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2016年5月18日 (水)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか15

ミンスク国立医科大学放射線医学部長のアレキサンドリア・ストラジョフ医師に、
チェルノブイリ原発事故の被害が大きかったベラルーシ全体の話を聞いた。
             ◇
福島との大きな違いは、はじめの10日間だった。
福島はすぐに20キロ圏外に出た。
チェルノブイリでは原発労働者の町プリピャチでは翌日から避難が始まったが、
ベラルーシに知らされたのは1週間後だった。
しかも、その意味はほとんどわからなかった。
汚染された食べ物やミルクを出荷停止にすることもできなかった。
子どもたちを雨の中で遊ばせてしまった。
この違いは大きなものだという。

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その後、放射性ヨウ素131、セシウム、ストロンチウム、プルトニウムなどの汚染地図を作っている。
できるだけ被ばくしないように30年間務めてきた。
外部被ばくを避けるため、空間線量の高いところには住まないようにしてきた。
40キュリー以上の汚染地は強制移住とした。
年間5ミリシーベルト以上にあたる。
これは徹底してきた。
15~50キュリーは移住義務地域。
法的な強制はなかったが、できるだけ移住を勧告した。
5キュリー以上の人たちには選択権を与えた。
年間1ミリシーベルト以上にあたる。
希望があれば、移住を認めたという。
日本よりも進んでいる。
それでもそこに住みたいと希望した場合は、内部被ばくを極力させないように食べ物の注意をした。
被ばくは外部被ばくと内部被ばくの総和であり、行政と一人ひとりの意識改革が必要だった。
市場に出た野菜はよく調べた。
自分のところで作った野菜は測定所で測定してから食べるように指導した。
カリウムやカルシウムの多い食品を食べると、セシウムの吸収を抑制することもわかった。
放射線はフリーラジカルなので、抗酸化力が高いビタミンA、C、Eやセレンの入っている果物を多く摂るようにした。
ベラルーシではセレンが多く含まれた鶏卵をつくって売っている。
こういった小さな注意も行ってきた。
ストラジョフ教授は、やるだけのことをやったら、不安をもたないことが大事だと話してくれた。

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