひ、お読みください。

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2010年9月22日 (水)

カレーも、味噌も

日本に帰ってきて、時差ボケと温度調整がうまくいかず、鼻風邪を引いてしまったが、そのまま、東京、大阪、山形、名古屋と飛び回った。

カレーでも食べて汗をかき、風邪を治したいと思っていたのだが、名古屋についたら、やっぱり味噌煮込みうどんを食べたくなった。
直前まで、カレーを食べたいと迷いながらも山本屋に行くと、なんと季節限定でカレー味噌煮込みうどんなるものを出している。

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以前から、味噌とカレーが合わさると、どんな味がするんだろうと思っていたが、まさか本当にあるとは。

食べてみた。
味噌煮込みは甘みがあるので、そこにカレーは合わないのではないかと思ったが、なかなかどうして。
味噌のほうが微妙に勝っていて、味噌煮込みうどんの満足感がありながら、カレーの香辛料が効いているので、汗をかきたいぼくの目的にぴったり。
大汗をかいて、風邪を一蹴した。

アラブ料理や地中海料理、北アフリカ料理・・・どこでも食事に不満はなかったが、やっぱり食は日本かななんて、カレー味噌煮込みうどんを食べながら思った。

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2010年9月21日 (火)

鎌田實の一日一冊(75)

『社会を変えよう、現場から』(阿部守一著、文屋)
長野県知事になった阿部守一さんの本。

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ぼくは、いつでも政治的に中立でいようと思っているが、阿部さんは高校の後輩ということもあり、また、以前から何度も会って、誠実な人間であることがわかったため、対談をした。
長野県で、農業や町政にかかわる人たちの対談も載っている。

阿部さんは行政と地方自治に詳しく、志もしっかりある。
県政を動かす力は十分にあると思う。
阿部知事には、長野県をなんとかよくしてもいたいと思っている。
もちろん、個人的に同窓生として応援していくつもりだ。

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2010年9月20日 (月)

菅原文太さんを訪ねて

9/23の「ニュースエブリィ」(日本テレビ系16.53~)では、鎌田が菅原文太さんの農場を訪ねる。
菅原文太さんに、なぜ農業をはじめたのか、いまの日本に対してどんな思いをもっているのか、若者たちに何を託したいかなど、インタビューしている。

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文太さんは今年で喜寿を迎えたが、今も若々しい。
東京で何度もおいしいものをご馳走になった。
いつも雪駄を履いていた。
かっこいい。
大スターだけれど、気さくなおじさんという感じがなんともステキだ。
ぜひ、放送をご覧ください。

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2010年9月19日 (日)

新連載スタート

季刊誌「コトバ kotoba」が創刊された。
「多様性を考える言論誌」だという。

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不景気ともに、雑誌は不調であるという。
いくつもの雑誌が撤退を余儀なくされるなかでの創刊。
なかなか勇気のあるいい雑誌である。

「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という連載を始めた。
第一回は「人間は旅をする動物」。
これからも、人間の多様な楽しみ方や生き方、死に方について語っていこうと思う。
ぜひ、読んでください。

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2010年9月18日 (土)

鎌田劇場へようこそ!(50)

「トルソ」

顔も手も足もない、男性型の人形=トルソを抱きしめている女の物語である。
不気味な映画だ。

映画のなかには隙間がいっぱいあって、いろんなことを考えさせられる。
淡々と日常を追っているだけなのに、人間は深い悲しみや苦しみ、憎しみを抱えているということが隙間のなかから伝わってくる。

「誰も知らない」のカメラマン、山崎裕の初監督作品。
一生懸命、こういう映画をつくっている監督や俳優がいるというのは、すごいことだ。
静かで、ゆったりとしてしていて、ところどころで退屈してしまいそうになりながら見た。
しかし、そのうち、だんだんと、これが人間の日常だと思えてくる。

映画が好きな人、詩が好きな人、隙間から想像力を働かせるのが好きな人には、おすすめ。

「僕のエリーは200歳の少女」

ホラー映画である。
ぼくはホラーが大嫌い。でも、この映画はメルヘンみたい。
いじめられている12歳の少年が、少女に初恋をする。でも、少女は200歳生きているバンパイアであった。
残虐な場面もいくつかあるが、不思議なほど静かで、切ない映画。
ホラーが嫌いな鎌田でも、最後まで引き込まれた。

「セラフィーヌの庭」

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実在の画家、セラフィーヌ・ルイを描いている。
映画好きにはたまらない映画である。

「告白」

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日本映画も元気。
怖いけれど引き込まれる。
人間の心の奥にある鬼のような心が見事に表されている。
人間はまだらなんだ。
この鬼のような心が暴れださないようにする必要がある。

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2010年9月17日 (金)

最後はボギー気分で

モロッコやチュニジアは、日が沈むところと言われている。

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最後の夜は、カサブランカで過ごした。
映画「カサブランカ」の舞台となったリックス・カフェがそのままに復元されて、レストランになっている。
まるで今にもハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンが出てきそうな雰囲気である。

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オーナーは女性。日本にも来たとがあるらしい。
流暢な日本語で話しかけられた。

ぼくもボガートを気取りたいところだが、長い旅の最後で下痢になってしまい、脱水気味だ。
この日は、一日ごはんを食べなかった。
夜はじめてスープを口にした。

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カサブランカから飛行機でフランクフルトへ。
7時間ほどトランスファーの時間待ちがあり、成田へ戻る。
待ち時間を入れると24時間ほどかかる。

また忙しい日本での生活がはじまる。

   ピースボートの旅の報告はこれで終わりです。
   読んでいただき、ありがとうございました。

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◎お知らせ

18日(土)午後6時10分~、NHK総合「海外ネットワーク」をご覧ください。

2005年、パレスチナ人の少年が、イスラエル兵に殺されました。
それからずっと鎌田は、そのパレスチナの少年の父親に会いたいと思っていました。
今年8月、その夢が叶い、少年の父親とともに、少年から臓器移植を受けたイスラエルの少女の家族を訪ねていきました。
その様子が紹介されます。

http://www.nhk.or.jp/worldnet/

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2010年9月16日 (木)

迷宮のまちフェズ

世界遺産マラケシュの旧市街の壁に、へんな落書きのようなものを見つけた。
選挙用のポスターだという。
日本ではちょっと考えられない。

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マラケシュから再びカサブランカに戻り、カサブランカから車で片道4時間かけてフェズへ向かった。
あわただしいが、見たいものがたくさんあるので仕方がない。

フェズの旧市街だ。

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フェズの旧市街の入り口から、モスクが見えた。

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スークでは、鶏やハトが売られていた。ハトは高級品だという。
ラクダの肉を売っている店もあった。

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スークから横道に入ると、道は迷路。
道が狭いためにロバが荷物運びに利用されている。

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なかには一人しか歩けない細い道もあるという。
迷わずに一人で歩くことなんてできそうにない。

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人生も迷路。
道の先に何が待っているかわからない。
だから、おもしろい。

迷路のまちフェズは、時々刻々と光と影が変わり、これがまた美しい。

皮の染色職人のまちタンネリ。
珍しい風景だ。
この一帯も世界遺産である。

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左側の木の皮を丸めたようなものは、ベルベル人が歯磨きに使っているものだという。

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2010年9月15日 (水)

屋台が並ぶフナ広場

夕食後、夜9時くらいにフナ広場に出た。
お祭りのようである。

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氷に囲まれた魚が並び、客が選んだ魚をその場で料理をしてくれる。
もちろん、ぼくは怖くて食べなかった。

果実を乾燥させて売っている。
より早く乾燥させるために、火を炊いていた。
羊の脳みそを食べさせる屋台。
エスカルゴの屋台。
こういう店が、10軒近く並んでいる。
水売りのおじさんもいた。

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アフリカの音楽をやっていたので、カメラを向けたら、5、6人の民族衣装の男たちに囲まれて、帽子をかぶせられて踊らされた。
もちろん、その後、チップを要求された。
観光地の洗礼だ。

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カサブランカに戻る便がキャンセルになり、空港で次の便を待っていた。
そこでは、アフリカの音楽が演奏され、パンやお茶がタダでいただける。
このホスピタリティーには心がほっとしてしまう。

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2010年9月14日 (火)

活気あふれるスーク

バブーシュという、皮のスリッパを売る店に入った。

はじめ1足2500円くらいと言われた。
たいてい観光客はふっかけられるとガイドから聞いていたので、「5足買うからもう少し安くして」と交渉をはじめた。
だんだん安くなっていく。
「1足2000円」
「いや、もう少しなんとかならないか」
そんなやり取りをしながら、徐々に安くなり、1700円くらいにまで下がった。
「1500円なら買う」
「それでは儲けがなくなるからダメ」
「それならほかの店に行く」と言って立ち去ろうとすると、店の主人が後をついてきた。

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1550円でいいという。
交渉成立。握手をし、ハグをした。
店主は、北アフリカの先住民ベルベル人だという。

スーク(市場)は活気に満ちていた。
ちょうどラマダンが明けたこともあり、町中がお祭りのようだ。

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マラケシュは赤い土でできており、赤い町といわれる。
建物の壁は、たいていこの赤い土の色。

町全体が調和がとれ、美しい風景になっている。
とてもすてきな町だ。

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日本語のガイドも7、8人いるという。
日本語のガイドを探すと、普通では入れないようなところに入ることもできるようだ。

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2010年9月13日 (月)

リヤドに宿泊

世界遺産の旧市街の中央にあるフナ広場から、迷路のような道を行くこと数分。
ひっそりとたたずむ小さなリヤドに泊まった。
リヤドとは、私の家という意味らしい。
普通の家がホテルになっている。

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庭の周りにあるソファーで、猫がのんびりと寝そべっていた。
部屋もなかなかすばらしい。
古いままで、天井が高い。

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ただし、お湯が出ない。
気温は30度を超えているが、冷房もない。
部屋付のベランダは広く、その雰囲気はすばらしかった。
中庭にはプールもあった。

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朝食は、一般家庭のようなキッチンで、モロッコ人の女性がつくってくれるのが見えて、楽しかった。
これぞ、私の家リヤド。

モロッコ人のちょっとぜいたくな家庭の生活を味わうことができた。

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マラケシュの王宮

マラケシュに着いた。
旧市街全体が世界遺産だ。
人が多くて、みんな大声で話している。
オートバイや馬車が走り回っている。
活気にあふれている。

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王宮を見た。
イブ・サンローランが造った庭園がそのまま公開されている。
黄色や水色など、イブ・サンローランらしい色づかいの壺などが配置されている。

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音楽を生演奏しているレストランに入った。
前菜とスープだけで、日本人にはおなかいっぱいになる量だ。
その後、肉と野菜を煮込んだタジン料理と、アフリカ料理のクスクスが出てきた。
食後は、ミントティーと甘いお菓子。
これで一人3000円くらいだ。

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モロッコ料理はとてもおいしい。
モロッコファンになった。

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◎お知らせ

帰国早々の9/15、「大竹まことゴールデンラジオ」(文化放送)に出演します。
14時25分から約25分間の放送予定です。

9/16は、久しぶりに「ニュース・エブリィ」(日本テレビ系、16時53分~)にコメンテーターとして出演します。

9/20は、「鎌田實 いのちの対話」(NHKラジオ第一)があります。
9時05分から約3時間の公開生放送。
今回は、大分県国東市で、大平光代さん、内田麟太郎さん、南慧昭さんをゲストに迎えてお送りします。
テーマは「お母さん」。
ぼくは父親の岩次郎さんのことはよく話したり、書いたりしてきましたが、母親のことはあまり語ってきませんでした。
放送では、母親について語ろうと思っています。

以上、テレビやラジオをチェックしていただければ幸いです。

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2010年9月12日 (日)

カサブランカで牡蠣

ピースボートの旅は3回目。
以前に比べるとかなり快適になった。

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インターネットも一日だけ不通になったが、それ以外は大丈夫だった。
おかげで、このブログも、ほかの原稿も送ることができた。
携帯電話も、陸からあまり離れなければ通じる。
つくづく便利な時代になったと思う。

モロッコのカサブランカに寄港した。
着いたのは夜。
さっそく港のすぐ横にあるオイスターの店に入った。

本当は怖かった。
ギリシャで会った太田さんが、モロッコでノロウィルスに感染したと聞いて、生もの、生野菜は食べないようにしようと思っていたのだが、クルーズディレクターの井上君らに誘われて入った。

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下痢を覚悟で食べた。
うまい。
パエリヤも、スペインで食べたものより何倍もおいしかった。
いっぺんにカサブランカが好きになった。

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カサブランカといえば、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの名画「カサブランカ」が忘れられない。
あの雰囲気は、旧市街やスークのなかに残されていた。

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いよいよアフリカ

昨夜、右手にスペイン、左手にアフリカを見ながら、狭いジブラルタル海峡をすり抜けた。
ジブラルタルは、古くからイギリスの軍艦の基地があり、スペインが領土を主張するのに抗して、イギリスは今も返還していない。
ここにも領土問題がある。

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みんな朝早くからデッキに集まり、デッキの上を歩く人、写真を撮る人、おしゃべりをする人、ラジオ体操をする人・・・いろんなグループが思い思いに朝の時間を過ごしている。

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ピースボートでは、GPPAC(ジーパック)の会議が行われている。
GPPACとは、国連のアナン前事務総長が、武力紛争を防ぐには、新しいグローバルパートナーシップが必要と呼びかけてできた世界的なNGOプロジェクト。
パレスチナ、フィリピン、レバノン、ケニア、オランダなど13カ国のGPPACのメンバーが参加し、船上でシンポジウムを行った。
テーマは「紛争予防とマスメディア」。
マスメディアの力をいかに利用して、紛争を防いでいくか、とディスカッションが繰り広げられた。
たしかに21世紀は起きてしまった紛争を解決するのではなく、紛争が起きないように予防していく時代。
一人ひとりが自分自身を変えていくのが、21世紀のあり方だと思う。

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パレスチナからずっと一緒に旅をしていたイスマイルさんとも、とうとう別れのときが来た。
「3月に東京で会おう」
「いつかまた平和になったパレスチナに行く」
再会を約束し会い、別れを告げた。

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2010年9月11日 (土)

ジブラルタル海峡の日の出

バルセロナの夜景をみながら出発。
翌朝、ジブラルタル海峡で太陽が昇るのを見た。
不思議な雲と太陽の見え方だった。

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朝食のとき、21歳の女性と同じテーブルになった。
ビュッフェで、山盛り食べている。
船に乗って、体重変化はないという。

法学部の学生だという。
最低料金99万円で世界一周。
小遣いは、20万円もかからないだろうという。

オプショナルツアーには参加せず、船を下りたところで、自分でバスや電車を使い、町を歩いているという。
言葉がわからないと、運転手さんが「いいよ、いいよ」とタダで乗せてくれることもあった。
何度も地元の人にご馳走になった。
みんな、あたたかいという。
健康的な美人というのも関係しているかもしれないが、そのたくましさに驚く。
年をとると、ここはタクシーで行こうなんて、楽をしてしまいがちだが、若いってすばらしいと思った。

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ジブラルタル海峡で、2日間、講演をする。
今日の講演は「生きているってすばらしい、船マジック」というテーマ。
船の旅だからこそ、引きこもっていた若者がどんどん変わっていく。本当の自分が見えてくる。

93歳の最高齢の人とも話をした。
ピースボートは若い人からお年寄りまで、そして、それぞれが大なり小なりいろんな問題をかかえている。
旅をしているうちに、少しずつリフレッシュし、心が元気になっていく。
ぼく自身もそう。
これぞ船マジック。船旅大好き。

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2010年9月10日 (金)

バルセロナ、そしてお別れ

バルセロナは芸術のまちである。
ミロやダリが活躍した。
ピカソも14歳でこの町にやってきている。

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ピカソが10代で初めて個展を開いたカフェを訪ねた。
「4匹の猫」というカフェだ。
ガウディも来たという。
一度廃業したが、100年以上前の建物がそのまま残っている。

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バルセロナの旧市街で、イカ墨のパエリアを食べた。

ガウディを堪能した後、出航間際に帰船した。

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この日は、イスラエルのドールさんが船を降りる。
ドールはこう言った。
「鎌田さんに会えてよかった。
平和は必ずやってくる。
鎌田さんの言葉を聞いてるうちにそんな気になれた。
パレスチナの人とも仲良くなれた。
ずいぶん迷ったけれど、本当に来てよかった」

「またいつか、必ず会うときがくると思う。
イスラエルとパレスチナは少しずつ、ゆっくりと、仲良くなる。
その途中で、ぼくは必ずイスラエルとパレスチナに行きます。
元気でいましょう」

ぼくはそうあいさつし、再会を約束した。

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船は、ジブラルタル海峡を望みながら、北アフリカへと向かった。

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ガウディの世界遺産

グエル公園は、海を見渡せる高台に築いた住宅地だった。
しかし、分譲された土地が高く、売れたのは1軒だけ。
一角にガウディが住んだという家が残っている。

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結局、公園として生まれ変わった。
ガウディは自然が好きだったため、木が植えられた。
タイルのベンチは圧巻である。直線はどこにもない。
列柱も、大きな波のうねりを意識している。

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タイルの装飾を見ながら、ふとウィーンの建築家フンデルト・バッサはガウディの影響を受けているのではないかと思った。

サグラダ・ファミリアのガウディの手がけた部分は、なんともすごい迫力である。
グエル公園も、とにかく見事。
天才が全力投球するとすごいことになる。

昼間、ガウディのカサ・バトリョとカサ・ミラを見たが、どうしても夜も見たいと思い、もう一度見に行った。
夜は、さらにガウディの意図が感じられる。

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カサ・バトリョは、海をイメージしたというが、まさに海面が月光を受け、乱反射しているようだ。
世界一長い窓、不思議な形をしたバルコニーがある。

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カサ・ミラは、ライトは一つもなかったが、山を意識したといわれるだけあり、山の荘厳な空気がのしかかってくるように感じた。
いたるところに使われた曲線は、風が流れるようだ。

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サグラダ・ファミリア

バルセロナで活躍する芸術家で、ガウディ研究家、ルイス・ゲイルブルカ氏のレクチャーを受けた後、世界遺産のガウディの作品を見て歩いた。

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代表作は、有名なサグラダ・ファミリア。
建設途中で彼が亡くなり80年以上が経つが、まだ建設中である。
建設費は募金が中心である。
キリスト教を信仰している人にとっては、応援したくなるような建物である。

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サグラダ・ファミリアの前面は荘厳である。
後方は作者が違うので、なんとなく好きになれない。
中に入ると、ガウディの構想にあるように、うっそうとした森を感じさせる。
建物全部が呼吸しているようである。

ガウディはカタルーニャ地方の自然に影響を受けている。
作品からは、海や山、風が感じられる。

ガウディは、このサグラダ・ファミリアの建設は完成まで300年かかると考えていたようだ。この大仕事に専念して、建設現場に寝泊りした。
ぼろぼろの洋服で、毎朝、ミーティングでは自ら指示をしたという。
1926年、市電に跳ねられて亡くなるまで、文字通り、命を注いで取り組んでいた。

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現在も建設中だが、ガウディの時代にはなかった什器が入り、建設のスピードが上がったため、あと30年くらいで完成するのではないかといわれる。

しかし、かりに完成しても、その後50年くらい経たないと、全体の調和がとれないのではないかと思う。
あきらかにガウディとその後の後継者がつくったものとでは、質感が違う。
ガウディのイメージが完成するには、もしかしたらさらに何百年もの時間の経過が必要なのかもしれない。

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2010年9月 9日 (木)

フランスの移民政策

マルセイユで、フランスの移民政策について語り合った。
ピースボートがおもしろいのは、15000円の参加費で、移民政策について、移民や移民をサポートする人たちと話し、移民の多い町を散策したりできることである。
17世紀につくられた貧しい人たちのための福祉施設の庭を借りて、コーヒーやクロワッサンを食べながら、フリーディスカッションした。
20代の若者たちが多く参加し、議論は熱気にあふれた。

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ある移民は、アルジェリアから来た。
アルジェリアでは結婚しなかったために、イスラム原理主義者に批判を受け、自由を求めてフランスにやってきた。
偶然、飛行機の隣りの席に座ったアルジェリア出身のフランス人が泊めてくれた。
不法入国でも2年間猶予があり、社会保険や宿泊施設も無料で世話をしてもらえた。
2年後、帰国するようにいわれたが、いろんな人の応援で、帰国するとイスラム原理主義者に狙われるという理由で、難民として認められた。
仕事をすることも許可され、北アフリカから来た人たちの、フランス語の教師をしているという。

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ベルナルトさんは、移民たちにボランティアでフランス語を教えている。
ベトナムの青年を一人養子にして、大学にも行かせた。
その青年の知り合いということで、ベトナムから不法入国した22歳の青年を世話したりしている。

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もともとフランスは大学の授業料が無料なので、移民の子どもも大学で学び、出世していくチャンスがある。
フランスは個人主義のクールな感じのする国であるが、移民に対しては実に寛容なのだ。

9/22発売号の婦人公論に、フランスの若い女性の映画監督ウニー・ルコントとぼくの往復書簡が掲載される。ルコント監督は、韓国で生まれたが、親に捨てられ、フランス人の養子になった。
「私は韓国で親に捨てられた。捨てられたおかげで私の人生は始まった」
ルコント監督は、こんなふうに書いている。

マルセイユでは、移民2世や3世まで入れると50%近くになる。
フランス全体では約10%にのぼる。マルセイユの人たちは、ほかの国の人たちが移り住んでくることを怖がったり、差別したりしていないという。
そればかりか、最近、サルコジ大統領がロマ族を国外追放していることに対して、マルセイユでは大きなデモがあった。

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移民を受け入れると経済の足腰が弱くなるのではないか? とぼくは質問した。
むしろ移民の多いほうが工場が多くでき、産業が活気づく。
そして、働いた移民たちがものを買うので、内需は拡大していく。
まちがいなく移民政策がフランスの経済をよくしているという。
移民がほかへ移った町は、経済が急激にダウンしている、ということだった。

日本は移民に対して厳しい国である。
人口減の現在を考えると、現在の人口を維持する程度に移民を受け入れてはどうか。
きちんとした政策のもとに、何%かは農業や介護の分野の仕事についてもらうなど、日本に来たいという人たちを受け入れていくことが、日本の経済を支えていくためにも必要なのかもしれない。

今後、日本の生きる道として、検討の余地はあると思う。

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2010年9月 8日 (水)

美しいマルセイユ

イフ島が見えてきた。
デュマの小説「モンテクリスト伯」の主人公エドモン・ダンテスが幽閉されたことで名高い。
マルセイユに到着した。

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マルセイユの旧港は実に美しい。
港に面してカフェや出店がつらなっている。

旧港をとりまく地域には、北アフリカからやってきたイスラム系の人たちが多く住んでいる。
市場で、北アフリカの料理クスクスを食べた。
細かくしたパスタは、お米のような食感だ。
そこに熱々のチキンをのせて、その上に野菜とスープをかけて、辛味を入れて食べる。
体が温かくなり、汗が出てきた。
実においしい。
食後、たくさんの甘いお菓子が出てきた。

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イラクでもヨルダンでも、甘いお菓子がよくでてきた。
暑い地域の人たちは甘いお菓子が好きである。

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マルセイユはフランス第二の都市といわれるが、高層ビルがほとんどなく、しっとりと落ちついた港町である。
フランス人は高層ビルは嫌いなんだろうなと思う。
観光都市にしようと、町をきれいにしている。
経済もいいという。
なんとなく活気があった。

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本音の対話

パレスチナ人のイスマイルさんは、息子アハメド君をイスラエル兵に殺された。
脳死となった息子の臓器提供に承諾し、アフメド君の臓器はイスラエル人に移植された。

イスマイルさんは、イスラエル人がパレスチナ自治区に侵略するように入ってくるの許せないという。特に東エルサレムでイスラエルが幅をきかせているのには、多くのパレスチナ人は納得できない、と。

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イスラエル人のドールさんは、パレスチナ人による自爆テロで家族を失った友だちや親戚をたくさんみてきた。
たくさんのテロに遭遇しているため、イスラエル政府が入植地の周りに壁をつくろうするのもわかるという。
ただ、ドールさん自身は賛成とも反対とも言えないという。

お互いに本音で語り合った。
ポンペイの遺跡では、一緒に食事をし、肩を抱き合い、とても仲良く過ごしていた。
だが、自分たちの国の問題となると考え方の相違がはっきりする。

しかし、どちらも希望を捨てていない。
何をおいても平和が大事ということについては、意見が一致した。

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船の上では、ピースボートならでは本気のディスカッションが行われた。
聴衆も部屋からあふれるほど。みんな世界の平和を気にしている。

2週間後に、イスラエルとパレスチナの和平交渉の第二ラウンドが始まる。
少しでも中身のある議論が再開されることを望む。

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2010年9月 7日 (火)

自分を変える旅

船には、禁煙プログラムに参加している人が10人ほど乗っている。
毎日集まって、禁煙をお互いに確認し、一酸化炭素の測定を行っている。

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タバコを吸う人の呼気には、一酸化炭素が多く含まれる。
禁煙できていない人の場合は、一酸化炭素の数値は16だが、きちんと禁煙して2週間ほど経過するとゼロ近づいていていく。
ヘビースモーカーの人は3週間経過しても2くらいだが、なんとか禁煙に成功したいと思っている。
ドクターの話を聞いたり、心理療法士のサポートを受けながら、みんな本気だ。
船の上という、一種の閉鎖的な環境に身をおくことは、禁煙に成功するためのいい方法なのかもしれない。

引きこもりの若者たちも30人ほど参加している。
彼らと膝詰めで話をした。
どうも気に入られたみたいである。
その後、一緒に食事をしようと声がかかったり、パーティーに呼ばれたり。
すれちがうと、声をかけてくれるようになった。

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引きこもりは内閣府の推計で69万6000人。
家に閉じこもって外に出ない人の気持ちがわかるという予備軍は、155万人もいるといわれている。
引きこもりの背景には、さまざま原因がある。
だから、対応策も一概にはいえない。
だが、人とのコミュニケーションに不安をもち、なかなか自信をもてないという場合は、船でいろんな国を訪ね、世界にはいろんな人がいることを実感することは、大事な体験になると思う。

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乗船している7割くらいの若者は仲間づくりに成功し、いろんな企画に参加している。
引きこもりの若者が、お菓子パーティーなどを提案し、自分のことを語れるようになった。

船に乗ったときの自分と、やがて船を降りたときの自分はたしかに変わっている。
旅とはそういうものだと思う。

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アルアリードの難民キャンプで

2008年3月、鎌田がイラク難民キャンプを訪れた時の様子(続)。

ヨルダンのアンマンからシリアへ国境を超え、夜12時間ほど砂漠を通過し、イラク国境沿いのアルアリードの難民キャンプへ入った。1700人の難民が二年間生活している。大変厳しいが、教育熱心である。銃を持ったイラク警察に守られながら、診察をして歩いた。幼い子どもを二人かかえ、精神的に患っている母親の姿が印象的。

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2010年9月 6日 (月)

一夜にして時を止めた町

ナポリに到着した。
世界三大美港の一つといわれている。
ベスビオ火山が雄大に見える。

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エルコラーノの遺跡に行った。
紀元79年にベスビオの大噴火があり、この町に溶岩流が流れ込んだ。
一夜にして時を止めた町といわれる。
布やベッドなど、建物以外のものも残っている。
モザイクの絵は、もともと豊かな港町だったことをしのばせる。

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大浴場跡で、イスマイルがぼくの背中をマッサージしている。
イスラエルの女性ドールもすっかりうちとけた。
イスラエルでは授業でアラビア語を選択できるため、彼女は少しアラビア語を話せる。
2人はアラビア語で話している。人と人がうちとけるのはそれほどむずかしいことではないと思った。

午後はポンペイの遺跡を見に行った。
大きなまちである。
2500年前にはこのまちの骨格ができていたというから、桁違いの文化の古さを感じた。

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パン屋や、水やワインを売る店、洗濯屋、円形劇場がある。もちろんローマ人が大好きな大浴場もある。
上下水道や、馬車道と歩道が分かれているなど、都市が整備されている。

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夜は、ナポリの港の前にあるレストランで食事をした。
水牛のモッツァレラチーズやピザ、パスタ、生ハムを食べた。
ピースボートの共同代表の吉岡さんとテレビ製作のクルーは今日でお別れだ。

夜12時、船はマルセイユに向けて出港した。

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2010年9月 5日 (日)

船上のシンポジウム

ギリシャのピレウス港からピースボートに乗り、一行と合流した。
引きこもりの若者たちや、禁煙プログラムに参加している人たちを含む約1000人が乗船している。

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船の上で、シンポジウムを行った。
イスラエル兵に殺されたパレスチナの少年の臓器移植を決断したイスマイルさんと、イスラエルの女性ドールさん、そして、ぼくの3人で「命のバトンタッチと平和」と題して語り合った。

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会場には、あふれるほどの人が集まった。
イスラエルとパレスチナの62年間の戦いを総括しながら、憎しみあいの連鎖からあたたかな連鎖へ転換するには何が必要なのか、相手の痛みを想像する力、そして希望へと話題は発展した。

とてもいいシンポジウムになった。
テレビ製作のクルーも同行しているので、いずれはドギュメンタリー番組になるといいなと思う。

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ぼくは、相変わらず朝4時半起き。
10月に出版する文庫『本当の自分に出会う旅』(集英社)や、11月出版予定の本(「人は一瞬で変わる」(仮題))の原稿の最終チェックを行っている。

この後、ピースボートは、ナポリへ向かう。

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2010年9月 4日 (土)

たそがれのギリシャ

イスラエルを発って、ギリシャに着いた。

アテネのアクロポリスを見て歩いた。
2500年前にこんな雄大なものが建造されていたとは信じがたい。
日本では竪穴式住居で生活していた時期である。
ディオニュソス劇場はギリシャ最古の劇場で、円形劇場のはじまりといわれる。
アクロポリスの丘の下に広がる古代アゴラは、政治や宗教や哲学が語られた場所。
ソクラテスやプラトンらも、ここで熱い議論を交わしたのだろうか。
この場所から民主政治がはじまったと思うと、感慨深い。

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重厚な歴史の一方で、現在のギリシャの経済は破綻しつつある。
2004年のオリンピックの準備のために財政が厳しくなったことを批判し、2004年にND(新民主主義党)政権が誕生した。
そのND政権は昨年、選挙に敗れ、それ以前に政権をとっていたPASOK(全ギリシャ社会主義運動)が再び政権を奪回。政権交代と同時に、前ND政権時代の巨額の財政赤字隠しや、年金や国民健康保険などのお金を政治家が着服し、プールのある豪邸を建てたなどの醜聞が発覚している。
現政権は、財政破綻のため、給与や年金の減額するなど厳しい政策を行おうとしているが、国民の政治に対する不信感は強まり、支持政党なしが7割にのぼるという。

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ギリシャに20年住んでいる太田タマさんは、ギリシャの大学で日本語を教えている。
ギリシャ人には、バスや電車が来たとき、降りる人を待たず、われ先に乗り込もうとするようなところがあるという。
財政赤字の原因の一つとして、脱税の横行がある。
GDPの3割程度は闇経済になっているというから驚きだ。
政治家とのコネ社会ができあがり、政治家は私腹を肥やしている。
自分さえよければいいという思いが政治にも反映し、庶民の生活もギスギスしはじめているようだ。

さらに極右が台頭し、西洋思想のたそがれを思わせると太田さんは言う。
ソクラテスやプラトンの哲学は奴隷制度のある社会のうえに成り立った哲学である。
西洋思想だけが正しいと思わずに、もっと東洋のいい点を学んだほうがいいように思う、と話されたのも印象的だった。

西洋思想のたそがれだけではなく、EUという欧州全体の経済もたそがれつつある。
ユーロ安で、EU全体は非常に厳しい状況に追い込まれているが、ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインの頭文字をとって、PIGSと揶揄される国々の経済状態は大問題になっている。

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しかし、しかしである。
実際にピレウスの港町で夕飯を食べたが、実に明るい雰囲気だった。
とても美しい港で、食事も安くてうまかった。
経済が傾いているのにもかかわらず、なぜこんなに明るくて、元気なのだろうか。

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太田タマさんは、どんなことがあっても、やっぱりギリシャはいいという。
人が生きるということは思想や経済だけでなく、もっと違った面もあることがわかる。
このへんがヨーロッパの強いところである。

これから、ピースボートに乗って、イタリア、フランス、スペインを訪ねていく。
思想も経済もたそがれに近づいているのに、そこで暮らしている人たちが元気なのはなぜか。
2週間の旅で、ぼくなりに探っていきたい。

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2010年9月 3日 (金)

豊かだが、威圧的な国

イスラエルは豊かだ。
武器を外国に輸出し、潤っている。
トマホークを追撃する軍事技術は、まったく同じ研究者により、カプセル内視鏡などの医療技術に活用されている。

日本でもてはやされている長距離高速ランのWiMAX(ワイマックス)も、イスラエル軍が開発したものだという。
世界のユダヤ人の大企業家とのネットワークもあり、イスラエルの経済はものすごくいい。
パレスチナに侵略するような形で入植しているので、建築業も盛んだ。
イスラエルは、地方のまちにいっても活気に満ちて、ものがあふれている。
昼食は、1人2000円くらいでテーブルに多くの皿が並ぶ。

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イスラエルは警察国家で、非常に厳しい検問をして治安を守っている。
外国人に対しても威圧的で、不愉快な思いをした。
出国するときにも、どのまちを歩いたか、だれに会ったかと、2時間近く取調べのように厳しく聞かれた。

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日本人のぼくに対してもそうだから、パレスチナ人に対してはもっとひどい。
パレスチナ自治区に入植地を広げている後ろめたさを、巨大な軍事力と警察力を使って必死に守ろうとしているように思える。

かつてナチスが非抑圧民をつくり、自分たちの権力を守ろうとしたのに似て、パレスチナ人を抑圧するシステムをつくり、すべての人に有無を言わせない体制をつくっているようだ。
いつまでもこんな体制が続くわけがない。
イスラエルはもっと大人になるべきだ。
このままでは、イスラエルにとっても本物の平和は来ない。

いま、世界の目もイスラエルに対して厳しい。
イスラエルに対するぼく自身の印象も、今回の旅でずいぶん悪くなった。
イスラエルは方向転換のときがきていると思う。

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パレスチナの旅先から急遽、送った原稿が、9/2付読売新聞夕刊に大きく載りました。
イスラエル兵に殺されたパレスチナの少年アハメド君の父親と、アハメド君から心臓移植を受けたパレスチナの少女サマーさんのご家族が、対立を超えて、対面を果たしました。
そのご報告です。ぜひ、お読みください。

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2010年9月 2日 (木)

東エルサレムの旧市街

東エルサレムの周りの難民キャンプをみてまわった後、旧市街に入った。
ここには35000人のパレスチナ人が住んでいる。

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東エルサレムは、パレスチナが独立後の首都とみなしているが、イスラエルに実効支配されている。
旧市街には監視カメラが421設置され、イスラエル警察やイスラエル兵が自動小銃をもって威圧的にパレスチナ人を尋問している。
空き家ができると、すかさずイスラエル人が入り込み、そのイスラエル人を警察や軍が守っているという。

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旧市街を案内してくれたイスマイルさんは、この旧市街に住んでいる。
彼は、役者で脚本家でディレクターであり、パレスチナの大学へ行けない若者たちに演劇を教えている。
今回のツアー全体のコーディネートをしてくれている33歳のラミーは、NPOパレスチナ・ビジョンのリーダーだが、やはり旧市街に住んでいる。

彼らの案内で、キリストがゴルゴダの丘まで十字架を背負って歩いたというヴィア・ドロローサを歩いた。日本語では、苦難の道などと訳さている。
くねくねとうねる細い道で、イエスが躓いたという場所や人々に話しかけたとされるポイントがあった。

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ラミー青年の家は、なんとこのヴィア・ドロローサに面している。
遺跡のような家で、ラミーの両親がパレスチナ料理で大歓迎してくれた。

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コロッケのように見えるのは、ファラヘル。ヒヨコ豆で、肉は一切使われていないがとてもおいしい。
写真中央の鶏肉ののったごはんは、マルクーバというパレスチナ料理の代表的な料理。上下ひっくりかえして皿に盛るため、アップサイドダウンといわれる。
そうめんのようなものが入っているスープもあった。
現在はラマダンのため、太陽が沈んだ後に口にできる、胃にやさしい料理が用意されていた。

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イエスが処刑された後、埋葬されたという聖墳墓教会もみた。
ユダヤ人の聖地、嘆きの壁や、イスラムの聖地、岩のドームが隣り合う。
この聖地の帰属をめぐっての争いでもある。
もう少し宗教が穏やかになって、譲り合えるようになり、お互いが静かに祈れるような場になれないものだろうか。

東エルサレムの旧市街地は、夜になると人が少なくり、なんとも美しい光景だった。

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2010年9月 1日 (水)

少女の墓にたむけた、オリーブの木

2008年3月、鎌田がイラク難民キャンプを訪れた時の様子(続)。イラクの人々が住むパレスチナ難民キャンプでは、卵巣がんで亡くなった11歳の少女アディーンの家族がもてなしてくれた。カマタとJIM-NETスタッフは、アディーンの墓参りをし、そして、悪性リンパ肉腫で亡くなった14歳の少女、ディアルの墓を探した。彼女の家族は既にアメリカへ難民として移住し、今は誰も彼女のお墓参りをする人はいない・・・。

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生誕教会

ベツレヘムの生誕教会を訪ねた。
マリアがイエスを産んだとされる場所や、幼子イエスが寝かされたという場所がある。

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この教会は、ギリシャ正教とカトリック、アルメニア正教がそれぞれルールを決めて使っている。
ガイドに、違う宗派でケンカはないのかと聞いてみた。
ニコニコしながら、ある、という。
そのために警察を入れているそうだ。
宗教者は人間ができていてケンカなんかしないものと思っていたが、それは日本人の感覚かもしれない。

お昼の時間になると、教会の近くのモスクからアザーンが聞こえてくる。
3つ宗派のキリスト教に、ユダヤ教、イスラム教・・・と宗教がひしめき合っている。

特定の信仰を持たないぼくにとっては、宗教の色が濃くて、少し息苦しい。

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