チェルノブイリ訪問記①
ウクライナのキエフの郊外にある、被災者の町を訪問した。
デスニアンスキー地区にある町である。
1986年4月26日、チェルノブイリ原発が爆発し、その年の8月、被災者をこの地に受け入れた。
4号炉が事故を起こした後、当時の政府は1号炉、2号炉、3号炉を稼働させた。
プリピャチにいた原発労働者らは、この町に住むことになった。
原発で2週間働き、100キロほど離れたキエフで2週間、休むという変則勤務制をとった。
そうすることで被曝量を軽減しながら、生活の保障をした。
被災者の町にある27年前につくれられたアパート群
被災者を支援する市民団体「ゼムリヤキ」の人たちと話すことができた。
彼らは、福島の人たちに同情している。
「原発事故から2年9か月たっても、まだ新しい住宅に住めていないのは精神的に大変だろう」と。
その通りである。
仮設住宅に住むのと、定住する住宅に住むのでは、まるで違う。
この町でも、アルコール依存症になった人や、数は少ないが、自殺をした人もいた。
ふるさとを失い、大好きだった家や家具を失った心の傷は深かったという。
それでも、被災した仲間の存在に、どれほど救われたか--。
このまちでの仲間との生活がなかったら、自分たちは乗り越えられなかったのではないだろうか、と話してくれた。
原発被災者を支援する団体ゼムリヤキの人たち
地域の健康づくり運動での経験からぼくは、健康で長生きの生活には、「生きがい」を持ち続けることと、「人と人とのつながり」が大事であると感じている。
被災者を救援する場合も、この2つは大事なポイントだと思う。
そのことを忘れて、お金で解決しようとしてもうまくいかない。
コンクリートの町さえできれば、町が復興すると思わないほうがいい。
ゼムリヤキの人々の話は、東日本の復興を考えるうえで大きなヒントになる。
キーワードは、「生きがい」と「人と人とのつながり」だ。
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