チェルノブイリ30年から何を学ぶか8
ジェレズニキ村を訪ねた。
この村は15~40キュリーの判定を受け、希望する人には移住する権利が与えられた。
ペラは、18歳のとき、原発事故に遭う。
悲しい気持ちで村を出て、転々とした。
その後、モスクワで事業に成功した。
ふるさとが忘れられなかった。
48歳になった彼女は、ふるさとのこの村にホテルやレストランをつくり、リゾート地にするのだという(=下の写真、右から2番目がベラさん)。
この村には、池があり、川が流れ、景色がいい。
ぼく自身が測定すると、毎時0.08マイクロシーベルト。
年間0.3ミリシーベルトくらいで非常に低い。
村はかつて200世帯が暮らしていたが、今は25世帯。
妻73歳、夫72歳のミハイルさん夫婦を訪ねた。
18歳、16歳、13歳の子どもがいたが、迷わなかった。
「私たちの家はここ、故郷から離れたくないと思った」という。
ミハイル夫人が、家の中を案内してくれた。
すてきなバーニャ(サウナ)がある。
夫に「サマゴンをつくっているか」と聞くと、
「サマゴンを作らなくて何の人生か、あんたの国ではサマゴンをつくるか」と聞かれた。
サマゴンとは、自分でつくる酒、つまり密造酒だ。
「いや、つくらない」。
「近い酒はあるか」と、また聞かれたので、
「焼酎という酒はある。でも、サマゴンの味にはかなわない」と答えた。
サマゴンは、ジャガイモと砂糖を発酵させてつくる。
ウォッカよりも強い。60度くらいある酒が多い。
地下の倉庫を見せてもらったが、ジャガイモや赤カプが、数年は食べれそうなくらい貯められている。
一生懸命働き、豊かなのである。
いま、子ども二人はベトカの町にいて、しょっちゅうミハエルさんがつくったジャガイモを取りに来る。
家の中もきれいだ。
きちんとした生活がある。
たしかに、ここを出たくない気持ちはわかった。
みんな「サマ」=「自己」がしっかりしている。
どんな絶望的な状況になっても自己決定していることが大事だ。
人生を納得して生きるうえで、もっとも大切なことに思えた。
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