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2016年5月12日 (木)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか11

宮沢賢治は花巻農学校の教師を依願退職し、羅須地人協会を始める。
ぼくは55歳で病院を依願退職し、JCFやJIM-NETの活動を始めるが、宮沢賢治にとっての羅須地人協会の活動に似ている。
「雨ニモマケズ」の一節に、
「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」とある。
ナージャおばあちゃんはまさにこんな感じだった。
チェチェルスクの病院の医療機器の修理を行った後、ナージャおばあちゃんのところに寄ったことがある。
突然の訪問である。
ちょうどジャガイモを収穫していた。
声をかけると、「よく来た」と喜んでくれた。
ジャガイモの仕事をそのままにして、すぐに家に入って、食事の準備を始めた。
あっという間に、川魚のフライ、豊富な野菜、手作りのチーズにソーセージ。
豚の脂身のサーラという塊をフライパンで焼いて、目玉焼きと一緒に出してきてくれた。
これが抜群にうまかった。
そして、夫のシュテファンが作った密造酒サマゴン。
「サマ」とは「自分」という意味である。
原発事故があっても、ゆらぎなく自分らしく生きている。
ぜいたくを言わず、自然の摂理に従って、丁寧に生き、
旅人がいれば、ご飯を食べていきなさいと必ず言う。
貧乏で、何かを買うお金なんて持っていない。
それでも豊かな感じがした。

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一度もおばちゃんにお土産を持っていったことがない。
診察をしたり、薬を出したりしたこともない。
ぼくたちは何かしてもらうだけだった。
この土地の人たちは困難のなかで生活しているけれど、笑いがあり、踊りがあり、歌があり、サマゴンがある。
サマショール、自分で村にいることを、自分で決めている。
人生の主人公になっているから、いい顔をしているのだ。
今回、ナージャおばあちゃんの好きなウォッカを買って、日本からお相撲の手ぬぐいを持って、訪ねた。
カギがかかっていた。
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大きな声でトントンと呼びかけていると、近所の人たちが集まってきた。

シュテファンさんは数年前に亡くなったという。
ナージャおばちゃんは転んで、大腿骨頚部骨折。
今、娘のところに行っているという。
89歳と高齢でもある。
もう、この村に戻ってくることはないだろうと、みんなが残念がる。
人の命は有限である。
命というものはそういうものだ。
だからこそ、ナージャおばあちゃんのように、サマショールのように、生きてみたいものだ。

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