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2016年1月

2016年1月31日 (日)

鎌田實の一日一冊(268)

「ストーリーセラー アネックス」(新潮文庫)
「面白いお話、売ります。」というストーリーセラーシリーズの一冊。
6人の作家のアンソロジーだ。
ミステリーあり、恋愛小説ありで、上質な文藝雑誌を読んでいるような感覚だ。
恩田陸の「ジョン・ファウルズを探して」は、イギリス文学の巨人ファウルズを追っかけている。
ファウルズの作品で有名なのは、「コレクター」。
「フランス軍中尉の女」は、メリル・ストリーブ主演で映画化され、大ヒットした。

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イラクへ行くときの飛行機の中で読んだが、
まったく違うテイストの作品がつまっているので、旅に行くときなど、一緒に持ち歩くとなかなかいい。

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2016年1月30日 (土)

鎌田實の一日一冊(267)

「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか:“最後の弟子”森一久の被曝と原子力人生」(藤原章生著、新潮社)
日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した湯川博士。
その湯川博士の最後の弟子、森一久の原子力とかかわった人生を描いている。
森は、京大を卒業後、中央公論社に入社、科学ジャーナリズムの道を歩んだ。
9年間仕事をした後、日本原子力産業会議の職員になり、
96年からは原子力産業会議の副会長になる。
湯川博士から、内側から監視をしろといわれている。
しかし、内側から東電などにプレッシャーをかけるがなかなか聞いてもらえない。
東日本大震災のずっと前に、全電源喪失のリスクを避けるため、電力会社には3台の電源車を置くよう提言するが聞いてもらえなかった。
スマトラ沖地震の26mの津波にも着目して、電力会社に苦言を呈している。
結局、インサイダーとして、核の平和利用を夢見てきたが、夢破れ、原子力産業会議を辞める。
その後は、外側から日本の原子力産業に苦言を呈し続ける。

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森は、広島の原爆で家族を失くしている。
本人も被曝し、白血球は10分の一に減り、死線をさまよった。
時が経って、「湯川ともう一人の教授から、広島に原爆が落ちそうだと言われ、家族を疎開させ難を逃れた」と、京大の同窓生から話を聞く。
湯川博士はアメリカの広島原爆投下を知っていたのか?
この謎を解き明かしていく。
原爆投下の2~3か月前、アメリカではどの地点に投下すべきかを議論していた。
東京、博多、横浜などが候補地として上がるが、一番は広島だったようだ。
しかし、どんな事情があったにせよ、アメリカの会議の内容が日本の学者に知れることがあるのだろうか。
謎は謎のままである。
原子力の平和利用という言葉に騙され、日本では原子力産業が広がった。
そして、福島第一原発の事故。
なぜ湯川博士が原子力委員長を半年で辞任するのかもわかる。
日本がたどった原発事業の誤りが見えてくる本である。

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2016年1月29日 (金)

聴診器でテロと闘う(39)

難民キャンプ訪問記⑮
京都の有名な鞄やさんの一澤信三郎帆布。
イラクの難民キャンプにも、たくさんのリュックやバッグを寄付してくれた。
子どもたちは大喜び。

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白血病のナジラは、インドで骨髄移植し、今はJIM-NETが免疫抑制剤など薬と、
インドへ定期検診に行くときの交通費を支援している。

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白血病でシリアから脱出してきたローリンもリュックをもらってうれしそう。
そのほか、難民キャンプの子どもたちも、ひと目で気に入ったようだ。

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一澤信三郎さんは、東日本大震災のときにもたくさんの支援をしていただいた。
震災直後で、何も持たない人たちに、バッグを贈った。
買い物に行くときにも、体育館に避難しているときにも、大変役に立ったととても喜ばれた。
とかく支援物質というと、だいたい同じようなものになってしまいがちだが、
こういうおしゃれなもの、使いやすいものを届けると、受け取った人の心が少し、うきうきするのが伝わってくる。
「まだまだ応援する」と言ってくれている一澤信三郎さん。
ありがたいことである。

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2016年1月28日 (木)

鎌田健康塾(3)

アメリカの国立衛生研究所の一つである国立心肺血液研究所が、
血圧を120未満に下げると、心臓発作や脳卒中の発生率が3分に1に減り、死亡リスク全体は4分の1に下がったと発表した。
しかし、こんな研究にだまされてはいけない。
この研究の対象者は、BMIが30近い肥満で、心臓疾患を抱えている人たちである。
こういうもともとリスクを抱えている人たちは、血圧を低くコントロールすることにこしたことはないのは当たり前のことだ。
対象者を伝えず、だれでも「120未満に下げたほうがいい」という印象を与えることは、
製薬会社の思う壺になりかねない。
日本は、血圧の薬が多く売られている。
しかも、虚偽の科学的データを使い、べらぼうに利益を上げた薬もある。
こういう論文を使って、大儲けするというのは許せない。

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人間ドック学会のビッグデータでは、血圧147の人が元気であることがわかっている。
1980年代後半まで日本は160以上を高血圧の範囲としていた。
だいたいそのへんでいいのである。
長野県で健康づくり運動をしていたとき、ぼくたちはすぐに血圧の薬に頼らないようにした。
減塩運動とともに、カリウムの入っている野菜や海藻をたくさん食べるようすすめた。
そういう注意が大事なのである。
アメリカの国立研究所の発表なんていうと、いかにもすごそうだが、
内容をきちんと吟味したい。
アメリカでは「賢い健康運動」が始まっている。
薬に頼らないようにしようという運動であるが、これも長野県で健康づくり運動をしてきた立場からみれば、
40年遅れているのである。
アメリカの平均寿命は、日本より短い。
日本のほうがよっぽど賢い健康運動を行っているのである。

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2016年1月27日 (水)

ありがとう!チョコ募金完売

今季のチョコ募金は、ラジオ、新聞で取り上げられたこともあり、大反響。
あっという間に受付終了となりました。
感謝、感謝、感謝です。
今も申し込みがありますが、お断りしています。
バレンタインデーに、と考えていた方、チョコを楽しみにしていた方には大変申し訳なく思います。
                  ◇
2月12~17日、ギャラリ―日比谷で原画と写真「いのちの花展」と鎌田のミニ講演会があります。
会場にはわずかですが、チョコを残しております。
どうしてもチョコ募金をしたいという方は、ぜひお出でください。

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詳しくはJIM-NETのHPをご覧ください↓

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鎌田健康塾(2)

アメリカでは心筋梗塞や脳卒中が多いといわれている。
先進国の割に短命である。
そのアメリカでも減塩運動の波が起こり始めた。
ニューヨークで昨年12月から、全米に15店舗以上展開するチェーンレストランに対し、
2300㎎以上の塩分ナトリウムを含む場合、表示が義務付けられるようになった。
アメリカ初の試みだという。
映画館やスポーツ施設などでもゆるやかな基準が適応される。

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2300㎎つまり塩分2.3クラムは、一日3食食べると、約7グラムになる
(2300㎎のナトリウムは、食塩に換算すると5842㎎に相当する)
WHOは一日の6グラムの塩分を推奨しているから、一食だけで一日分に追いついてしまう。
日本では、和食が塩分が多いため9グラムが目標になっている。
しかし、沖縄を除き、10グラムをなかなか切れないのが現状だ。
アラブ食は割合、塩分量が多いので、鎌田は難民キャンプでも減塩運動を始めた。
それに対して、欧米では比較的塩分量は少なかった。
なのに、ニューヨークで減塩運動がはじまったというのはおもしろい。
ニューヨークだけで年間1万7000人が心臓病で死亡するという。
塩分摂取量と心臓病や脳卒中、胃がんは相関関係にあることがわかっている。
ニューヨークではそのほか、禁煙や、ファストフード店でのカロリー表示を求めるなど、
健康に対する意識が高まっている。
減塩のコツは、だしのうまみや、酢、かんきつ類などで味にメリハリをつけること。
トウガラシなどはあまり血圧に影響しないので、活用したい。
まずは今日から、減塩を!
                    ◇
訂正とおわび
「ナトリウム」と「塩分」の表記を混同してしまいました。
両者の違いと、読者の方からご指摘いただいた経緯については、2/2の「鎌田健康塾」で解説しておりますので、そちらをお読みください。
高血圧や心不全に悩んでいる方には混乱を与え、申し訳ありませんでした。

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2016年1月26日 (火)

鎌田健康塾(1)

寒い時期に多い「ヒートショック」。
急激な温度変化で血圧が変動することで、脳梗塞や心筋梗塞などが起き、命が危険にさらさられる。
年間1万7000人が浴室で亡くなっている。
東京都健康長寿医療センターの調べで、65歳以上の入浴中の心肺機能停止者の月別数を見ると、
圧倒的に多いのが12月と1月。
今まさに注意すべきなのだ。

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寒い脱衣所で裸になり、さらに寒い浴室に入る。
そして、熱めの湯の中へ。
そのとき、急激に体が温まり、血圧は一気に下がる。
意識障害が起こり、浴槽内でおぼれたり、転倒したする。
血圧は上がるときだけでなく、下がるときも要注意。
つまり、血圧の変動が問題なのである。
1万7000人のうちの3000人は高齢者以外なので、若い人もヒートショックに注意したい。
対策は、脱衣所、浴室を温めること。
湯を張るとき、シャワーなど高い位置から湯を入れると、浴室の温度が上がる。
湯の温度は40度がいいが、それでは寒いという人は、できるだけ42度にはしないで、41度くらいに。
言うまでもないが、お酒を飲んだ後、すぐに入浴するのは避けよう。

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2016年1月25日 (月)

鎌田實の一日一冊(266)

「バカボンのパパよりバカなパパ」(赤塚りえ子著、幻冬舎文庫)
「おそ松くん」や「天才バカボン」で一世を風靡した天才赤塚不二夫。
娘のりえ子さんが、赤裸々に父を描いている。
とにかくすごい男だ。
人をよろこばせたり、笑わせることに命がけ。
裸もけがも辞さない。
雪のなかで、お尻に入れた蝋燭に火をつけ、真っ裸で動物の真似をする。

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女の人を見れば、ホテルへ行こうと言うのが彼の「マナー」だったという。
あの手塚治虫の娘も誘ったとか。
なんでもありの人間。
勇気があればどんな生き方もできる。
しかも、楽しく。
この本を読んでいると元気が出る。
700万円で、銀座のバーを一晩借切り、忘年会用の芝居を命がけでした。
とにかくくだらないことに、徹底的にエネルギーを注いだ。
酒を飲んでいるうちに仲良くなったホームレスを家につれてきて、
メシを食わせ、風呂に入れたという。
何度もお金で騙されているが、全然へこたれない。
お金が、ある人からない人へ移動しただけだから、それでいいんだ、という哲学者でもあった。
めちゃくちゃ面白い。

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2016年1月24日 (日)

鎌田劇場へようこそ!(253)

「ヴィオレット ある作家の肖像」
女性として初めて生と性を赤裸々に書いた作家ヴィオレット・ルデュックの物語である。
ボーボワールやジャン・コクトー、ジャン・ジュネなども出てくる。
ヴィオレットの孤独は絶望的に大きかった。
「母は私の手を握らなかった」愛されることのなかった子ども時代、その後、
人生のほとんどの時間に愛を求め続けた。
愛を求め続ける苦しみを書くことが、生きることにつながっていく。

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ボーボワールはヴィオレットの作品のなかに光を感じ、応援する。
代表作「私生児」は、レンガ職人と恋におち、肉体関係を冷徹に記録する。
私生児として生まれてきたことをあらわにしながら、自分の傷を書いていった。
この作品を、ボーボワールはラジオ番組でこう評す。
「運命は自由によって克服できることを彼女は示しました。
それは文学によるもっとも美しい救済です」
ヴィオレットは文学の革命家。
女流作家がやらなかったことを勇敢にやりきった。

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2016年1月23日 (土)

聴診器でテロと闘う(38)

難民キャンプ訪問記⑭
ダルシャクランの難民キャンプで、年配の男性に話を聞いた。
これまでどんな苦労をしてきたのだうろか。
いかにもクルディッシュ、歴史が刻まれたような風貌である。
男性は言う。
「おれたちはヨーロッパなんか行かない。
ここで生きるしかなんだ。ここの生活は大変だぞ」
以前は国連から砂糖と油と小麦が支給された。
その後、一人3000円近くの補償金が出て、市場で好きなものが買えるようになった。
クーポン券と引き換えに、野菜も買えれば肉も買える。
しかし、クーポンが使える店は値段が倍近く高い。
どこで買ってもいいことにしてくれれば、もっと安く、いろんなものが買えるのに。

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「おれたちは不満だ」と、上層部に行ってくれと、訴えた。
生活の小さな不安も、心に大きくのしかかっているよう。
「シリアにも帰れない。イラクでも大切にされていない。どう生きていったらいいんだ」
最後、男性はぼくにハグし、ほおずりをして、
「おれたちの気持ちを世界に伝えてくれ」と言った。
JIM-NETのスタッフである看護師のリームにも話を聞いた。
シリアのダマスカスから逃げてきたときは、しかたなく仕事をしていた様子だったが、
今はとても明るくなった。
そして、優秀である。
このダラシャクランの難民キャンプでヨーロッパへ行った人はどれくらいいるのか聞いた。
「1800家族のうちの300家族がこの半年ですでに出た。
春になれば、おそらく400家族がヨーロッパを目指すのではないか」と答えが返ってきた。
リーム、君は行かないのか、と聞くと、
「私はここが好きだから行かない。
クルドのために私はここで働く。
シリアに帰れるようになったら、ダマスカスに帰る。
それまでは文句を言わず、ここで自分の看護婦の仕事をしっかりやりなから、
クルドを助けようと思う」
自分の役割を知って、彼女はとても強くなった。

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この時期、火災が多い。
寒いため、テント内で煮炊きのコンロを燃やすためだ。
家事でやけどをした家族の診察をした。
子どもは全身やけどで、手首が拘縮している。
手術をして、可動域を広げてあげなければ、右手としての機能が果たせなくなる。
腹部など機能のないところはあきらめたほうがいいかもしれない。
植皮をするのは難しいかもしれない。
父親は右ひざ関節がやけどのために拘縮。
これも手術が必要だろう。
ドホークに火傷の専門病院がある。
治療費は無料だが、そこに行く交通費がないという。
JIM-NETが交通費を出すことにした。
ほんの少しの応援があると、病気やけがにめげず、前を向くことができる。
ほんの少しなんだ。
ほんの少し愛の手を差し伸べていくことが大事だ。

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難民の支援は、国として受け入れることばかりではない。
難民がその場で生きていけるようにすることも、大切な支援だと思う。
そして、後者の方法を丁寧に行っていくことが日本に求められていることなのではないかと思う。

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2016年1月22日 (金)

聴診器でテロと闘う(37)

難民キャンプ訪問記⑬
講演する前、朝ご飯も食べられないスタッフがいたので、
シュワルマ屋で朝食をとることにした。
たくさんの野菜と、鶏か羊をはさんで巻いて食べるファストフードである。
ハンバーガーよりずっとうまい。
今、多くの難民がヨーロッパに向かっているが、どう思っているのか、
シュワルマを食べながら、周囲の人たちに聞いた。
買い物に来たという、この難民キャンプの近所に住んでいるというイラク人青年。
君はヨーロッパに行くのかと聞いたら、
「自分は行かない。このイラクが好き。いま混沌として命も危ないが、ここでなんとか頑張ってみる」という。
シュワルマ屋のおやじは、シリアから逃げてきた。
もともと食料品店をやっていた。
生きてくために、この店を月300ドルで借りた。
テナント料を払うのが大変だが、何にもしないわけにはいかない。
一か八かだという。
「ヨーロッパは行きたいけれど無理だな。金がない」
旅費は、一人3000ドル、日本円で30万円といわれる。
「海を渡っていくなんて、おれの年で、こんな太っちゃったら考えにくいもんな。
ヨーロッパへ行くのがすべてじゃない。
おれはシリアが平和になることを考えている。
早くアサドがいなくなるといい。
アサドがいなくなれば、話し合いが始まる。
そして、みんなが力を合わせてISを抑え込むんだ。
そうしたらシリアに帰れる」
理路整然としている。

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夜、アルビルのダウンタウンへ行った。
蕪のスープの屋台が並ぶが、鎌田屋台の参考にしたいと思ったのだ。
スープを二つ頼んだ。
うまい。
ちょっと甘い味がするのは、ナツメヤシの味だ。
蕪は少し苦みがあり、和辛子があれば、まるでおでんの大根だ。
店番をやっている若い青年に、どこから来たか聞いた。
「ラマディだ」
ラマディは、2、3日前、ISを制圧でき市庁舎に政府軍の旗が立った。
これからどうするんだ、と聞くと、
「2週間以内くらいに帰りたいと思う」というが、内心複雑なものを抱えていた。
「おれたちはみんなスンニ派。ISはスンニ派なので、おれたちはISの味方のように思われている。
どこへ逃げてもいじめられる。おれたちは悪くないのに、ISのためにいじめられるんだ。
ラマディにいてもISに脅かされる。
アルビルに逃げて来ても、おまえらISの仲間じゃないかと言われ、いたたまれない」

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2016年1月21日 (木)

聴診器でテロと闘う(36)

悲しい知らせが入った。
1月15日、ナブラスが亡くなったという。
14歳だった。
今年のチョコ募金のポインセチアの絵を描いた女の子である。
シンジャールに暮らすヤジディ教徒で、ISに大変な迫害を受け、すべてを奪われた。
ドホーク近郊の名民キャンプに逃げてきた。
ふきさらしの風が入る建設中の住居にキャンプし、闘病していた。
食事も足りなかった。

27dsc04543 14歳のナブラス「早くシンジャールに帰りたい」という夢はかなわなかった

一年前の時点で、主治医からは「絶望的」と言われていた。
日本から抗がん剤を持っていき、主治医のいるドホークの病院に届けた。
それから一年、よくもったと思う。
2週間前、ぼくが訪問したときは厳しい状態だった。
それでもみんなでいいことが起こることに期待しようと話した。
ぼくが帰るとき、ナブラスはにこにこして
ISがいなくなったのなら、シンジャールに帰りたいと言った。
ナブラスの思いはかなわなかったが、早く平和な世の中にしたい。
             ◇
チョコ募金はあと2万5000個。
終盤に入ったが、ここからあまり動きがない。
完売を目指して、応援をお願いいたします。

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2016年1月20日 (水)

聴診器でテロと闘う(35)

難民キャンプ訪問記⑫

講演では、とにかくよく笑わそうと心がけている。
笑って元気になってもらいたいのだ。
そして、わかりやすく。
健康のために「野菜を食べよう」「減塩しよう」そして、「歩くこと」をすすめた。
キャンプ生活は、単調だ。
テントのなかで、ごろごろと過ごしてしまう人が多いが、これは生活不活発病などの原因になる。
まず、テントから出ることが大切だ。
15分、自分の健康を考えながら歩こう。
次は、家族や友人の健康を考えよう。
そして、自分の命もみんなの命も、宗派や民族が違う人たちの命も大切なんだと考えよう。
いつか平和がやってくる。

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健康、農業、命、平和はつながっている。
ていねいに大切なことをやればいいんだ。
農業をやってみたい人は、鎌田農場のスタッフとして働く方法もある。
そして、命、平和へとみんなでつなげていくのだ。
行動変容が大事だという話をした。
一度身に着けてしまった行動はなかなか変わらない。
「ブロッコリーなんて食べたことがないから食べない」というが、
その生活習慣を変えてみるんだ。
一つでも変われば、いつか大きな変化になる。
最初はわずかな変化でも、いつか自分の生き方、人生観、国の在り方が変わっていく。
そう話すと、みんながおう、おう、おう、とうなづいてくれた。
昨年は「ロゼット伝説」の話をして好評だった。
あいさつをする町、困っている人を助け合う町では、血管がつまる病気が少ないと話した。
この難民キャンプでも、あいさつしよう、困っている人を助け合おう。
みんなで目標をもとう。元気にシリアに帰ろう。
またもや、会場がおう、おう、おうとうなづく。
質問があった。
歩くこと以外に、いい健康法はないか、という。
日本のラジオ体操を教えた。
会場はなぜか、大笑い。
アラブの人はみんな一斉に同じ動きをする体操というのをしたことがないのだ。
こういうのは、あまり好きではないらしい。
でも、大笑いしながらも、みんなでラジオ体操をやってみると、会場は熱気と笑いがあふれた。

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2016年1月19日 (火)

聴診器でテロと闘う(34)

難民キャンプ訪問記⑪
講演の日、雨にもかかわらず、たくさんの人が集まりだした。
難民キャンプでの講演会は昨年も行ったが、今回も楽しみに待っていてくれた。
しかし、言葉は大変だ。
ぼくが日本語で話す。
それをJCFのスタッフの加藤君がアラビア語に訳す。
そのアラビア語を、JCFスタッフでシリアから逃げてきた看護師リームがクルド語に訳す。
多くの聴衆はクルド語しかわからない。
この難民キャンプの責任者もJIM-NETが好きみたいで、何かというと応援してくれる。
ありがたいことである。
JICAの林さんや専門職員の佐久間さんも来てくれて、自分たちが指導してつくったブロッコリーを食べてもらい、とてもうれしそうである。

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連携していくと大きなパワーが生まれる。
日本人の組織は縦割りで、おれが、おれが、と自分の活動に固執しがちだが、
ネットワークを張って緩やかな連携をつくり、現地の人を巻き込んでいくことが大切である。
難民キャンプのなかにも、鎌田農園ができ始めた。
難民のなかに、屋台をつくる専門の職人がいることもわかった。
すでに一台作ってくれたが、もっとおれに働かせてくれという。
これから農園を拡大し、そこで収穫した野菜を材料にして、屋台で売る。
そのためにも、鎌田基金への寄付を呼び掛けていきたいと思う。

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2016年1月18日 (月)

聴診器でテロと闘う(33)

難民キャンプ訪問記⑩
農園に行った。
指導役は日本のJICA(国際協力機構)。
JICAからは林さんという方が来られ、全体のマネージメントをしている。
専門家は佐久間さん。東南アジアでも指導してきたベテランである。
ハウスでブロッコリーをつくっているというので、おもしろいと思って見させてもらった。
かつてアメリカで健康運動の潮流ができたとき、ブロッコリーを食べようという運動があった。
ブロッコリーはビタミンA、B、Cなどが豊富である。
特にビタミンCはレモンの2倍。
抗酸化力が高いため、がんにもなりにくく、動脈硬化もおこしにくくなり、脳卒中のリスクも減るといわれる。
ハウスでは、日本の技術指導で、すばらしいブロッコリーができていた。
そのブロッコリーを市価の半分くらいで買わせてもらった。
市価に出しても買いたたかれるので、買ってもらえるとうれしいと言われた。

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偶然、クルド人のバルザンという青年が見学にきていた。
バルザンは農業のかたわら、社会福祉の勉強をしている。
福祉活動、社会貢献をしたいといい、JIM-NETにも興味をもっていると話した。
彼と話しているうちに、彼の農園に難民キャンプの人たちを雇うのはどうか、
農作物を育てるには人手がいるし、難民の人たちの雇用にもつながる、という話で盛り上がった。
ブロッコリーは、まだイラクでは一般的ではない。
輸入野菜で高価だ。
そこで、農園で収穫したおいしいブロッコリーを、鎌田の講演会に持って行こうという話になった。
ブロッコリーの栄養の話をし、ブロッコリーを食べてもらおうという作戦に出たのだ。
イラク北部にあるダラシャクランの難民キャンプのおばさん2人が手伝いに来てくれた。

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講演会でブロッコリーを見せると、次々に質問がでた。
「料理法はどうするんだ」
簡単な方法は、ゆでて塩かマヨネーズで、と言うと、
「先生は前回来たときに、塩はよくないと言ったじゃないか」
そうだ。よく覚えている。
じゃ、マヨネーズにしようと笑った。
今回は、トマト味のブロッコリーが入ったスープ。
それに、ブロッコリーのピザを出した。
ピザは、パレスチナで難民の救援活動をしているUNRWAの清田先生から教えてもらったレシピである。
夏には、清田先生が難民キャンプでの鎌田の健康づくり運動を見に来てくれることになった。
いよいよおもしろくなった。

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2016年1月17日 (日)

聴診器でテロと闘う(32)

難民キャンプ訪問記⑨
新年を迎えた難民キャンプの天気は大雨。
翌日の天気予報は、雪だ。
砂漠の赤土がぬかるんで、歩くに歩けない状態だ。
大雨のなか、アークレイの難民キャンプでフール(ソラマメの煮もの)の屋台を決行することになった。
こんな大雨でだれも外には出て来ないだろうと思っていたら、
来るわ、来るわ、子どもたちがあふれるほど駆けてきた。
子どもは退屈なんだ。
何かおもしろそうなことがあると、雨になんか負けない。
競争のようにしてやってくる。
続いて大人たちも、屋台をなつかしそうにやってくる。
みんなうれしそうだ。
あっという間に、大量に用意した豆が売り切れていく。
それでも、まだまだ子どもたちがやってくる。
違う種類の豆もきれいになくなった。

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白血病のローリンは、お父さんを助けて、大騒ぎしている子どもたちを並べ、平等に豆を配っている。
小さな子どもは少し優先したりするのは、ローリンの優しさだ。
病気をして苦労しているから、人にも優しいのだろう。
いかつい顔の父親も、並べ、並べと怒鳴りながら、うれしそうだ。
仕事ややりがい、生きがいがあるということは、どんな状況になっても支えになる。

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フールをもらいに来てくれた男性が声をかけてきた。
「1月1日にこんなあたたかなイベントをやってくれてうれしい。
日本人はさすがだ。
こんなに子どもたちが喜んでいるのは久しぶりだ。
おれたちは雨にもISにも負けない。
ハッピー・ニュー・イヤー」
なんだか目頭が熱くなった。
うれしかった。
自分の正月をなしにして、難民キャンプを歩いている。
それでもこんなことを言われるとうれしくなるのだ。
                 ◇
屋台が終わった後、ローリンの父親が一緒に夕飯を食べていけという。
貧乏で生活が苦しいのに、この父親はいつもそうだ。

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2016年1月16日 (土)

聴診器でテロと闘う(31)

難民キャンプ訪問記⑧
ローリンの父親は、電気技師だった。
イラクに来てからは日雇いの仕事をしているが、なかなか仕事はない。
そこで、夏、難民キャンプ内でかき氷屋さんの業務を委託した。
暑いキャンプで、かき氷は大好評。
彼は、一躍有名人になった。
みんなローリンが病気であることを知っている。
そのローリンを日本人たちが助けていることも知っている。
その父親が、娘の病気を心配して、元気がないことも知っている。
その父親が、明るさを取り戻した。
人間が生きるために、働くことと愛する人がいることはとても大事なことだ。
JIM-NETのスタッフが冬場でも喜ばれるような仕事はないだろうか、と考えた。
アルビルのダウンタウンでは、夜になるとシャルガモという蕪のスープの屋台が出る。
アラブ風のおでんのようなものである。
この屋台をやろうということになった。
まずは、どうやって屋台をつくるか。
スタッフがどうしたら屋台をつくれるか聞いてあるいた。
おれたちはただ雇われているだけだから、どうやって作っているかわからないという答えが返ってきた。
どうやら、屋台の経営者がいるらしい。
ならば、鎌田が経営者になろうということになった。
いずれは、屋台を10台くらいもち、難民の人たちにやってもらう。
そこで売るものは、農園でつくろうという計画も広がった。

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少し前に屋台の1号ができた。
ぼくたちがお金を出し、週一回、キャンプ内で屋台を開く。
何を出すかということになったとき、ローリンの父親が「おれたちシリア人は蕪スープはあまり好きではない」と言い出した。
何が好きなんだと聞くと、
「フール」ソラマメの煮ものだという。
では、好きなものをやってみようという話になった。
キャンプで屋台を開く日以外は、外で屋台を使って商売をしていいことにした。
父親は毎日、難民キャンプの近所でフールの屋台を出している。
だが、屋台が重くて遠くまで行けない。
ガスボンベも積んでいるので、かなりの重さがあるうえに、坂が多いのだ。
もっと売れそうなところまで行きたいのだが、
まだ赤字で、ぼくたちの出すサラリーで補てんしているという。
それでも、仕事がないよりずっといい。
多くのお客さんに知ってもらったら、いずれは赤字も解消できるだろうと希望をもっている。

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2016年1月15日 (金)

聴診器でテロと闘う(30)

難民キャンプ訪問記⑦
15歳のローリンは、白血病だ。
シリアの首都ダマスカスで白血病の治療を受けていた。
ダマスカスには二度ほど行ったことがあるが、本当に美しい古都である。
そのダマスカスで戦闘が激しくなり、2013年夏に国境を越えて、イラクにやってきた。
今は、元軍事施設がキャンプになっているアークレイ難民キャンプで暮らしている。

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このキャンプはいま1250人が暮らしている。
一時は2000人近くいたが、40%の人たちがヨーロッパへ脱出したという。
いま残っている人たちに話を聞くと、
「おれたちはクルド人だ。ヨーロッパに行くよりも、クルド人のいるところにいたい」という。
「イラクのクルド政府はよくやってくれている。
他の仲間はテント生活をしている。
ここは元軍事施設で、十分とはいえないがら、他の難民キャンプに比べれば数段いい。
クルドの仲間のなかでおれたちは生活したい。
だから、ヨーロッパにはいかないんだ」
                      ◇
ローリンは、2015年2月に腸炎を起こして生死をさまよった。
そのとき、虫垂炎も疑われたため手術したが、実際は虫垂炎ではなかった。
大腸ファイバーの写真をみせてもらったが、潰瘍性大腸炎やクローン病などもない。
もちろん大腸がんもない。
今もちょっとおなかが痛いときがあるという。
手術跡の癒着が起きているのだろうか。
「できるだけニコニコしていなくちゃいけない」と笑わせたら、
15歳の少女が恥ずかしそうに笑った。
「しっかり勉強したい。お父さんの手伝いもしたい。妹や弟の面倒もみたい」
とてもいい子だ。

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2016年1月14日 (木)

聴診器でテロと闘う(29)

難民キャンプ訪問記⑥
アルビルから1時間ほどの農業地帯。
16歳になったナジラを訪ねた。
ナジラの父親は農業をしている。
1月1日、親戚一同が集まっていた。
京都の一澤信三郎さんから難民キャンプの子どもたちにプレゼントしてほしいといわれ、
信三郎さんのリュックを手渡すと、ナジラはとても喜んだ。

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ナジラは急性リンパ性白血病で2005年から治療。
ぼくたちが支援するアルビルのナナカリ病院で、ぼくたちが届けた薬で治療を受けていた。
主治医は、JIM-NETのカウンターパートナー、ペイマス医師。
ペイマス先生のことが大好きだというナジラ。
治療は順調に進んだ。
2010年、イタリアのNGOの勧めでイタリアの病院に行ったが、
リンパ性白血病の治療はうまくいっている、と言われた。
しかし、2013年再発。
骨髄移植しかないだろうということになった。
インドの病院では弟の末梢血幹細胞を使って、幹細胞移植をすることになった。
末梢血幹細胞移植は、20年ほど前、ベラルーシ共和国ゴメリ州立病院で小池教授を中心に、骨髄移植の初歩として指導したことがあった。
ナジラはこの治療でうまくいった。
その後、年に一度、インドでフォローアップをする必要があり、
インドへの交通費や入院費を支援することになった。
ペイマス先生からのSOSにこたえて、高額な免疫抑制剤などを使用するときには、その薬代だけ支援することもあった。
彼女の夢は、学校へ戻ること、そして勉強したいという。
再発してからまだ学校に行く許可が出ていない。
「いつか絵の勉強したい」といい、描きかけの絵をたくさん見せてくれた。
ナジラが描いた水仙の絵は、今年のチョコ募金の缶の一つとして使わせてもらった。
北海道のボランティアの方が、シャツにこの水仙の絵をそのまま刺繍してプレゼントしてくれた。

151110img_6769 ナジラの水仙の絵がプリントされたチョコ缶

ナジラのもう一つの夢は、大好きなイラクが平和になること。
彼女はクルド人。
クルドは世界に5000万人いるといわれるが、どこにも彼らの国はない。
つらい生活をしている人たちが多い。
「クルドの人たちに平和が来るように。
私のように病気の子がいたら、ちゃんと治療ができますように」
それが彼女の夢だという。

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2016年1月13日 (水)

聴診器でテロと闘う(28)

難民キャンプ訪問記⑤
多くの人たちがヨーロッパへ向かっている。
キリスト教徒やヤジディ教徒の人たちは、いまのシリアやイラクでは安心して生活できない。
JCFが支援しているアルビルにある3つのPHC(プライマリ・ヘルスケア・クリニック)のカウンターパートナーのナガム先生は、
フィアンセのいるイギリスへ出ることになった。
リカア先生の弟はカナダへ出た。
異なる宗教に対して寛容さがないところで生活するのはとても怖いことなのだ。

4 ヤジディ教徒のキャンプで、一緒に支援してきたハナーンさん(中央)

10年間通訳をしてくれていた青年もスウェーデンに脱出した。
彼はパレスチナ人で、イランで迫害を受けてイラクへ逃げてきたが、
そこで戦争に巻き込まれた。
4年間、国境と国境の間にあるノーマンズランドの難民キャンプで生活した。
その後、アルビルの難民キャンプに移され、少し自由を得ることができたが、
やっと今スウェーデンに入ることができた。
ダラシャクランのキャンプにシリアから逃げてきて、英語とクルド語の通訳をしてくれている20歳の青年は、大学でエンジニアの勉強をしたいという夢をもっている。
だが、いまはそれどころではない。
彼の兄弟4人と母親はドイツへ逃げた。
父親と彼だけが残って難民キャンプで生活している。
寂しくてしょうがないという。
それでも屈託のない笑顔で、「コンニチハ」「ゲンキ」「オイシイ」と覚えたての日本語で話しかけてくる。
こういう若者が夢をもてるようにしなければならないと思う。
ドホーク地区で、ぼくたちをサポートしてくれているヤジディ教徒のハナーンさんという女性も、ギリシャに脱出した。
志が高く、あたたかい心をもち、マネジメント能力が高い人たちがシリアやイラクから脱出している。
しかたないことだと思う。
それぞれの人生だ。
とにかく生き延びることを最優先にせざるを得なくなっている。

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2016年1月12日 (火)

医療があぶない(1)

化血研に110日間の業務停止命令が出された。
期間は過去最長で、一見、厳しい処分のように見えるが、実際は大甘である。
全製品の8割近くが対象外になっている。
たしかに、代替のきかない製剤があり、患者が困らないように、とする理由はわかる。
しかし、4種混合ワクチンなど、シェアは64%だが、他企業でもつくっているものもある。

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化血研は、40年近くも不正を隠ぺいしてきた。
血友病患者にHIV感染が明らかになった薬害エイズ事件では、化血研も加害企業の一つだった。
二度と繰り返さないと約束したはずなのに、その後も粛々と隠ぺいを続けていたことになる。
40年間も隠ぺいを見抜けなかった厚生労働省にも問題がある。
厚生労働省の天下りがないか、調べたほうがいい。
国内メーカーは、血液製剤で3社、ワクチンで5社、寡頭競争にならないように、
国の保護を受けているような状況である。
とんでもないことだ。
自由競争のなかで透明性を高めなければ、安全性の高い、安い製剤を供給することはできない。
透明性を高く、監視の行き届いた体制をつくることが急務である。

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2016年1月11日 (月)

聴診器でテロと闘う(27)

難民キャンプ訪問記④
シンジャール山の頂上にある診療所を訪ねた。
女性が軍服を着て、手際よく患者さんたちの手当をしてた。
シリア人の36歳の看護師だという。
シリアでISに追われ、ぼくたちが支援をしているアルビルのダラシャクラン難民キャンプへ、逃げてきた。
そこで、医療スタッフを探していると言われ、ハンケの難民キャンプに入ったが、
2014年8月、シンジャールでISの攻撃に遭い、ひどい目にあった。

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Dsc_0374 軍服の看護師

この診療所で働いているのは、シンジャールは危険だがボランティアの募集があったため。
自分はヤジディ教徒ではないが、同じクルド人として、人を助けたいと思ったという。
ペシュメルガの軍服を着て、ヘリコプターでシンジャール山の診療所にやってきた。
なぜ、白衣を着ないのか。
彼女は、「自分も、残虐な行為をするISと闘っているつもりだ。
だから、白衣ではなく軍服を着て仕事をしている」と言った。
そして、子どもたちがたくさんいるキャンプを案内する、そこを支援してほしいと訴えた。

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2016年1月10日 (日)

聴診器でテロと闘う(26)

難民キャンプ訪問記③
ドホークからシンジャールに向かう途中、ラピアを通った。
ラピアもISに完全に破壊されていた。
その破壊された町を、子どもを連れた羊飼いが羊に残っている草を食べさていた。

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02img_0445 破壊された町で、羊と子どもを連れた男性

羊飼いに声をかけた。
「ISはこわかった。町を全部壊し、ヤジディ教徒を殺し、若い女性たちを連れて行った」
あまりにも残虐な行為を見て、人々は山へ逃げるしかなかった。
その山にいまも1万7000人がテントで生活をしている。
そこへ、法律家として市で働いている保健省のスレイマンさんと、
ペシュメルガの軍隊を退役したムスタファさんがカラシニコフ銃と拳銃をもってぼくたちを護衛するように着いてきてくれた。
                     ◇
クルド自治政府の意向でミルクとおむつ、女性の生理用品を難民キャンプに届けてほしいということで、トラックを一杯にして持って行った。
物資を配った後、難民キャンプの生活をみ見せてもらったが、冬のテント生活は特に厳しい。
ISがまだ町の外側にいる可能性があり、自分の町にはこわくて帰れないという。

10dsc04487 ミルクやおむつ、生理用品などの物資を届けた

「ISはイスラム教徒ではない。
単なる犯罪者だ。
おれたちの生活をすべて奪った。おれのうちはまだ焼かれないだけいい。
話によると、おれのうちのものはすべて空っぽになったと聞く。
なぜ、おれたちヤジディ教徒はこんなひどい仕打ちをうけなくちゃいけないのだ」
ヤジディ教徒の若者のなかには、ペシュメルガに入り、ISと闘う者も出てきたそうだ。

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2016年1月 9日 (土)

聴診器でテロと闘う(25)

難民キャンプ訪問記②
ナブラスに会った前日、シンジャールに初めて入った。
2014年8月、ヤジディ教徒が過激派組織ISに襲われた。
遺体が埋められているところは、40か所。
5000人が殺害されたといわれている。
ハーグの人権裁判所に訴えようと、ISの残虐行為を書きとめているところだという。
5000人が拉致され、ISの戦闘員の監視の目をかいくぐって2000人近くが逃げたが、
今も3000人近くが拉致されているのではないかといわれている。

04img_0642 シンジャール山に逃げたヤジディ教徒の一家

2015年12月初め、ペシュメルガがISをシンジャールから追いだした。
シンジャールにはまだ人が住んではいないが、
周囲の小さな町や村には人が戻り始めている。

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2016年1月 8日 (金)

聴診器でテロと闘う(24)

難民キャンプ訪問記①

危険なシンジャールから帰った後、ドホークに泊まり、
ユーイング肉腫で治療中のナブラス(14歳)を訪ねた。
チョコ募金のチョコレートの缶に、オレンジ色のポインセチアを描いてくれた女の子だ。
以前と比べものにならないくらい、状態は悪化している。

27dsc04543_2 ユーイング肉腫を患うナブラスと再会

彼女は、ヤジディ教徒で、シンジャールに住んでいた。
2014年8月3日、ISの襲撃が始まり、彼女も命からがら逃げてきた。
いまは建てかけの、隙間だらけの家で、貧しい生活している。

ちょうど1年前の1月に、彼女を訪ねたときのこと。
この一家は生活が苦しいので、診察の前に炊き出しをしようということになった。
ドホークの食堂のオヤジさんが、喜捨の心で、一族全員で宴会ができるほどの、大ごちそうを用意してくれた。
肉料理や魚料理、スープが並んだ。
魚料理は、魚が好きというナブラスのために作ってくれたのだ。

1img_9770_2 一年前、炊き出しの料理をみんなでいただく(鎌田の右隣がナブラス)

2img_9806 ポインセチアの絵をかくナブラス

2014年7月に病気が見つかり、治療したものの腫瘍は増大傾向にあった。
今回も主治医と連絡を取り合ったが、
CT画像で見るかぎり、腹部から広がった巨大な腫瘍は片側の胸部を突き抜けている。
反対側の胸部にも7か所転移がある。
ナブラスの手を取って、
「もう一回、元気になろう」「必ず元気になれる」と励ました。
彼女は、「もう一回、勉強したい」という。
父親が、「この子は勉強ができる子だ」と横からつけ加えた。

――君がいたシンジャールに昨日行ってきたよ。
今、ISはシンジャールからいなくなった。
ペシュメルガが追い出した。
君の町に、ISがいなくったんだ。
病気さえ治れば、シンジャールの学校に帰れるぞ。
そう言うと、彼女は、にこっと笑った。

28img_0739 ナブラスを診察する鎌田

別室に家族を呼んで、CTを見せながら説明した。
首都バグダッドに連れていっても、日本へ連れていっても治す方法がない。
できるだけ明るく、彼女を支えてあげよう。
病気は厳しいけれど、病気には時々不思議なことが起こる。
少しよくなることもあるので、希望を捨てないように。
ドホークのドクターにはこの前、抗がん剤を届けたのでよく知っている。
よく診てもらえるように願いしておくから。
父親の手を握ると、屈強そうな父親が涙を流した。

ISに追われ、ふるさとから離れて、隙間だらけのコンクリートむき出しの家で、
やっと生きているナブラスをいとしいと思った。
                    ◇
年末年始、イラクの難民キャンプを訪ねた。
支援活動と難民の人たちとの交流を、「難民キャンプ訪問記」でこれから紹介していきたい。

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2016年1月 7日 (木)

遺作に誓う

諏訪中央病院の緩和ケア病棟で亡くなられた陶芸家の村越久子さん。
2人の娘さんに支えられながら、いつも穏やかな心で療養を続けていた。
緩和ケア病棟の家族会でお会いしたとき、
今も、穏やかでにこやかに過ごしたお母さんとの幸せな時間が、大切な思い出になっていると語っていた。

160105dsc_0388 陶芸家・村越久子さんの作品

村越さんは、武石(たけし)焼の雪しろ窯で多くの作品を残してきた。
その一つ、すてきな遺作をいただいた。
大切な命に接することができる仕事を、今年も丁寧に続けていきたいと思う。

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2016年1月 6日 (水)

鎌田劇場へようこそ!(252)

「ロイヤル・コンセルトヘボウ
オーケストラがやって来る」
ウイーン・フィルやベルリン・フィルとともに世界三大オーケストラといわれるロイヤル・コンセルトヘボウ。
125周年を記念して行ったワールドツアーのドキュメンタリー映画である。
すばらしい音楽が聞けるだけでなく、ドキュメンタリーなのにまるで物語のように進んでいく。
ドボルザークやシューベルトなどのクラシックだけでなく、タンゴなども演奏するがそれがまたいい。
コンサートの後、団員たちが居酒屋で話す内容がめちゃくちゃおもしろい。

Poster2_2

アフリカのツアーでは、子どもたちが誘拐やレイプなどが横行する現実に負けず、音楽をつづけているすごさが伝えられる。
その後で演奏されるショスタコービッチの交響曲10番と、マーラーの「復活」は、
音楽がどんなに人の人生を変える力をもつか伝わってくる。
すばらしい演奏は、まるで人類の物語を語るようだ。

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2016年1月 5日 (火)

鎌田劇場へようこそ!(251)

「黄金のアデーレ 名画の帰還」
実話である。
クリムトの代表作「アデーレの肖像」(通称「黄金のアデーレ」)は、だれでも一度は見たことがあるのではないか。
このモデルになったアデーレを叔母にもつ、二人の姉妹の物語である。

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「黄金のアデーレ」はナチス占領時代に奪われていたが、
時を経て、史上最高額ともいわれる156億円の値がついていた。
姉は、この名画を返還してもらおうと、オーストリア政府を訴える。
どうやってこの名画を取り戻せるか、裁判を描いている。
それはそれでおもしろい。
よくできた映画だ。
映画を見た人たちの多くが、「泣いた」とか「感動できた」と言っている。
しかし、この絵をずっと見ていると、モデルになった女性がどんな思いでクリムトのモデルになっていたのか、
どんな恋愛をし、若くして死んでいくのか、この女性の人生を描ききっていたら、
この絵の意味が見えてきて、もっとおもしろい映画になったと思う。

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2016年1月 4日 (月)

鎌田劇場へようこそ!(250)

「007 スペクター」
こういう映画はあまり見ないが、最近は社会の風を感じるために、こだわりなく見ている。
007シリーズは1962年に始まっているから、なんと53年前になる。
初代ジェームズ・ボンド役はショーン・コネリーだった。

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今作は24作目。
ダニエル・クレイグがかっこいい。
4作品に出たところで、ボンド役はもう終わりと言っているようだが、どうなるか。
「スペクター」はとにかくよく出来ている。
おもしろい。
悪の組織スペクターとボンドが闘うが、
ダニエル・クレイグが俊敏で理知的で残酷でクールで、ときにかわいい。
映画館は満員だった。

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2016年1月 3日 (日)

鎌田實の一日一冊(265)

「カフカ」(多和田葉子編、ポケットマスターピース集英社文庫)

新しい翻訳による文庫型の全集。
そのナンバーワンが「カフカ」だ。
これは集英社文庫だが、河出書房新社も新しい文学全集を出し、たいへん評判になっている。
各社が新しい視点で名作を復刊させてようとしている。

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多和田葉子さんの編によるカフカは非常に読みやすい。
「変身」などあっという間に読める。
翻訳者もそのことに気が付いたようだが、 主人公が虫になり不自由な生活をする物語は、家族から介護される物語にもみえる。
あるいは、引きこもりの若者か、家族のために必死に働いて、会社に搾取された一人の男がうつ病になっていくようにも読み取れる。
カフカの小説は奥が深く、どうにでも読めるところがとてもいい。
カフカ的ともいえる。
文学とはそういうものでいいのだと思うが、新訳によってさらにその感を強めているように思える。
実にいい本である。

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2016年1月 2日 (土)

今年もブログをよろしく

2016年は、どんな年になるだろうか。
時代の風を読みながら、新しい年が少しでもよい年になるよう、鎌田流にモノ語っていきたいと思っている。
2008年5月にスタートしたブログも今年で8年目。
今年は、できるだけ話題をシリーズ化し、連続的に展開していきたいと思う。
読書の感想を記した「鎌田實の一日一冊」、映画を紹介した「鎌田劇場へようこそ!」は、ともに200回以上続いているが、
今後も続けていく予定。
昨年末、「どうなる日本の介護」の一回目をスタートしたが、このシリーズでは超高齢社会の日本の課題である介護の問題について考えていきたい。
世の中のおかしいと思うことには、怒りをもって批判したいと思い、「カマタの怒り」シリーズもほぼ一年ぶりに再開した。
ライフワークである東北の被災地支援での話題は「東北支援」シリーズ、
ISに追われた難民たちの人道支援活動は「聴診器でテロと闘う」シリーズを継続して、活動の様子をご報告していく。
また、先の見えづらい経済や社会に目を凝らしながら、どうしたら成熟社会を構築できるのかを考えたり、
読者にも役立つ健康情報の紹介、日本の医療への提言なども載せていこうと思う。
時代は混沌として、信じるもの、頼るものは不確かではあるが、
ニヒリズムに陥らないように、一生懸命考えていきたい。
どうぞ、ご期待ください。

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2016年1月 1日 (金)

イラクの難民キャンプにて

あけましておめでとうございます!!

地球の営みはうまくできています。
365日すると必ず新しい年がやってきます。
いまぼくはイラクの難民キャンプ。
こちらのお正月は旧暦なので、年越しの花火が上がるくらいですが、
新しい年が来ると、絶望のなかでも気持ちが弾みます。
そして、今年こそ平和な年にしたいとみんな思うのです。
                     ◇
ぼくは39歳から55歳まで、病院の責任者をしていました。
ほかの医療機関が休みになるため、救急外来に患者が殺到します。
「諏訪中央病院は患者を断らない」ということで、遠くからも患者さんがやってきました。
多い年には300人も。
救急担当の医師は当時4人、それにぼくが手伝いに入りますが、現場は野戦病院のようでした。
その間を縫って、ぼくは病院のスタッフをねぎらい、患者さんたちに声をかけて歩きました。
集中治療室の患者さんたちにも手を握ってあるきます。
隣接する老人保健施設にも顔を出します。
施設には、家に帰らない利用者も多く、
少しでも正月気分を出そうとスタッフが和服を着たり、こたつで鍋をしたり・・・と工夫をこらしました。
「おめでとう」と言い合っていると、「今年こそ歩けるようになって、日帰り温泉に行きたいな」などと、目標や希望が口をついてでます。
緩和ケア病棟の末期がんの患者さんたちにも手を握って歩きました。
「もう一度家に帰りたい」「買い物に行きたい」「うなぎを食べに行きたい」など、やはりいろんな声が出ました。
夜は病院の会議室で行われるアルコール依存症の会へ。
みんなが集まってお酒を飲む機会が増えるこの時期は、アルコール依存症の人たちは鬼門です。
誘惑に流されないように、みんなで集まるのです。
15年間ずっと禁酒を守っている、などという男性たちが、正月、この一年の禁酒を誓い合うのです。
                       ◇
それぞれが背負っている現実は決して幸せなものばかりではありません。
しかし、どんなに絶望的な現状でも、年のはじめに「おめでとう」と新年を祝いながら、
希望や夢を確認することはとても大事なことだと思います。
どんな人にも新しい年がやってくる、これはとても素敵なことです。
就職が決まらない若者とも、
病気や障害を抱えている人たちとも、
厳しい寒さのなかで新年を迎えている被災地の方々とも、
ISに追われ、難民キャンプで生活している子どもたちとも、
新しい年を祝って「おめでとう」と言い合いたいと思います。
今年こそ、平和な年にしましょう!!

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