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2016年5月

2016年5月31日 (火)

地域包括ケアシステムとは何か9

嚥下障害のサポートを得意としている総合医の奥先生と、グループホーム豊平に往診に行った。
嚥下障害が強まり、虚弱になり、認知症も進んでいる患者さんが、治療・指導の結果、どうなったのか評価をするのが目的だ。
このグループホームは、看護師、介護士たちがよくみている。
嚥下の状態が改善し、食べられるようになったため、お粥から常食に変えられそうだという。
患者さんも元気になったように見える。
声もよく出ている。

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会話をしているうちに、「編み物のやりかけがある」という。
認知症では、編み物は難しい。
もしかしたら、虚弱と高度の難聴があるために、認知症的な症状が出たのではないかと推測した。
奥先生と認知症の簡単なチェックをした。
「山、電車、桜」
難聴があるので、大きな声で伝えて、言葉を繰り替えしてもらった。
すぐに反復できた。
「5分ほどしたら聞きますから、覚えていてください」
と言い、編み物の話や好きなごはんの話をしてから、先ほどの言葉は何か聞いた。
「山、電車、桜」
しっかりと答えることができた。
一桁の掛け算や足し算もできる。
認知症予備軍なのだろうが、微妙な状態なのだろう。
体力がしっかりすれば、気力や集中力が出てくるかもしれない。
状態は体力によって波のように揺れる。
予備軍の状態をできるだけ進まないようにすることもできる。
そのために、体を動かしてもらうことや、おしゃべり、歌がいいという話をした。

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2016年5月30日 (月)

名古屋小児がん基金設立

難治性の小児がんの新しい治療の開発と提供に取り組む「名古屋小児がん基金」が設立された。
今年3月まで名古屋大学小児科の教授だった小島勢二先生が中心になり、
愛知県がんセンターの木下総長や鎌田が顧問として応援団を務める。

160523dsc_0618 名古屋小児がん基金設立記念講演会の様子

基金では、小児がんの治療成績を上げるための新しい治療法の開発と提供、治療環境の整備などを行っていく。
たとえば、小児白血病の治療後、残存白血病細胞を調べるが、今までとは桁違いの何万という白血球を一気に調べることができる検査や、すべての遺伝子を一気に検査する次世代シークエンスを用いた遺伝子診断法などを導入する。
この遺伝子診断法では、遺伝子から小児がんの特徴を解明することができる。
ぼくは12年間、イラクの白血病の子どもたちの医療支援をしてきた。
劣化ウラン弾が小児がんに関係しているのではないかと言われ、JCFのリカア先生が、RNAの遺伝子解析を行ってきたが、劣化ウラン弾と小児がんとの因果関係を証明することはできなかった。
この遺伝子診断を用いれば、劣化ウラン弾が遺伝子異常を起こしているかどうかわかる可能性がある。
また、基金では、CAR-T細胞療法という画期的な免疫療法の確立にも取り組んでいる。
この治療法は急性白血病の治療法であるが、おそらくほかのがんにも期待できる。
この治療を提供できるようになれば、日本の難治性の白血病の子どもたちだけでなく、アジアの恵まれない子どもたちを治療することができる。
ぼくが支援してきた、イラクの白血病の子どもたちにとっても朗報である。
5/22、名古屋小児がん基金設立記念講演会があり、講演してきた。
ぜひ、こうした基金があることに関心をもっていただきたい。
ぼくもこれからも、名古屋小児がん基金を応援していこうと思う。

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2016年5月29日 (日)

鎌田實の一日一冊(286)

「政府は必ず嘘をつく増補版」(堤未果著、角川新書)
著者の話は衝撃的だ。
2002年に導入された住基ネットは、2000億円もの税金が投入されたにもかかわらず、14年経った今も住基カードの普及率はたった5パーセント。
いったい、これだけの税金はだれの役に立ったのか。
地方自治情報センターに総務省から天下りした役員たちに高額報酬があり、批判が集まりだしたときに、渡りに船とばかりにマイナンバーが登場した。
2015年にさらに700億円の予算を計上してマイナンバーが始まった。
日本はこんな無駄なことをやっている余裕があるのだろうか。

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著者は、国民皆保険制度の存続危機にも警鐘を鳴らす。
政府は、国民皆保険制度をつぶさないと何度も強調している。
TPPで、アメリカの高額な新薬が持ち込まれ、日本で消費されても、
国民皆保険制度があるため、高くても新薬は使われる。
だが、医療費が膨大になり、将来的に高い薬が保険外になったりしたら、
民間の保険会社にでも入らなければ、十分な医療が受けられなくなる。
すでにがん保険は、アメリカのものが日本を制圧している。
ISDS条項が妥結されると、これからとんでもないことが起きてくる。
現在、中医協が薬価をコントロールとしているが、そこへアメリカが介入してくる可能性がある。
国民皆保険制度は守られても、アメリカのグローバル企業が好き放題をしていく。
おもしろくて、怖い本である。

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2016年5月28日 (土)

鎌田實の一日一冊(285)

「医学生からの診断推論」(山中克郎著、羊土社)
医療は日々進歩している。
もういちどブラッシュアップしなければいけないと思い、緩和医療や在宅医療の専門医について、“指導”してもらっている。
諏訪中央病院には、何人ものの総合診療の優秀な指導医たちがいる。
その一人である山中先生と佐藤先生の本である。

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「診断の9割は問診である」「よくある疾患は、パッケージで攻めろ」とある。
例えば、右側の下腹部痛があると、虫垂炎を想定することが多い。
しかし、日本で最も多い食中毒の原因のカンピロバクターによる炎症であることが多い。
虫垂炎のように胃が痛くなっていないか確認をとるなど、問診していくと、だんだん答えに近づていく。
鶏肉の5割はカンピロバクターに感染している。
まな板の上で切り、その後、さっと洗ったまな板の上でサラダ用の野菜を切る。
これがいけない。
カンピロバクターは、80度以上の熱湯をかけなかければ死なない。
こんな話が満載。
患者さんに会ったら、最初の1分で患者さんの心をつかめとか、
小説や美術書、歴史書、あゆるジャンルの本に関心をもち、感受性を高めよ、など、
医学生や若い医師にわかりやすくアドバイスしている。
医学は、一生学び続ける必要がある。
そして、学ぶことはおもしろい。

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2016年5月27日 (金)

6年ぶりの再会

長野県の飯田に講演に行った。
患者さんが6年ぶりに訪ねてきた。
肺がんで、難しい場所にあったため、手術ができないといわれた。
抗がん剤治療を受けていたが、飯田から茅野の諏訪中央病院に予約をとってやってきた。
「たいへん混んでいる外来で、私の診察に30分も割いてくれた」と当時を振り返る。
彼女は、免疫療法のひとつである樹状細胞治療を受けたいと話したという。
それに対し、ぼくはこんなことを言ったらしい。
「○か×かではなく、△というところでしょう」
ぼくは覚えてない。
だが、どうしてもというならば、信州大学付属病院がやっている樹状細胞治療が信頼できる、と言ったという。
これを開発した会社の社長が、諏訪中央病院でパート医をしていたことがある。
診察の最後に「あなたはポジティブな方だから、大丈夫ですよ」とぼくがいい、握手をしたのが忘れられないと話してくれた。

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6年経った今、腫瘍は消えていないが、成長はしていない。
抗がん剤治療はいまも受けているという。
抗がん剤がすごく効いているのだろう。
樹状細胞療法も2年間やったが、少しは役に立ったのかもしれないが、科学的にはわからない。
免疫療法は、まだ開発段階であるが、免疫チェックポイント阻害剤という新しいタイプの薬も出てきた。
がんと闘える武器が少しずつ増えているのはいいことである。
それでもすべてのがん患者を助けることはできない。
医療は、そういう限界をいつも痛感する。
だが、そのなかで、彼女のように「元気です」と久しぶりに顔を見せてくれる患者さんがいることは、とてもうれしいことである。

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2016年5月26日 (木)

地域包括ケアシステムとは何か8

医療は非日常的な行為になりやすい。
しかし、いつも生活に根差したケアをすることで、日常と断絶しないように心がけてきた。
それが地域医療の大事な柱だと思ってきた。
55歳で引退し、名誉院長になってから、週2回ほど回診や在宅医療、外来をやってきた。
できるだけ病院の方針に関しては、特別な発言をしないようにしながら、病院を見てきたが、
間違いなく病院は進歩し、高度医療や救急医療のレベルは上がっている。
医療は助けてナンボだから、ここが大事なのである。
と同時に、患者さんの生活や心、スピリチュアルな面によりそうあたたかな医療も行われている。
「黒と青」がベストセラーになったアナ・クィンドレンの「幸せへの扉 世界一小さなアドバイス」(集英社)には、「大事なことは目的地ではなく、道中」だと書かれている。
人生は、道中が大事なのだ。

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この本の最後に、こんなくだりがある。
ホームレスの男が、夏が終わり寂しくなった海を幸せそうに見ている。
その男に、なぜ、入院してアルコール依存症の治療を受けないのかと聞いた。
すると、彼は、「見てごらん、この眺めを」と答えた。
それ以来、風景を眺めるように心しているという。
ただ風景をみるだけ。でも、「心をこめて、すべてみてごらん」
これが、クィンドレンのアドバイスだ。

160518dsc_0607 病院の窓から見える風景

ぼくはこの本を何度も繰り返して読んでいる。
医療のなかにも、取り入れてきた。
風景を眺めることの大事さも知っている。
患者さんが桜が見たいといえば、一緒に花見に行った。
新婚の時代に過ごしたふるさとをみてみたいといわれ、一緒に行ったこともある。
人間は風景とともに生きてきたのだ。
その人の風景を大切にする地域医療でありたいと思う。

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2016年5月25日 (水)

地域包括ケアシステムとは何か7

94歳のおじいちゃんの家に、往診に行った。
玄関で「お邪魔します」と声をかけると、遠くのほうから「上がれ、上がれ」と大きな声。
このおじいちゃんはものすごい勉強家。
以前、ぼくが健康づくり運動で村のなかを飛び回っているときも、よく顔を合わせ、質問したり、自分の意見を述べたりしていた。
漢方の勉強もしていた。
食べ物にこだわりがあり、自然農法にも取り組んでいた。
体が弱くなり、自分で畑をできなくなってからは、息子さん夫婦が継いでいる。
だが、農薬を使わないので、畑の草むしりがとんでもなく大変だという。
「おじいちゃんのこだわりがあるので、できる限り続けてあげたいけれど、自分たちも限界だ」という。
息子さんは70歳前後か。その気持ちもよくわかる。
あまり硬く考えなくていいのではないか、とお二人に話した。
やれるとこまでやって、手を抜くところは抜いてもいいのではないか。
介護する側が倒れてしまったら、結局は共倒れになってしまう。

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息子さんがコーヒーをいれてくれた。
すると、おじいちゃんがつかまり歩きで奥から出てきた。
鎌田だとすぐに気付いてくれた。
頑固一徹で、自分流にこだわり続けるおじいちゃんがいいことを言った。
「家族にはそれぞれ自分の人生がある。そのことはよくわかっている。
息子は息子、嫁は嫁、孫は孫。その人生を縛ってはいけない」
カッコいいことを言うのである。
「じいちゃん、すごいな。まさか、そんなかっこいい言葉が出るとは思わなかった」
ぼくが茶化すと、子どもように、笑顔でくしゃくしゃになった。
息子さん夫婦も、ぼくに庭を見せてくれながら、
「いまのおじいちゃんの言葉、とてもうれしかった」とうれしそうだ。
でも、「明日になれば、違うことも言う。ときには心が折れてしまうこともある」と正直な気持ちも語ってくれた。
そうなのだろうと思う。
おじいちゃんは認知症ではない。
足腰が弱ってきているが、つかまり歩きができる。
94歳で立派なものである。
人間にはいいところもあれば、困ったところもある。
おじいちゃんはそんな自分に気が付いている。
在宅医療の現場を見ていると、最後は結局、自分の生き方が自分に降りかかってくる。
だから人生は奥深いのだろう。
往診は、たくさんのことを学ぶチャンスにあふれている。

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2016年5月24日 (火)

地域包括ケアシステムとは何か6

在宅医療を行ううえで大切なのは、どうやって希望を見つけるか。
希望をみつけにくい患者さんへのエンパワーを考えている。
同時に疲れている介護者にも希望がもてるようにしたいと、今までやってきた。
一つの手法として、六車由実さんの『驚きの介護民俗学』(医学書院)という本がおもしろい。
著者は文化人類学者で、デイサービスの責任者。
そこで、文化人類学的な手法で聞き取りをすることで、
みる人とみられる人の関係が縦の関係でなくなり、横の関係になっていく。
               ◇
市内の認知症の人のお宅を訪ねた。
築100年を超えた古い家である。
開かずの戸を開けると急な階段があり、屋根裏の広い空間へと続く。
昔はここで蚕を飼っていたという。
すばらしい家である。
「この家をよく残しましたね」というと、
認知症のおじいちゃんがにこっと笑った。

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それを機に、おばあちゃんがいろんなことを話しはじめた。
認知症のおじいちゃんのお父さんという人は、「とんでもない人」だったという。
たくさんの田畑を持っていたが、全部売り払って中国へ行った。
そして、すべて中国に残して日本に戻ってきた。
そのとき子どもだったおじいちゃんは、それを体験した。
「大変だったろうけれど、めったに体験できない魅力的な人生だったよね」
すると、急に目が輝きだした。
おそらく、村の人たちからずっと、後ろ指をさされてきたのかもしれない。
そういうおもしろい話を聞き出してあげることが、大事なのだと思う。
おじいちゃんの声が、なんだか急にしっかりしだした。
今度は、カラオケをやろうなんて話にもなった。
ぼくがこの家を出るときには、おじいちゃんが歩いて、玄関まで見送りに出てきてくれた。
認知症のおじいちゃんにとっては半分くらいわかって、半分くらいわからないのかもしれないが、
おそらくうれしかったのだろうと思う。
認知症になっても、感情は比較的最後のほうまで残ることが多い。
だからこそ、悲しませてはいけないと思うし、できたら一日一回はうれしい、楽しいという感情を味わってもらいたい。
いや、ときには悲しんでもいいのだと思う。
心がキュンとすることで、感情がいきいきとして、何かを思い出すこともあるはずだ。
在宅医療のなかの文化人類学的なアプローチはちょっと魅力的だなと思った。

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2016年5月23日 (月)

地域包括ケアシステムとは何か5

漢字は一つひとつの構造に意味がある。
「医」の旧字は「醫」と書く。
諸説あるが、左上の「医」は、人間が矢を引いている状態を表している。
技術を示しているのだ。
医療はすぐれた技術ということだ。
ぼくが諏訪中央病院のリーダーになったとき、
救急医療や高度医療が充実した、すぐれた技術をもつ病院をつくりたいと思った。
医療は命を助けてナンボだからである。
「醫」は簡略化され、現在は「医」が一般に使われているが、
そのころから医療は技術オンリーになっていったような気がする。
日本人は医療に対して、もっと深い思いをもっていたのではないか。
それが右上と下の部首に現れているのではないか。

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右上は「役」のつくりである。
役に立つ、つまり、奉仕という意味を示しているのではないか。
医療には、奉仕という意味合いもあったのではないか。
そして「酉」。。
酒壺に酒が入れられ、神に奉る、つまり祈りである。
どんなに優れた技術を用いても、助けられないことを知っていた。
医療をする側も、受ける側も、技術の限界を知っていたからこそ、奉仕の心や祈りを必要としたのだと思う。
地域医療をつくるとき、95%くらいはの救急医療や高度医療を大事にしながら、
数パーセントは地域のために役立ちたいと思い、健康づくりのために地域に出て行った。
そして、地方の小さな病院だが、緩和ケア病棟をつくったのは、祈りのような気持をもち、最後までその人らしく生きることができるように、サポートしたいと思ったからだ。
それが新しい医療のスタイルだと思った。
人口5万7000人の小さな町で、救急医療と高度医療、健康づくり運動、在宅医療、緩和医療の5つをバランスよく展開しようと思ったら、
自然に地域包括ケアというスタイルになった。
20年ほど前から「地域包括ケア」という言葉を使いながら展開してきたスタイルは、今も続いている。

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2016年5月22日 (日)

鎌田劇場へようこそ!(268)

「さとにきたらええやん」
重江良樹監督。
大阪市西成地区釜ヶ崎にある「こどもの里」に7年間、通い続けて映画を撮った。
釜ヶ崎は一昔前、暴動が起き、危険な街という偏見もある。
しかし、こどもの里はユートピアだ。
今年の冬、一年で最も寒かった日、子どもたちが夜回りをした。
コンクリートの上に毛布を敷いて寝ている人たちにあたたかい味噌汁とおにぎりを配って歩く。
毛布の足りない人には毛布やホッカイロなどを配る。

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小学校に上がる前の子と中学三年生、高校三年生の子どもが主人公。
みんな不器用だが、ピュアに生きている。
6歳の子は、暴れんぼうで人の言うことを聞かない。
お母さんも疲れていて、暴力を振るいそうになる。
中学三年の男の子は知的障害がある。
そして、すぐにキレる。
周囲はそんな彼を受け入れようとし、彼もゆっくりだが、成長していく姿が見える。
高校三年の女の子は、やさしくてあたたかい。
スタッフのように、子どもの面倒をみたりする。
みんな自分の役割をもっている。
親たちも必死に生きているが、うまくはいっていない。
なんだが生きるパワーをもらう映画だ。
ヒリヒリ、ぽかぽか、最後はウルウル。
最後に流れるラッパーのシンゴの歌がいい。
ラップなんて好きではなかったが、いいものだなと思った。
ぜひ、見てください。
6月上旬公開予定。

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2016年5月21日 (土)

鎌田劇場へようこそ!(267)

「シリア・モナムール」
圧倒的にすごい。
市民ジャーナリストがシリアの内戦状況をyoutubeにのせる。
その画像を、オサマ・モハンメド監督が編集していく。
アサド政府軍が無差別に丸腰の市民たちを銃撃。
たくさんの市民が、デモをしている仲間が、死んでいく。
逃げながら撮っているので、大事なところで地面や空が映っていたりするが、それだけ緊迫しているということだ。
目をそむけたくなるうようなリアル。
本物の映像だから、怖い。
シマブという女性の映像作家が登場する。
ホムスから大切なメッセージを、映像で送り込んでくる。
それが、まるで詩のようである。
圧倒的な愛があふれている。
命は何色? 世界はどんな景色? 私は死ぬの?
シリア政府から迫害を受けてパリに脱出した監督のオサマと、ホムスに残ったシマブが、国への愛や友への愛、男と女の愛を、戦争を通して語っていく。
「シリア・モナムール」は邦題。
アラン・レネ監督の「ヒロシマ・モナムール」のオマージュである。

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ISは今も、シリアの3分の1を制圧している。
この映画に登場するホムスを、見に行ったことがある。
イラクの難民キャンプに行くのに、この街道が安全だった時期があった。
その町が廃墟となっている。
ISを押さえつけるためには、国の形が保たれていることが大事と思い、
アサド政権でも政府があったほうがいいと思っていたが、
この映画を見て、やはりアサド政権は許しがたいという思いになった。
自分と自分の身内が生き延びるために、どれほど残虐な行為をしてきたか。
この映画は、残虐な現状を映しながら、愛を語っている。
シリアに平和が来ることを祈りなから見た。

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2016年5月20日 (金)

サミット後の布石

伊勢志摩サミットが、いよいよ来週に迫った。
安倍首相がリーダーシップをみせ、オバマ米大統領が広島を訪問する。
そこで、核兵器廃絶へ向けてのスタートを示すような発言をするのだろう。
問題は、そこから。
各国首脳が帰ったあと、消費税10%の延期を表明する。
熊本の震災があってから、衆院解散はないというムードをちゃぶ台返しして、解散選挙に打って出るのではないか。
衆参ダブル選挙にしたほうが、野党の分裂が進み、与党が有利となる。
衆参で圧倒的に勝ったのち、選挙の争点にしなかった憲法改正を実行に移すように思えてならない。
なんとも不気味。

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安倍さんは、2014年に消費増税を実行延期したとき、2017年4月には消費増税を必ず行うと宣言した。
デフレ脱却を宣言したが、こちらも達成できていない。
マイナス金利導入まで行ったが、一般国民の実質所得は下がり、格差は明確に大きくなっている。
この国をよくしようと思う熱い志があるならば、衆院を解散せずともできるはず。
結局、憲法を改正したいという欲望が鎧の下に見え隠れする。
国民一人ひとりが意識を高めていかなければ、この国は一気に流れていくような気がする。
民主主義が問われているのだ。
一人ひとりが政治に注目し、この国がどんな国になったらいいのか、
情や空気に流されたりしないで、毅然と自分の考えをもつことが大事。
ぼくたちの国はいま土俵際にいるように思う。

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2016年5月19日 (木)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか16

ミンスク甲状腺がんセンターの所長で、ミンスク第一病院の腫瘍外科のユーリ・ジェミチェク医師は、毎年1000人の甲状腺がんの手術を行っている。
甲状腺がんについて聞いた。
                    ◇
「原発事故当時、子どもだった人は今30、40代になっている。
その人たちからも甲状腺がんが出ている。
もちろん、原発事故と関係のない甲状腺がんもある。
子どもの甲状腺がんが毎年、22~25人出ている。
人口900万人で、子ども22人くらいに甲状腺がんが出ているということだ。
放射性ヨウ素(131)の半減期は8日なので、原発事故との関係は考えられない。
福島の甲状腺検診では、1巡目でがんは100人、がんの疑いが15人出た。
日本のスクリーニングは精度が高いので、検診をしたために見つかった可能性が高い。
スクリーニング効果だと考えられる。
2巡目でがんが16人、がんの疑いが35人見つかった。
それでも、現時点では何ともいえない。
しかし、今後、さらにがんやがんの疑いのある子どもが増えてくるとなれば、やはりスクリーニング効果とはいえなくなる。
ベラルーシでは放射線の汚染が低いところでも、甲状腺がんは見つかっている。
放射性ヨウ素が刺激となり、長期間時間をかけてがんになる可能性があるという。
福島で放射性ヨウ素の放射線量が低くても、長期間、検診を続けたほうがいいだろう」

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--検診で見つかったがんについて、日本では「見つけなくていいがんを見つけた」という意見もあるが、どう思うか聞いた。
すると、ジェミチェク医師は、こう答えた。
「子どもの甲状腺がんはリンパ腺転移をする確率が高いのが特徴。
ベラルーシで、手術をせず様子をみた例と、手術をした例では、子どもの寿命は格段に違った。
手術をすればほとんどの場合、高齢者になるまで健康に生きることができる。
見つけたがんは必ず手術したほうがいい。
数年経過をみれば、次にする手術が大きな手術になる可能性が高い。
だから、見つかったらすぐに手術をすすめたい。
それが30年間、チェルノブイリで甲状腺がんと闘ってきた自分の考えだ」という。
放射性ヨウ素の被ばく量が低くても、甲状腺がんになる可能性があることは、福島にとって頭に入れておくべきことだと思う。
コストと成果の両方を考えて、日本でも長期間のフォローしていく必要がある。
「ベラルーシではコストの問題で、ゴメリを中心にした高汚染地域でのみ甲状腺検診を行っている。
ゴメリでは今後も検診を継続していく。
日本は経済的に余裕があるので、福島県全体で検診を継続していく必要があると思う。
日本全体でやる必要があるかどうかは、コストの問題だ」
ジェミチェク医師から、大切な示唆をもらった。

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2016年5月18日 (水)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか15

ミンスク国立医科大学放射線医学部長のアレキサンドリア・ストラジョフ医師に、
チェルノブイリ原発事故の被害が大きかったベラルーシ全体の話を聞いた。
             ◇
福島との大きな違いは、はじめの10日間だった。
福島はすぐに20キロ圏外に出た。
チェルノブイリでは原発労働者の町プリピャチでは翌日から避難が始まったが、
ベラルーシに知らされたのは1週間後だった。
しかも、その意味はほとんどわからなかった。
汚染された食べ物やミルクを出荷停止にすることもできなかった。
子どもたちを雨の中で遊ばせてしまった。
この違いは大きなものだという。

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その後、放射性ヨウ素131、セシウム、ストロンチウム、プルトニウムなどの汚染地図を作っている。
できるだけ被ばくしないように30年間務めてきた。
外部被ばくを避けるため、空間線量の高いところには住まないようにしてきた。
40キュリー以上の汚染地は強制移住とした。
年間5ミリシーベルト以上にあたる。
これは徹底してきた。
15~50キュリーは移住義務地域。
法的な強制はなかったが、できるだけ移住を勧告した。
5キュリー以上の人たちには選択権を与えた。
年間1ミリシーベルト以上にあたる。
希望があれば、移住を認めたという。
日本よりも進んでいる。
それでもそこに住みたいと希望した場合は、内部被ばくを極力させないように食べ物の注意をした。
被ばくは外部被ばくと内部被ばくの総和であり、行政と一人ひとりの意識改革が必要だった。
市場に出た野菜はよく調べた。
自分のところで作った野菜は測定所で測定してから食べるように指導した。
カリウムやカルシウムの多い食品を食べると、セシウムの吸収を抑制することもわかった。
放射線はフリーラジカルなので、抗酸化力が高いビタミンA、C、Eやセレンの入っている果物を多く摂るようにした。
ベラルーシではセレンが多く含まれた鶏卵をつくって売っている。
こういった小さな注意も行ってきた。
ストラジョフ教授は、やるだけのことをやったら、不安をもたないことが大事だと話してくれた。

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2016年5月17日 (火)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか14

チェルノブイリと福島第一では、原発事故の国際評価は同じレベル7であるが、放射性物質の放出量は大きな差がある。
チェルノブイリは5200ベタベクレル、福島第一は900ベタベクレル。
1平方メートル当たりの放射性ヨウ素(i-131)の沈着量をみると、福島では300万ベクレルを超える地域が、飯館村の方向に広がっている。
その周りに100~300万ベクレルの地帯が広がり、川俣町などは30~100万ベクレル、飯館は100~300万ベクレルのところと30~100万ベクレルのところが広がっている。
そのほか福島の多く地域は6~30万ベクレルの放射性ヨウ素131の沈着がみられる。
このときに、外に出ないことが大事だった。
半減期が8日間なので、2週間ほど外に出ていなければ、甲状腺を守ることができた。
福島の子ども116人に、甲状腺がんが見つかっている。
これら甲状腺がんと、i-131の関係があるのかないのか、結論をつけるためには、事故直後、各地で甲状腺の被ばく量を測定し、サンプリングすることが重要であった。

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今回の原発事故は、何事にも責任をとらず、あいまいにしてきた日本の問題点を集約している。
このまま、問題が流れてしまうのを待っているようだ。
たしかに現段階では、原発事故と子どもの甲状腺がんは関係があるとはいえない。
だが、関係がないとも言い切れない。
今回、チェルノブイリの埋葬の村を見たり、放射線汚染に対する30年間の取り組みをみてきて思うことは、
原発のない時代を早く迎えるべきだということだ。
核燃料廃棄物を処理することができない現状で、世界中に原発をつくることは、人類にとっても、地球にとってもいいこととはいえない。
原発事故を起こした日本だからこそ先頭を切り、新しいエネルギー革命を起こしていくべきではないか。

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2016年5月16日 (月)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか13

医療労働組合は、ゴメリ州全体の医療労働者4万1000人が加入している。
その委員長は、ゴメリ州立病院の整形外科医でもある。
彼と話しているとき、なつかしい名前を聞いた。
「雪とパイナップル」のアンドレイ少年を支える、タチアナ先生の名前だ。
彼の病棟の一つ上の階は、小児科白血病棟。
「タチアナ先生は、非常に素晴らしいドクターだった。
患者を大事にし、腕もよかった。
家族も支えた。
看護師や掃除のおばさんたちも大事にした。
彼女の信頼は厚く、彼女を信頼している日本やドイツのNGOが支援をした。
特にJCFの支援はすばらしかった」
彼は、ぼくたちの噂も耳にしていると言った。
人工衛星を使って、ゴメリ州立病院と信州大学病院をつなぎ、白血病細胞読み方を教えたり、
抗がん剤の治療をした。
日本の支援で、ベラルーシでもはじめて末梢血幹細胞移植ができた。
「日本のNGOがこのゴメリのために働いていたことは覚えている」と語ってくれた。

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人生は偶然である。
1991年1月15日、ぼくがはじめてゴメリを訪ねたとき、ほかの病院を視察する予定だった。
ウラジミールという白血病の少年のおばさんが、今回も泊まっているゴメリツーリストホテルのロビーで何時間も待っていた。
そして、どうしてもゴメリ州立病院へ来てほしいと言われたのである。
その病院でタチアナ先生と出会った。
ぼくはいつも支援するときには、人間として信頼できるかということを、大事な基準にしている。
彼女ならば、送った抗がん剤や抗生剤を無駄なく使ってくれるだろうと思った。
その通りになった。
モスクワから夜汽車で10時間以上かけてゴメリに行くと、彼女は必ず、駅に迎えに来てくれた。
帰りも、見送ってくれた。
彼女は、乳がんと闘いながら、子どもたちの治療を続けた。
そんな彼女とゴメリ駅で別れるときは、つらい思いがこみあげてきた。
久しぶりに、タチアナ先生のことを思い出した。

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2016年5月15日 (日)

鎌田實の一日一冊(284)

「AIDで生まれるということ 精子提供で生まれた子どもたちの声」(非配偶者間人工授精で生まれた人の自助グループ、長沖暁子編著、萬書房)
非配偶者間人工授精のことをAIDという。
日本では1948年から、不妊症の人の生殖医療として使われるようになった。
家族制度が色濃い時代、「子どもがいない」ということは冷ややかに見られていた。
その風潮は、今も少しは残っている。
もっと多様な生き方があっていいはずなのに。
不妊の原因の半分は男性にある。
夫の精子に問題があった場合、だれかわからない人の精子を使って人工授精し、
妻の子宮で育て、出産する。
AIDを行っても、多くの妊産婦は近所の産婦人科に受診し、出産することになる。
周囲からはわからない。
生まれた子どものなかには、自分のアイデンティティを探して苦しむ人もいる。

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世界では子ども人権条約のなかで、子どもは親を知る権利があるといわれている。
「親自身も隠すことが息苦しく、夫婦の気持ちにもズレが生じることがある。
親たちも孤独なのです」と語るのは、Iさん。
「日曜はがんばらない」に出ていただいた。
スウェーデンやオーストラリアなどでは、親のことを知りたい子どもには、権利として、親のことを知ることができるように変えてきた。
日本もそうすることが大事だと思う。

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2016年5月14日 (土)

鎌田實の一日一冊(283)

「激励禁忌神話の終焉」(井原裕著、日本評論社)
著者は、獨協医科大学精神科の教授である。
うつ病の薬は必須なのか。
もちろん、大事な時期はに抗うつ剤を使うのであるが、
薬を出さない選択も考えて、できるだけ薬から卒業できるように作戦を立てていく。
そして、「うつ病の患者さんには激励してはいけない」といわれているが、これは神話であると言う。
介護専門誌「おはよう21」で対談した。
井原先生は、発想が豊かだ。
仕事が人を成長させる。
いい仕事をすることが最大の幸福。
幸福とはメンタルヘルスそのものである、という。
たしかに、健康は目標ではない。
目標は、幸せだ。
ぼくも健康づくり運動をしながら、「幸せになるために健康になるにはどうしたらいいか」を考えてきた。

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文章も美しい。
「決してルサンチマンから自由になれない人間に救いはあるのか。
ルサンチマンを隠そうとすらしなくなった怒れるうつ病患者たちに対し、私ども精神科医はどう対すべきか」
そして、こうも書く。
「むしろ、彼らに『もっと怒りを』と促すことのほうが治療になるのではないか。
『ふざけやがってコノヤロウ』のエネルギーを建設的に利用することこそ、彼らを導く方法ではないか」
なるほど、と思う。
対談で、井原先生は「メンタルヘルスは実存的な問題だ」と語った。
うつ病の治療をするときに、不安をどう緩和するかというよりも、
その人が仕事のプレッシャーを通して、自分は何者か、何になりたいのか、何をして何を得たいのかという本質を問うていくことが大事だという。
だから、ときには激励してもいいというのが彼の考えのようだ。
精神科が薬重視になっている傾向はある。
井原先生は週一回、指導をかねて東京駅の近くのクリニックで外来をしている。
そのクリニックの院長は諏訪中央病院で働いていた田中先生だ。
ぼくが訪ねた日、17種の抗うつ剤や睡眠薬、精神安定剤を飲んでいた患者さんが、一年がかりではあるがすべて止め、卒業するという場面に出合った。
本当に、そういうことができるのだと知り、うれしくなった。

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2016年5月13日 (金)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか12

強制移住区域には警察が立ち、人を入れないようにしている。
高汚染のドローチ村には、何家族かが残っていた。
飛行機おじさんがいた村だ。

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飛行機おじさんは、人が住めない村になっても、移住する気にはなれなかった。
自分で夢だった飛行機をつくり、それを放棄したくなかった。
だれもいなくった村の土を固め、滑走路をつくっていた。
飛行機の形はほぼ完成し、あとはエンジンを入れるだけだった。
見えない放射能は怖い。
だから、余分な放射能はできるだけ浴びるべきではない。
だが、高齢者の場合は、ある程度、自分で選んでもいいのだろうとぼくは思っている。
放射能の見える化をし、測定した食べ物だけを食べ、健康診断を受け、体内被曝を測定する。
それで安全を確認できれば、好きなところに住んでもいいのではないか。
残念なことに、飛行機おじさんは飛行機を飛ばすことはできなかった。
亡くなったようだ。
目を閉じると、飛行機おじさんが空高く舞い上がっている姿が浮かぶ。
ときには夢に生きてもいいのではないかと思う。

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2016年5月12日 (木)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか11

宮沢賢治は花巻農学校の教師を依願退職し、羅須地人協会を始める。
ぼくは55歳で病院を依願退職し、JCFやJIM-NETの活動を始めるが、宮沢賢治にとっての羅須地人協会の活動に似ている。
「雨ニモマケズ」の一節に、
「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」とある。
ナージャおばあちゃんはまさにこんな感じだった。
チェチェルスクの病院の医療機器の修理を行った後、ナージャおばあちゃんのところに寄ったことがある。
突然の訪問である。
ちょうどジャガイモを収穫していた。
声をかけると、「よく来た」と喜んでくれた。
ジャガイモの仕事をそのままにして、すぐに家に入って、食事の準備を始めた。
あっという間に、川魚のフライ、豊富な野菜、手作りのチーズにソーセージ。
豚の脂身のサーラという塊をフライパンで焼いて、目玉焼きと一緒に出してきてくれた。
これが抜群にうまかった。
そして、夫のシュテファンが作った密造酒サマゴン。
「サマ」とは「自分」という意味である。
原発事故があっても、ゆらぎなく自分らしく生きている。
ぜいたくを言わず、自然の摂理に従って、丁寧に生き、
旅人がいれば、ご飯を食べていきなさいと必ず言う。
貧乏で、何かを買うお金なんて持っていない。
それでも豊かな感じがした。

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一度もおばちゃんにお土産を持っていったことがない。
診察をしたり、薬を出したりしたこともない。
ぼくたちは何かしてもらうだけだった。
この土地の人たちは困難のなかで生活しているけれど、笑いがあり、踊りがあり、歌があり、サマゴンがある。
サマショール、自分で村にいることを、自分で決めている。
人生の主人公になっているから、いい顔をしているのだ。
今回、ナージャおばあちゃんの好きなウォッカを買って、日本からお相撲の手ぬぐいを持って、訪ねた。
カギがかかっていた。
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大きな声でトントンと呼びかけていると、近所の人たちが集まってきた。

シュテファンさんは数年前に亡くなったという。
ナージャおばちゃんは転んで、大腿骨頚部骨折。
今、娘のところに行っているという。
89歳と高齢でもある。
もう、この村に戻ってくることはないだろうと、みんなが残念がる。
人の命は有限である。
命というものはそういうものだ。
だからこそ、ナージャおばあちゃんのように、サマショールのように、生きてみたいものだ。

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2016年5月11日 (水)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか10

埋葬の村を一緒に訪ねたナージャ先生の話によると、サマショーロの家やその周りは除染しているので、30年たった今は放射性物質はほとんど残っていないという。
測定すると、0.07~1.1マイクロシーベルト。
まだ空間線量としては少し高いところもある。
だが、森の中は高いまま。
ベトカは、ホットスポットがたくさん点在する。
何年にもわたって、自分の家でできた野菜は食べないようにした。
これは、いい判断だったように思う。
そして、こういう考え方を、みんなに徹底させたことも、重要なポイントだ。

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2014年に、原発から4キロのところにあるかつての原発労働者のまちプリピャチに行った。
そのとき、多くの場所がすでに1マイクロシーベルトに下がっていた。
遊園地の一部のところでは16マイクロシーベルト、原発から50メートルほどのごく近い地点の空間線量は18マイクロシーベルト。
まだ高い値が検出されたが、事故直後4000~1万5000ベクレルという信じられないほどの汚染があったことを思えば、かなり低くなった。
今年の放射能データを見ると、プリピャチは1マイクロシーベルトを切っている。
セシウム137の半減期は30年。
福島の帰還困難区域でも、30年でかなり低下することが予想できる。
しかし、林の放射能がどれくらい低減するか、注意してみていかなければいけないと思う。

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2016年5月10日 (火)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか9

ゴメリ州疫学研究所放射能測定センターを訪ねた。
核種の測定を実によくやっていた。
ゴメリ州全体の中核センターなので、ストロンチウムやほかの微量の放射性元素に関しても丁寧に調べている。
ストロンチウムは、福島第一原発事故ではチェルノブイリの6%しか放出されなかったということで、
測定結果がほとんど公表されてこなかった。
ブラーギン、ジトミールなど何か所かでストロンチウムの高い地域があり、
その地域の牛乳は今も危険ということで、定期的に測定されている。
経済的に行き詰まっているベラルーシだが、放射線の問題に関しては実によくやっているように感じる。

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各地域にも測定所があり、すべて無料で測定されている。
食べ物によるストロンチウムは、牛乳と水が要注意だという。
セシウムは、キノコとベリー、鹿の肉など森で採れたものから検出される。
30年経っても、キノコはやはり要注意。
キツネダケのようなほとんど放射能が測定されない例外もあるそうだが、
それ以外のキノコは、測定してからでないと食べてはいけない。
埋葬の村に行くと、おばあちゃんから、果物を食べろ、とよくすすめられる。
プルーンや梨、リンゴは大丈夫なのか訊ねると、
「ほとんど大丈夫だ」という。
土の中にできるジャガイモも今はとんど汚染されていない。
もちろん、場所によって違うので、各地の測定所できちんと測定し、放射能の見える化を徹底している。
日本では、もう大丈夫だと思い込んで、少し風化しかかっているが、
測定されていない自家の野菜などは、きちんと測定してから食べる必要がある、とアドバイスされた。
こういうことが、この国では原則的によく行われている。
野菜や果物の放射能は10年後くらいにガクッと減ったという。
カリウムが土に含まれていると、野菜が生長するときにカリウムを吸収する。
そうすると、放射性セシウムの吸収を低く抑えることができる。
そんな性質を利用し、土壌改良もしている。
ただし、除染ができない森で採れたキノコやペリーは30年経っても要注意のままだ。

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2016年5月 9日 (月)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか8

ジェレズニキ村を訪ねた。
この村は15~40キュリーの判定を受け、希望する人には移住する権利が与えられた。
ペラは、18歳のとき、原発事故に遭う。
悲しい気持ちで村を出て、転々とした。
その後、モスクワで事業に成功した。
ふるさとが忘れられなかった。
48歳になった彼女は、ふるさとのこの村にホテルやレストランをつくり、リゾート地にするのだという(=下の写真、右から2番目がベラさん)。
もう一度、村の復興に挑戦したいという。

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この村には、池があり、川が流れ、景色がいい。
ぼく自身が測定すると、毎時0.08マイクロシーベルト。
年間0.3ミリシーベルトくらいで非常に低い。
村はかつて200世帯が暮らしていたが、今は25世帯。
妻73歳、夫72歳のミハイルさん夫婦を訪ねた。
18歳、16歳、13歳の子どもがいたが、迷わなかった。
「私たちの家はここ、故郷から離れたくないと思った」という。
ミハイル夫人が、家の中を案内してくれた。
すてきなバーニャ(サウナ)がある。
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夫に「サマゴンをつくっているか」と聞くと、
「サマゴンを作らなくて何の人生か、あんたの国ではサマゴンをつくるか」と聞かれた。
サマゴンとは、自分でつくる酒、つまり密造酒だ。
「いや、つくらない」。
「近い酒はあるか」と、また聞かれたので、
「焼酎という酒はある。でも、サマゴンの味にはかなわない」と答えた。
サマゴンは、ジャガイモと砂糖を発酵させてつくる。
ウォッカよりも強い。60度くらいある酒が多い。
地下の倉庫を見せてもらったが、ジャガイモや赤カプが、数年は食べれそうなくらい貯められている。
一生懸命働き、豊かなのである。

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いま、子ども二人はベトカの町にいて、しょっちゅうミハエルさんがつくったジャガイモを取りに来る。
家の中もきれいだ。
きちんとした生活がある。
たしかに、ここを出たくない気持ちはわかった。
みんな「サマ」=「自己」がしっかりしている。
どんな絶望的な状況になっても自己決定していることが大事だ。
人生を納得して生きるうえで、もっとも大切なことに思えた。

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2016年5月 8日 (日)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか7

福島県におけるホールボディカウンタによる体内被曝検査によると、
99.99%が1ミリシーベルト未満だ。
1ミリシーベルトが14人、2ミリが10人、3ミリシーベルトが2人。
体内被曝は低く抑えることができた。
甲状腺検査は、物理学的な半減期は8日。
しかし、生物学的半減期は大人の場合で81日くらいあるので、県も国も本来もう少ししっかりと、各地域の甲状腺の被曝量をサンプリングして測定してれば、現在、子ども116人に甲状腺がんが発生した原因が原発事故と関係しているか証明することができたのではないか。
あいまいな状態にしたことで、答えが出ない。
答えが出ないことをいいことに、現状のままでいいことになってしまう。

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一方、日本人の自然放射線の被曝は年間平均2.1ミリシーベルト。
外国の2.4ミリシーベルトに比べて少ない。
しかし、医療を中心にした人工の被曝は3.9ミリシーベルトと多く、外国の0.6ミリシーベルトと比べて格段の差である。
人口当たりのCTの設置台数も多い。
CTの平均的な被曝量は6ミリシ―ベルト。
機械によっても、部位によっても違うが、1回で2.2~13ミリシーベルト被曝する。
PET検査なども同じである。
胸部レントゲンでは、一枚当たり60マイクロシーベルト被曝する。
日本人は、安心を求めて、患者さん側からCT検査を希望することもあるが、
CT検査は決して、安全ではないということを考えておいてほうがいい。
外国の論文で、日本人の場合100人の3人くらいは検査による被曝でがんになっている可能性があるといわれるくらい、検査による被曝が多い国ということである。
原発事故による放射線だけに限らず、できるだけ余分な放射線を浴びないようにすることが大事だ。

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2016年5月 7日 (土)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか6

ベトカ地区のナージャ元院長と、彼女から引き継いで、新任の院長となった31歳のセルゲイ医師、そして、ベトカ地区の執行委員会の副会長セルゲイさんと会った。
執行委員会の副会長は、日本でいうと「副市長」といったところか。
ベトカ地区は、高汚染地域が多い。
事故前には4万人が暮らしていたが、強制移住などで2万人に半減した。
除染も行った。
屋根を洗ったり、枝を切ったり、土もひっくり返したりした。
それでも住めないところがたくさんあった。
40キュリー以上は強制移住地域。
15~40キュリーは移住権を与え、希望すれば新しい家を安全な地域に確保するという条例がつくられた。
残ってもいいし、避難してもいい。
ただし残る場合は、いくつかの義務を負う。
検診を受けること。
除染作業員と子どもに関しては、検診を年2回行ってきた。
体内被曝の測定をすること。
そして、子どもは保養に行かせること。
30年経った今も、年1回の保養を続けている。
以前は年2回。余裕のある人は、自分のお金出して、年3回保養に行かせたという。
子どもを守るために、保養に行かせ、ベトカで採れた野菜を食べないようにした。
ここで住むことを、あいまいに認めたのではなく、やるべきことを徹底してやってきたのだ。

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ナージャ先生は産婦人科医。
11年間、ベトカで働き、子どもの奇形に注意してきたが、「事故以前に比べて子どもの奇形が多いということはなかった」という。
ゴメリ州立病院の産婦人科でも同じ意見だという。
甲状腺がんは小さな町だが、毎年1人くらい見つかる。
やはり、甲状腺がんは原発事故と関係があるようだ。
心配されているがんも、全体的に増えている(年間78人)。
原因はわからないが、現段階では、日本の医療支援で診断技術が向上し、がんを発見できるようになったことが一因のようだ。
JCFは、胃カメラや超音波の医療機器を寄付したが、これらでがんをチェックできるようになった。
心臓の異常も若干増えているが、臨床医としてみると、原発事故が関係しているようには思えない。
40キュリー以上の強制移住地域の死亡率の統計をとっているが、ベトカ地区の汚染が低い地域とあまり変わらない。
空き家になったところに、中央アジアなどから来た移住者も増えたので、
原発事故当時、ここにいた人だけの健康状態の統計が取れないのだという。
子どもの奇形も、がんも、現時点では、白とも黒ともいえない。
さらに長期的に見守っていく必要があるのは間違いないだろう。
見えない放射能は、30年経っても、そして、これからも、決着のつかない問題をつきつけている。

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セルゲイ副市長は、原発事故当時、16歳だった。
事故のことがわからず、30キロ圏内のブラーニンという村で2週間ボランティアをした。
その後、ホールボディカウンタで調べたが、被曝してはいなかった。
ホールボディカウンタの測定で、毎年50人くらいに体内被曝が見つかるという。
原因は、食べないように指導されている、ベリーやきのこ、鹿肉などを食べていることにあるようだ。
病院の職員にも一人、わずかだが、体内被曝が見つかれる人がいるが、なんど言ってもベリーやきのこ、鹿肉を食べてしまうそうだ。
人間はなかなか習慣を変えられない。

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2016年5月 6日 (金)

チェルノブリ30年から何を学ぶか5

ゴメリ市から東へ約30分行ったところにゴメリ州ベトカ地区がある。
放射能のホットスポットが点在し、強制移住地域になったため、4万の人口が2万に減った。
そのなかに、バルトメトフカ村がある。
かつて2000人が暮らしていたが、今は4人である。
村を訪ねると、厚い眼鏡をかけた70歳のレイバさんが出てきた。
ぼくの手を握り、親しげに話しかけてくる。
人恋しいのだろう。
話し相手がほしいようだった。
86歳のエレナさんの家に招かれた。
エレナさんは、強制移住で都市部に新しい家を与えられた。
だが、見ただけで住む気にはなれなかった。
「私の家はバルトメイフト村」と言う。
家の中は、とてもきれいにしてあった。
色鮮やかなベラルーシ刺繍をたくさん飾っている。
自慢なのだろう。

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あと二人の住民は、パートナーになって暮らしている。
エレナさんに、さびしいかと聞いた。
さびしい、さびしいと繰り返した。
「それでもこの家を離れたくない、ふるさとはここだから。
ここ以外のところへ行ってもいいことなんてかなった。
バルトメイフト村を出てった人たちもさびしいと言っていた」
原発事故さえなければ、こんなさびしさを味わうことなんてかなっただろう。
70歳のレイバさんはこう言った。
「さびしいときもあるし、さびしくないときもある。
でも、自分でここで生きることを決めたんだ」

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「サマ」という言葉が何度も出てきた。
「自分」という意味だ。
強制移住地で住んではいけないはずなのに、そこに住んでいる人を「サマショーロ」と言う。
以前、「わがままな人」と通訳に聞いた。
今、日本でも「サマショーロ(わがままな人)」と書かれているものが多い。
ぼくが、出所かもしれない。
しかし、よく聞いてみると、「サマ」は「自分」、「ショーロ」は「村」。
自分で村に住むことを決めた人という意味である。
自己決定をした人たちのことで、決して批判的な言葉ではない。
村では、サマゴンという酒をつくっている。
「ゴン」は「つくる」という意味、つまり、サマゴンは自分で造った酒ということだ。
ここの人たちには、みんな「自分」がある。
住んではいけないところに住み、密造酒をつくっている。
自分の生き方を、自分で決めている。

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2016年5月 5日 (木)

チェルノブイリ30年から何を学ぶか4

アナトリーさんとは25年来の付き合いだ。
ずっとJCFの運転手をしてくれている。
娘さんが10歳のとき、チェルノブイリ原発が爆発した。
今から10年ほど前、その娘さんが甲状腺がんになった。
事故発生当時は、どんな状態だったのか、思い出してもらった。
                   ◇
アナトリーさんは30年前、ベラルーシのゴメリで生活していた。
原発事故が起きたことなんてまったく知らなかった。
知らされたのはメーデーが終わってから3日後。
それも、どういう意味かわからなかった。
「ウクライナのチェルノブイリ原発で事故があった」とラジオで聞いただけである。
「食べものに注意しろ」とか、「家の外に出るな」とかも言われなかった。
何に注意していいかもわかもわからなかった。
風が北側に吹いて、ウクライナからベラルーシへと放射能雲が広がっていっているなんて、まったく知らされなかった。
子どももメーデーに参加した。
風の強い日だったことを覚えている。
そして、20年後、甲状腺がんになった。
ミンスクの甲状腺の専門の病院で手術をした。
「あのときは不安で、地獄のようだった」という。
今、娘さんは元気だ。結婚して子どもが一人いる。

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JCFのモスクワのスタッフをしているイリーナさんが、チェルノブイリ原発爆発事故ことを知ったのは、5月になってからだった。
新聞で小さな記事を見た。
ただ、「チェルノブイリ原発で事故があった」というだけのもので、それ以上のことは書かれていなかった。
2週間ほどして、ウクライナのフルーツや野菜は買わないほうがいいんじゃないかと噂が流れたが、意味はわからなかった。
                   ◇
31歳の女性は、「私は当時2歳だった。だから何も覚えていない」という。
しかし、2、3年経ってから、徐々に大騒ぎになったと記憶している。
健康診断も始まり、食べ物に注意するようになった。
彼女は、イタリアとドイツに保養に行った。24日間だ。
そのほか毎年、国内のサナトリウムに子どもたちだけで保養に行った。
「この国は、情報は流してくれないけれど、最低限のことはやっているように思えた」という。
                   ◇
チェチェルスクの村の人にも、30年前のことを聞いたが、やっぱり知らなかったという。
「この国は何も言わない国。ましてやウクライナで起きた事故。
本当は風にのった放射能が、ベラルーシを汚染しても、それが見えない限り何も言わない国だ」と言う。

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2016年5月 4日 (水)

地域包括ケアシステムとは何か4

諏訪中央病院の緩和ケア病棟に、ある患者さんが入院している。
がんの末期で脳転移があり、一時意識がなかったが、ステロイドを使うことで意思の疎通ができるようになった。
ぼくがチェルノブイリに行くときも、「先生、気を付けて行ってきてください」、帰国すると「よく帰ってきたわね」とにこにこと笑顔で迎えてくれた。
左手は脳にある腫瘍のために動かない。
でも、穏やかないい顔をしている。
諏訪中央病院には、全国から医学生が研修に来ている。
関西出身の彼女は、関西からの医学生が来ると喜ぶ。
ぼくを指導してくれている緩和ケアの部長も関西出身。
看護師も関西から来た。
なんとなく、病室が関西の言葉でやわらかくなり、穏やかな空気が流れた。
この日は、信州の山がよく見えるように、ベッドの位置を移動させていた。
窓からの景色に、心がなごむと、うれしそうだった。

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別の患者さんは、一般病棟に移った。
ぼくが行くのを楽しみにしてくれている人で、ちょっとお酒が好き。
緩和ケア病棟では少しならば、飲みたいときに飲んでいいと言っている。
ちょっと飲むと、もともと楽しい人がもっと楽しくなる。
この人の明るさに、救われているスタッフも多い。
一般病棟に移ったこの患者さんを訪ね、「忘れていないよ」とあいさつに行ったら、
「今朝、緩和ケアの部長の先生も挨拶にきてくれた」と言う。
“みんながあなた(患者さん)を忘れていません、あなたの側にいます”という空気が漂っていて、うれしくなった。

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2016年5月 3日 (火)

地域包括ケアシステムとは何か3

鎌田を囲み、月に1回、地域医療の勉強会が開かれることになった。
第一回のテーマは「祭り」。
御柱祭の建て御柱のとき、内科の部長はてっぺんまで上り、看護師がめどでこに乗る。
地域としっかりしたつながりがないと御柱にはなかな乗せてもらえない。
ぼくが前回の御柱までずっと乗せてもらえたのは、「諏訪中央病院が地域のためによくやっているので」と、病院が地域から評価されてきたからだろう。
若い頃、御柱の先頭に乗せてもらったり、めどでこの先端に乗せてもらったりした。
簡単には乗れないが、どれだけ地域につながりをもち、貢献しているかが重要なのだ。
祭りは非日常。
日常では、人間と人間の関係が難しく、人生がうまくいかなったりしても、
祭りという非日常は、空気を変えたり、気分を変えたりする力がある。
祭りは祈りのような場であり、人生の再スタートの機会にもなり得るのだ。
ぼくは、医療も優れた技術と奉仕の思い、祈りの思いをもって、地域医療をやってきた。
勉強会では、地域医療と祭りはつながっている、という議論で盛り上がった。

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いま諏訪中央病院の医師や看護師が、熊本の緊急要請を受けた病院に入っている。
諏訪中央病院のスタイルは、相手のいちばんつらそうな部分をサポートする。
東北の大震災の時も交代で支援に行くが、前任者と新任者が重なる日をもうけ、自分たちで申し送りし、現地のスタッフに負担をかけさないようしてきた。
そして、その場、その時に必要なものは何か考えてきた。
災害も非日常である。
医療や病院も、健康な人にとっては非日常だ。
非日常をどう乗り越えていったらいいか。
どうしたら安心できる日常に戻すことができるか。
みんなで考えていこうということになった。
とても有意義なディスカッションだった。
次回の勉強会のテーマは「医療と天災」、とても楽しみである。

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2016年5月 2日 (月)

地域包括ケアシステムとは何か2

ある小規模の有料老人ホームを訪ねると、リーダーが駆け寄ってきた。
彼女のお父さんを以前、診させてもらったことがある。
お父さんは、諏訪中央病院で手術してから元気になったが、交通事故で寝たきりになった。
お父さんを看た後、お母さんか寝たきりになったという。
今から15年前、ぼくたちが「福祉21茅野」という、市民を中心にした新しい地域包括ケアシステムを考えていたときだった。
そういう空気が町中に広がっていたのかもしれない。
彼女はすばらしい発想をした。
「介護に疲れ、このままでは、とんでもない事件を起こしてしまうかもしれない」と危機感を持ち、
自宅を改造し、5人が入れる有料老人ホームをつくったのだ。
家賃と光熱費は必要だが、入所時の費用はいらない。
そして、その横に、24時間体制の訪問介護ステーションをつくった。
利用者は、自分の母親のほか4人の合計5人。
昼間は3人の介護士、夜は1人の介護士がみる。
介護チームは23人、看護師もいる。
諏訪中央病院の元婦長も相談役になっている。

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認知症になって10年以上、徐々にのみ込みが悪くなって、のどでごろごろしている利用者がいた。
往診をしている医師の依頼で、嚥下の診断や今後の見込み、訓練などの評価をしてほしいという。
ふだん、このホームでは、食事の前、誤嚥を防ぐために、
この方が好きなイチゴを噛んで食べてもらう。
食べるという意識をもち、集中力を高めることで、誤嚥を防ぐためだ。
それでも嚥下が難しくなってきており、ぼくたちが呼ばれた。
在宅でできる内視鏡をもって、声帯や食道の動きを観察しながら、
食べるときの体位で変化があるか観察した。
みそ汁は明らかに気管に入っていることがわかり、要注意であることがわかった。
どんな食べ物がいいか注意しながら、あるポジションにすると、右側の食道壁を通って、胃のほうに流れ落ちることがわかった。
若い内科医が絵を書きながら、介護士やスタッフ、家族にわかりやすく説明し、教育すると、みな納得できたようだ。
きちんと安全に食べるために必要なことをおさえながら、
どんなに注意しても万が一のことがあるかもしれないことも確認。
そして、祭りの日など、特別な日には、患者さんが好きなカツを食べられるようにしたいね、という声も出た。
その旨を主治医に報告し、主治医もその方向で診ていくことになる。
ぼくも、この患者さんが笑顔を取り戻せるか楽しみである。
それにしても、このホームではいいケアが行われていた。
近所の子育てが終わった人たちが介護の勉強をしながら、こうやってお年寄りを助けている。
とても勉強になった。

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2016年5月 1日 (日)

地域包括ケアシステムとは何か1

地域医療のウォーミングアップをしている。
若い医師たちと勉強会を開いたり、在宅医療に同行したりしながら、新しい技術を学んでいる。
今回は、医師と諏訪中央病院の摂食嚥下専門ナースのペアでの在宅ケアに同行した。

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どこへ行っても、42年間の何らかのつながりがあるので、
「どこどこでお世話になりました」というあいさつから始まることが多い。
この
方にも大変お世話になった。脳幹梗塞で一時、寝たきりになったが、そこから回復。
嚥下障害があったが、嚥下訓練がうまくいき、自分の手でものが食べられるようになった。
会った瞬間、いい笑顔をした。
ドクターや看護師のいわく「こんないい笑顔は久しぶり」。
この同行では、ぼくはいるだけの存在だが、役に立っていると思えてうれしかった。

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