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2011年8月22日 (月)

原発事故321

陸前高田の松が京都五山の送り火に使われるか二転三転し、翻弄された。
陸前高田の市民にとっては納得できないことだろう。
自分たちが五山送り火で燃やして欲しいと望んだわけではない。
間に入った人は、善意から話をすすめた。
インターネットの無責任な批判により一旦使用中止になったが、京都市は陸前高田の松を使おうとする。それも善意だ。
しかし、結果として、松の皮の部分からキロ当たり1130ベクレルの放射性セシウムが検出され、使用中止となったことはご存知のとおりである。

こういう経緯ならば、中止になってもしかたないと思う一方で、京都は1130ベクレルという数字がそれほど高いものではないことを理解し納得したうえで、この松を燃やすという選択をしてもよかったのではないかと思う。
そうすることによって、東北の人の痛みを、京都の人が共有できると思うからだ。

1108175__ 富士見にあるカントリーキッチンのカフェは、サンルームのよう。本を持っていき、1時間ほど読書しながらおいしいコーヒーを飲むのが大好き。原村診療所で診察した後によく立ち寄るぼくの隠れ家。

結局、この松は成田山新勝寺が引き受けることになった。
復興祈願をし、9月に犠牲者の供養をするときに、護摩として焚き上げるという。
あたたかな申し出である。仏教徒としてとてもいい判断をしたと思う。
よくやった、成田山と拍手を送りたい。

京都市や五山送り火の関係者を、古いとか、不寛容であるとか批判するのは簡単であるが、京都は京都で東北の人のことを考えた結果である。

今回、いちばんはじめに陸前高田の松を五山の送り火の薪に使うのを反対したのは、インターネットを使った無記名の人たちによるものだった。無記名という形で顔を隠していると、人とのつながりは関係ない。だから、何かあると、たやすくなだれのようにバッシングに走る。

人は、同時代を生きている人たちとの横のつながりだけでなく、親や子、孫というと縦のつながりのなかで生きている。
そのつながりを実感するはずの五山の送り火であったのに、一部の無記名の批判が暴走したのはなんとも残念だ。

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