福島から、「核災12年に見る希望」と題した文章が届きました。
南相馬でクリーニング会社を経営しながら、若者たちと住民主体のまちづくりに取り組む高橋美加子さんによるコラムで、
未来ワークふくしまで配信されています。
https://mirai-work.life/magazine/4984/
「もう二度と故郷に帰れないかもしれない」
高橋さんは、お父さんが創業した会社を守るため、単身、南相馬に残ろうと思っていました。
しかし、福島原発が相次いで爆発し、慌ただしく避難。
南相馬の境にある八木沢峠までは来たとき、二度と帰れないかもしれないという気持ちがわいてきて、絶望感から全身の感覚が失われていったといいます。
その後、娘家族と合流。
家族全員で放射線スクリーニングを受けると、高橋さんの履いていた靴が基準値をオーバーし、そのまま没収となりました。
生まれたばかりの孫もいるアパートの玄関に、その靴を置いていたことに言葉を失い、見えない放射線の恐怖を実感したそうです。
「一人でも住む人がいれば、故郷はなくならない。私がその一人になろう」
南相馬が野犬と強盗のまちになっていると聞き、矢も盾もたまらず車で南相馬に戻りました。
震災から11日後のことです。
その夜、家の明かりもない、ただ街灯だけが白く光る光景に、「恐ろしい冷たさ」を感じたという高橋さん。
人の存在こそが「まち」であり、一人ひとりの命そのものがまちであることを確信したといいます。
2011年4月には若者たちと「つながろう南相馬」という団体を立ち上げ、住民を元気にする活動を始めました。
「いちばん印象に残っていること」として書いているのが、6月になり、復興活動に取り組む住民が心身ともに疲弊してきた時に開催した講演会です。
それが、鎌田實とさだまさしさんの講演会だったのです。
ぼくは、「にもかかわらずに生きる」というタイトルで講演をしました。
さださんは笑いを交えて語り、歌いました。
1,000人を超す市民が集まり、「被災後、初めて涙を流せました」という人がたくさんいました。
こうして住民による住民のための復興を進めてきた高橋さん。
子どものための屋外遊び場づくりや、保養支援、心のセルフケアなど様々な活動を行いながら、
たくさんの人とのつながりもできました。
「12年前の原発事故は絶望をもたらしましたが、絶望の中から生きようと立ち上がり動き続けた人がいて、被災地は空白地帯になりませんでした」
高橋さんの文章を読むと、人がいるかぎり「まち」ができ、そこに希望が宿ることを思わないではいられません。