2009年1月26日 (月)

妻が組長になった

今年から妻のさとさんが、隣組の組長になり、ぼくは地域の常会の副常会長になった。
地域の役がまわってくるたびに、今までさとさんはぼくの代理をつとめてきた。
でも、今年は、さとさんに組長が、ぼくには副会長がまわってきたのである。

さとさんが兼務するわけにもいかず、ぼくはとても受けることはできないと考えた。
区から脱会することを決意して、脱会を申し込みにいった。
昨年の暮れのことだった。

しかし、脱会は認められなかった。P1250316
「地域で生きていく以上、どんなに世界をとびまわっていても、ちっちゃな地域の共同体の仕事をしてもらわないと困ります」
こんな言い方はされなかったが、まさにそんな感じで、跳ね飛ばされてしまった。

暮れから引継ぎもあり、常会の集まりや区の集まりに顔を出すようになった。
やっとわかった。
こうやって、地域の共同体が守られているのか、と。

1年を通して、新年会があったり、運動会があったり、野球大会があったり、バレーボール大会があったり、子どもを遊ばす会があったり、文化講演会があったり、地域の人と人をつなげるしくみが、縦横無尽にあることに気が付いた。

雪が降れば、朝6時に有線放送が入り、みんなで自分の家の前を雪かきをする。
役がまわってきた年には、自分の家の前だけでなく、公的なところまで出かけていって、みんなで雪かきをするのである。

世話役がいて、何人かの面倒見のいい人たちがいることで、共同体が守られていることもよくわかった。
全員が地域の共同体に対して、熱い思い入れがなくても、一部の人が熱い思いをもっているおかげで、共同体はなんとか維持できている。
こういう視点の上に、ぼくがやってきた健康づくり運動があるということも、やっと見えてきた。

ヨーロッパからはじまった隣人祭りというのが、日本にも入ってきた。
都市や、会社が林立するビルの回りで、隣人祭りがはやりだしているという。

日本の地方には、まだまだ隣人祭り以上の、人と人をつなげるネットワークがある。
これが日本の宝なのかもしれない。
こういう大切なものを、壊さないように守り続けていくことが大切なんだろう。

2009年1月20日 (火)

ブラダン・コチのおもてなし

「わが人生、最良の瞬間、輝ける30人の幸福論」
文芸春秋2月号の特別企画である。

ぼくも寄稿している。 2_2
ぼくの最良の瞬間とは、何か―ー。

ぼくは人に支えられる人生を送ってきた。
子どものころは、食べるのが大変だった。
たくさんの人に助けてもらった。
食事を食べさせてもらったことも多い。

なんだかそれが身についたのか、いつも人生の大事な節々で、忘れられない食卓に招待された。
イラクの子どもたちを助けたいと思って、イラクやシリアやヨルダンを訪ねたときにも、ぼくたちが遠く日本から来たことを知ると、自分たちの大切な食べ物をテーブルに並べ、もてなしてくれた。
多くは、日々の生活を送るのも困難な人たちが、である。

最高のおもてなしは、チェルノブイリの原発事故の被害にあった地域のおばあちゃんの食卓だった。
ぼくたちが子どもの診察をしたあと、おばあちゃんは、畑仕事をそっちのけで、ありったけの食事を食べさせてくれた。

昨年、がんばらないレーベル第3弾のCD『ふるさと~プラハの春~』の制作に行ったプラハでも、チェリストのブラダン・コチから、手作りの夕食のおもてなしを受けた。
囚人となっても、自分の哲学を曲げず、民主化を成功させたチェコのチェリスト、ブラダン・コチの夕食は、シンプル・イズ・ベストであった。

彼が二日間、手間ひまかけてつくったスープ。
それに、ワインとパンと、少量のチーズ。
しかし、あたたかな晩餐であった。
ぜいたくをしないブラダン・コチの生き方がまざまざと感じられた。

友人ブラダン・コチが、3月13日、東京の津田ホールでチャリティーコンサートを行う。
ぜひ、聴きにきてください。
彼の音楽でのおもてなしを感じられるはず。

コンサートについては、鎌田實ホームページをご覧ください。

2009年1月 8日 (木)

お正月に、ちょっとうれしいニュース

昨年秋から年末にかけて、ずっと怒り続けてたカマタだが、お正月にちょっとうれしくなったことがあった。
1月2日に厚生労働省は、派遣切りされ、仕事と住まいを失った人たちに、5日朝まで講堂を開放した。
派遣切りされた人たちを救済する実行委員会が、「年越し派遣村」を設置したが、希望者が予想以上に集まり、300人を超えたため、テントが足りなくなってしまった。
この実行委員会のSOSに対して、厚労省が正月の緊急避難的な措置として、路上生活をしないですむように、講堂を貸すことになったのだ。
大ヒットである。

こういうあたたかな話が続くことが大事なのである。
麻生さん、ぐずぐずしてはいけない。
各地方で派遣切りをされた人たちのパートタイム雇用など、仕事をつくりだすことを、国も県も市町村もそれぞれが責任をもってやるべきである。
とにかく、冬の寒さのなかで、あったかな政策をつくりだすこと。
今年は「あったか」をキーワードにして、国づくりをしていけば間違いないと思う。

もう一ついいなと思ったことがあった。
公明党の太田代表が、成田-羽田間にリニアを開通させるという公共事業を起こしたらどうかと提案した。
この人の顔は、何かいつも陰険な感じがして好きではなかったが、これはグッドアイデアである。
こうなった以上は、公共投資は一年はがっちりやらないといけないだろう。
やるなら無駄なことはしないこと。
いらない道路やいらないダムではなく、将来につながるような公共投資をすべきなのである。

オバマは、ホワイトハウスの省エネをするという。
自分から電気のスイッチを消して、省エネをすると言っているらしい。
オバマは、グリーン・リカバリーを訴えている。
だから、経済もしばらくの間、冷える。
電気の使用量も減る。
石油の価格も落ちる。
こんな状況のときに、原発をバタバタつくるというのは、愚の骨頂である。
そういう無駄な公共投資ではなく、成田-羽田間のリニア開通を行うとか、ハブ空港をつくるとか、世界につながっていくような整備をすることが、この国のチャンスになるのである。
太田代表の顔はあまり好きではないけれど、今回の提案は大賛成。

~~ちょっとお知らせ~~
本日8日公開の月刊ココセレブで、鎌田實のブログ「なげださない」が、2009年注目のブログとして紹介されている。
今年もこのブログ、前向きに生きるヒント盛りだくさんでお送りしたい。

2009年1月 1日 (木)

新年おめでとう!

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

2009年もイラクやチェルノブイリの子どもを救うために全力投球です。

子どもたちとそろって、1月1日の料理を食べた。Photo_11
お正月は、多くの家庭で祝い箸を使う。
箸の両端がまるく細くなっているもので、両口箸ともいわれる。
12月31日からお正月にかけて、ご先祖さまがお年とりに戻ってこられる。
そして、自分のルーツの人たちと一緒にごはんを食べる。
このため、お箸は、ご先祖さまが使う側と、自分が使う側との両方があるらしい。

なるほどな、と思った。
こころのなかで、自分を産んでくれた父や母に感謝する。
その父や母の上には、おじいちゃんやおばあちゃんがいて、さらにその上には、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんがいる。

ぼくのうちはどんな家系なのかよくわからないが、ぼくのうえにはずっと脈々とつながっている命があることは間違いない。
どうしようもなかった親もいただろうけど、そんなのお互いさま。
へんな人がいるなんて、当たり前のこと。

人類の歴史は、700万年前までさかのぼると、みんなアフリカのサバンナではじまっている。
もっとさかのぼれば、38億年前、地球上に命が芽生えた。
そのときから、命は脈々とバトンタッチされ、伝えられてきた。

つながっていることを自覚するのが、お正月の役割。
いま生きている水平的な絆とともに、自分たちの子孫や祖先へとつながっている垂直的な人とのつながりを、家族とともに料理を食べることで実感できる。
それを示しているのが、まさにお正月に使う箸の形なのだと思う。

1日は、夜6時に諏訪中央病院に行く。
恒例のアルコール依存症の人たちのミーティングにちょっとだけ参加して、あいさつをさせてもらう。
緩和ケア病棟にも行き、お正月も病院に残っているがんの末期の患者さんたちの顔をみてきたい。

本年もよろしくお願いいたします。

写真は、奥志賀高原のブナ林で自然から力をもらっているカマタ。
この時の健康を守るための食と自然の講演がもととなって、今年、本になる予定

005_5ぼくの今年の年賀状を見て下さい。

2008年12月31日 (水)

旅人カマタの2008年

2008年もいよいよ最後の日。
忙しい1年だった。

2月にスイスに氷河を見に行き、そこで『いいかげんがいい』のエッセイに登場するような劇的な人物とも出会った。Photo_2

川のように見えるのは氷河の跡である。
温暖化をなんとかくいとめなければいけない。今年はアイガー東壁が崩壊した。スイスの氷河も、ものすごい溶け方であった→

Photo_3 ←氷河の中に入ると水が滝のように溶け出していた

5月末には、障害者100人ほどをお連れして、ハワイに行った。
ちょうどこのころ、鎌田實のブログ「なげださない」を始めた。
まさか半年間で、16万人もの人が見に来てくれるとは思わなかった。
1月8日公開の月刊ココセレブでは、2009年注目のプログ特集で、「元気のでるブログ」として紹介されるようである。
たくさんの人に、健康のひけつや生き方のヒント、カマタ流経済危機への処方箋、B級グルメ、映画、音楽、芝居、本・・・など、多面的な評論を展開したいと思ってきたが、なかなかいい線をいっているかなと思っている。
来年は、自分でかいた詩のような文章をのせ2られたらいいなあ。 Photo_6

アイスランドで講演。たくさんの人が集まってくれた→

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←ニューヨークのテロを受けたグラウンドゼロ地点

6月からは、オランダからノルウェー、アイスランド、グリーンランド、ニューヨークという船の旅をした。
たくさんの美術館を訪ねた。
ブロードウェイのミュージカルもみてきた。
北極の環境の調査もしてきた。
Photo

メトロポリタン美術館でゴーギャンの絵を見た。
下っていく男が好きで、来年はゴーギャンが流れていったタヒチを見に行こうと思っている→

Photo_3

←ジュネーブで講演。毎年JCFへ寄付をしてくれるジュネーブの人たちへのお礼

そのあと、チェルノブイリへ行き、チェコのプラハでレコーディングをし、スイスのジュネーブで講演をし、フランスPhoto_5のシャモニーの氷河をみた。
もちろん、イラクのなかに入り、子どもたちの診察もしてきた。

シャモニーの8月。氷河は小さくなっており温暖化は確実に進んでいることがわかった→

Photo_4

←氷山の浮かぶ北極海

Photo_5

イラクの難民キャンプの中で勉強する子ども→

Photo_6

←ヨルダンのダウンタウン。
ここにも病気の子どもたちがいる。
僕たちは診察して歩いた

Photo_7

チェルノブイリの原発事故により、60キュリー以上の放射能の汚染が残っている村。埋葬の村と言われていた。
地図から消されて人が住んでいないはずの村に、老人がふるさとを捨てられずに生活をしていた。
事故後、22年もたっているのに放射能はまだきれいになっていない→

あわただしい1年だった。
世界の新鮮な写真やおもしろい話をブログで紹介しているので、バックナンバーもぜひ、見てほしい。

Photo_8

←カフカの愛した迷宮プラハと、↓プラハ城下の黄金小路。カフカは、水色の小さな家の中で「変身」を書いた

いちばん心に残ったのは、フランツ・カフカが「変身」を書いたといわれるプラハ城内の長屋だ。
錬金術師や職人たちが住んでいたという長屋の一室。Photo_9
役人をしていたカフカは、この部屋を借りて、夜になるとここで執筆したという。
小さな間口の、質素だけれど美しいつくりの部屋だった。

「ある朝、グレーゴル・ザムザが、何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床のなかで一匹の巨大な虫に変わっているのを発見した」

こんな不思議な、不条理な文章ではじまる小説は、ここから生まれた。
19世紀末の、単なるニヒリズムではなく、新しい世界を予感しながら、その世界が一筋縄ではいかないことを示しているような、暗鬱な文章だと思う。
カフカが、永遠の異邦人といわれるユダヤ人だったことも、大きく影響しているのだろう。
自分の存在している場所がなかなか見えない世界、それは、いまユダヤ人だけではない。

世界中の多くの人々が、現代のなかで、どこから来て、どこへ行くのか、わからなくなりだしている。
そんな時代を暗示する「変身」をもう一度、読み直しながら、世界をみてきた2008年だった。
これらは、何らかの形でぼくの作品のなかに影響するだろうと思う。

2008年12月30日 (火)

チョコレートの注文、1万個突破

12月21日付の読売新聞で、イラクの病気の子どもを支援するバレンタインチョコレートの募集中の記事が掲載された。
先日、出演した大竹まことさんのゴールデンラジオと、永六輔さんの土曜ワイドでも、何度も取り上げていただいたおかげで、すでにチョコレートの注文が1万個を突破した。

とくに、永さんの土曜ワイドでは、番組の途中からかつない反響がわきあがり、
JIM-NETの事務局の電話はパンク寸前。
何度、電話をかけてもつながらなかった人、ごめんなさい。 081220_2

マスコミがたいへん応援してくれるおかげで、このチョコレート募金に、ものすごいエンジンがかかりだした。
感謝です。

チョコレートの注文は、JIM-NETの事務局で受け、発送はJCF(日本チェルノブイリ連帯基金)の松本の事務局から、という形をとっている。
反響の大きさに、うれしい悲鳴。
これから大変な状況が続きますが、よろしくお願いいたします。

チョコレートは7万個完売が目標。ぜひ、イラクの病気の子どもたちの治療費にご協力を!

お問い合わせ、ご注文はこちらへ。

写真は、永六輔さんの土曜ワイドに出演したときのもの。レポーターと、なつかしい杉並区堀ノ内の妙法寺で

2008年12月28日 (日)

大先輩たちとのいい時間

評論家の秋山ちえ子さんのお招きで、永六輔さんとNHKラジオの村上信夫さ081213んと、銀座のざくろでおいしいお肉をいただいた。
毎年暮れに、永さんか、秋山さんが招待してくれる。
もう3年目になる。

楽しくて、刺激になり、勉強になり、大先輩からきびしい指導をうける時間でもあり、栄養をとる時間でもある。
しあわせホルモンのセロトニンが分泌される時間であった。

Photo 秋山さんは、毎年8月15日の終戦記念日に、『かわいそうなぞう』(土家由岐雄著)という絵本を朗読している。
戦時中、餓死させられた動物園の象のお話だ。
それはそれは見事な朗読で、目の前で、ラジオのマイクに向かって朗読する姿をみたときは、たいへん感動的だった。
ラジオの仕事はやめたと言うが、まだまだお元気。
「8月15日は元気でいる限り、ラジオで象の絵本を朗読し続ける」と、にこにこしてお話してくれた。

若々しくて、美しくて、すてきな92歳。
ぼくも、こんなふうにうまく歳がとれたらいいなあ。

 写真は、ざくろの霜降り牛(右)と、秋山さんが朗読しているCD。

2008年12月27日 (土)

寄付に感謝!

次々に寄付をいただきました。 081217_2

茅野市更生婦人の会の方々(=写真右)が、茅野市の名産を売った利益の4万円を寄付してくださいました。

1215_2諏訪中央病院看護専門学校の学生たち(=写真左)が、文化祭のバザーで の売り上げ約5万円を寄付してくださいました。

どちらも、チェルノブイリ連帯基金への寄付。病気の子どもたちの医療支援として有効に使わせていただきます。

本当にありがとうございました。

パッチワーク作品をありがとう!

ほろ酔い勉強会が終わると、毎年、ぼくのファンの方が、パッチワークを届けてくれる。

081218f 今年は、ひまわりをモチーフにしたすてきな作品だ。大輪の、あたたかなひまわりが咲きほこっている。そのひまわりのなかを、カマタらしいほのぼのおじさんがとび回っているのもいい!

チェルノブイリやイラクの子どもたちの薬代になるようにと、鎌田がプロデュースしたジャズのCD「ひまわり」が、たくさん売れるようにという願いを込めて、つくってくれた。

うれしくなってしまった。

毎年、ありがたいなあと思う。

2008年12月25日 (木)

男同士のクリスマス

081224_2  ぼくが兄と慕う画家・原田泰治さんと、一緒に食事をした。081224_3
えびの頭の、から揚げを食べた→。

しぶすぎる、男同士のメリークリスマスである。

2008年12月23日 (火)

鎌田塾はじまる

全国の病院で、医師不足が深刻ななか、第1回鎌田塾が開かれた。

諏訪中央病院で地域医療を継承している内科の高木先生が、音頭をとってくれて実現した。
「レジデント6、7人に、一杯飲みながら、諏訪中央病院の地域医療の歴史を語ってほしい」と言われ、当日行ってみると、若い医師だけでなく、中堅やベテランの医師も加わり、総勢なんと32人!081217
おいしい「横綱」の焼肉にひかれたのかもしれないが、こんなにたくさんの医師たちが、地域医療に関心をもって集まってくれたのが、うれしかった。

デイケアのはじまりのころに撮影した、古い8ミリを探し出して上映した。
地域でいのちを支える活動の原初的な事業であり、日本ではじめてのデイケアが、どんな形でおこなわれだしたのかを語った。

久しぶりに若い人たちに囲まれて、しあわせな時間だった。

第2回鎌田塾では、どのように健康づくり運動がはじまったかを話すつもり。
地域の人々とのつながり方も、伝授しようと思っている。
主宰の高木先生は、3月の開催を計画している。

今回は奈良医大の学生も参加した。
全国の医学生も、この時期に諏訪中央病院で研修しながら、鎌田塾に参加してみるのも魅力的な計画かもしれない。

写真は、鎌田塾に集まった若い医師に囲まれて、ご機嫌なドクター鎌田

★先日、朝日新聞のインターネット新聞「どらく」の取材を受けた。
カマタが思う「いい加減」のかっこいい生き方や、医師として、一人の人間としてどう生きてきたか、などを語っている。

こちらもぜひ、ご覧ください。

2008年12月21日 (日)

チョコレートに申し込み続々!

イラクの病気の子どもたちの救援活動として、チョコレートの販売を行っている。
六花亭のチョコに、イラクの白血病の女の子たちが描いてくれたイラストが添えられている。
今月からインターネットでの先行販売を開始したところ、たくさんの人たちの後押しがあって、続々と申し込みが届いている。Photo_6
新聞やラジオ、インターネットなど、あちこちで取り上げてくれたことが、大きいと思う。
感謝、感謝、感謝です。

まだの方は、クリスマスプレゼントやバレンタインチョコレートとして、ぜひ、どうぞ。
一個のチョコが、白血病の子どもの一日の薬代に相当する。
“哲学のある”プレゼントは、きっと贈られた相手にもいいメッセージが伝わると思う。

問い合わせは、JIM-NETへ。

イラクのバグダッドの小児病院のドクター、マーゼン先生と、もう一人の医師の研修が、信州病院ではじまる予定だったが、入国のビザがうまくとれず、1カ月延期となってしまった。
講演会の準備をしてくださっていた人や、研修のために準備をしてくださっていた大学の先生がたには、たいへんご迷惑をかけしました。
来月、もういっかい仕切り直しで、イラクのドクターたちへのご協力をお願いしたいと思います。

2008年12月19日 (金)

冬、到来―

 

雪が降りました。
里山も真っ白になりました。
雪に朝日があたり、輝いています。
いよいよ信州に、ほんものの冬がやってきます。

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2008年12月 5日 (金)

収穫祭

Photo 諏訪中央病院のグリーンボランティアたちが、野菜を育ててくれた。

形はあまりよくないかもしれないが、水分を含んでつやつやのニンジン、太陽をいっぱい浴びたトマト、そのへんのスーパーでは、ちょっとお目にかかれない。

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ニンジンを、生のままかぶりついた。
あまくて、うまい!

収穫に感謝して、みんなと一緒にガーデンランチ!

楽しく、おいしいひとときだった。

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2008年12月 1日 (月)

日本人はどこからやってきたのか

「日本は単一民族」という偏見をもった大臣がいた。
日本人は、どこから来たのか、興味深い。

アメリカのオッテンバーグや、日本の古畑種基らの考えをもとにすると、
今から2万年くらい前に南方系の人々が海を渡ってやってきたらしい。
この、太平洋諸島からやってきた人たちは、血液型ではO型が多かったらしい。
少し時代が下って、1万4千年くらい前には、モンゴル平原に住んでいたモンゴロイドが、おそらく北からやってきた。
彼らは、血液型でいうとB型が多いという。
カムチャツカ半島や間宮海峡は、当時、凍っていたのではないかと思われ、氷で陸続きになっていた海の上を渡ってきたらしい。

これは、それまでいた南方系のO型の人たちにとって、大事件である。
北方系のモンゴロイドに追われ、日本列島の北と南に別れていく。
アイヌ民族の人たちは、南方系の血の影響も受けているのではないかという説もある。
沖縄とアイヌの人たちは、文化的に似ているところもあるらしい。

1120 この南方系の人たちは、オッテンバーグによると、太平洋アメリカ型という人たちだ。
すなわち、約2万5000年くらい前にO型のモンゴロイドが、シベリアからベーリング海峡を越えて、北アメリカに移動し、アメリカインディアンになったという人たちである。
その大移動の途中で、一部の人たちが、南方から日本にやってきたとすると、
今年7月、僕が出会ったイヌイットの人たちと、いちばんはじめに日本にやってきた人たちは、同じ人々だった可能性がある。
さらに詳しくみてみると、この人たちは天山山脈のあたりにいて、カムチャツカ半島から入ってきたという説と、朝鮮半島から入ってきたという説が分かれる。

約6000年前には、雲南省にいた血液型A型の湖南型の人たちが日本にやってきた。
約2000年前には、もう一度、新しい人たちが、朝鮮半島を経て北九州へとやってくる。これが弥生のはじまりだ。

おそらく、日本人は、このようなたくさんの人たちの流れの下で形成された。
多様な種族が織り交ざって、日本という国家ができた。
当然、日本の皇室も、日本民族という純血ではなく、おそらく南方からか、湖南型の大陸から移ってきた人か、天山山脈に住んでいた人々の血を受け継いでいる可能性が高い。

そもそも、大きく考えれば、700万年前、アフリカのサバンナに人間らしきものが生まれ、700万年という大きな流れのなかで、移動し、地球上に広がっていった。
その過程で、生き抜くために白い肌や黄色い肌や黒い肌や、さまざまな遺伝子を獲得していったのだ。
さらに、38億年前にさかのぼれば、僕たちは一滴の細胞だった。
この細胞が、「伝える」という機能DNAと、「代謝する」という機能を備えたために、いのちは悠々たる歴史をつむいでいる。

「単一民族」などという偏見は、いのちを軽視する。
日本のリーダーである大臣になるような人が、もってはいけない発想だ。

2008年11月27日 (木)

“義理チョコ”募金、いよいよ予約開始!

「限りなき義理の愛大作戦」が今年も始まる。Photo_2
パッケージのイラストは、イラクのがんの子どもたちや難民の子どもたちに描いてもらったもの。
中身は、六花亭のおいしいアーモンドチョコだ。
一つ買っていただければ、白血病の子どもの一日分の薬代になる。
バレンタインデーの義理チョコに、ぜひ、どうぞ。

Photo
申し込みの受付は09年1月5日からだが、eメールによる先行予約は12月1日から開始。
4口(2000円)を1セットで、セット単位で注文を受けている。
問い合わせは、こちらへ。

11月11日の介護の日、松本市の県民文化ホールで行われた講演会に、2000人の人が集まってくれた。
会場は満員である。
先行販売した義理チョコ募金と、「がんばらないレーベル」のCDをたくさん買っていただいた。
約50万円の売り上げは、イラクやチェルノブイリの子どもたちのために大切に使いたい。

ご協力、ありがとうございました!1111
そして、これからもよろしくお願いいたします!!

      <会場にもうけられた介護機器の展示コーナーを階上からパチリ→>

2008年11月26日 (水)

教科書にない一回だけの命の授業

八ケ岳の紅葉を見ながら、白樺湖を越え、上田市にある依田窪南部中学に「教科書にない一回だけの命の授業」をしにいった。
年間何回か、中学校や高校で、子どもたちに命の授業をしている。
これは僕のライフワーク。

ちょうどこの日は、父兄参観日だという。
僕の『雪とパイナップル』の絵をカラーコピーしたものが、黒板にたくさん貼られていた。
僕も父兄に混じって、後ろのほうで授業を見せてもらった。

子どもたちは必死にディスカッションをしていた。Photo
感激した場面や、感想を述べ合っていた。
ひとつの絵本を通して、この教室にあたたかな風が吹くかなあ--。
そう思うと、作者の僕はうれしくなった。

体育館には、子どもたち約250人と、父兄や地域の市民の方たちが250人集まり、田舎っぽい、いい講演会が行われたと思う。
特殊学級の子どもたち4人が、玄関まで見送りに来てくれた。
『雪とパイナップル』の絵本を、先生は何度も何度も、読み聞かせたという。
忙しいなかで、来るのをずいぶん迷ったが、やっぱり来てよかったと思った。

たくさんの生徒が見送ってくれた。
僕の車が出ると、何人もの子どもが車と一緒に走って、手を振ってくれた。

地方だからこそ残っている、あったかな風が、たしかに、たしかにあると、僕は確信した。

<写真は、教室の授業風景>

2008年11月23日 (日)

それでも夕日は落ちている!

1119_2  3歳になる孫が、はじめて写真を撮った。
岩次郎小屋からの夕日である。

僕は『いいかげんがいい』という本のなかで、交感神経と副交感神経の両方の時間をバランスよくもつことが、健康にも幸せにもつながると話してきた。
たとえば、夕日が落ちていくときに、数秒の間でも、仕事の手をとめて、「わあ、きれい」と感動すること。
それが、副交感神経を優位にし、血管にも免疫系にもいい効果をもたらす、といい続けてきた。

3歳の子どもが、はじめてカメラを握った。
彼は、なぜだか、夕日に向かってシャッターを切った。
もちろん、ゆがんだ写真が何枚もあったが、一枚、“傑作”が撮れた。
それが、岩次郎小屋の夕日だった。

夕日は、日本中どこでも落ちている。
いや、日本中だけでなく、世界中どこでも。
夕日は間違いなく、落ちているはず・・・。
その夕日に気がつくかどうか、それが大切なんだ。

2008年11月22日 (土)

鎌田先生、バンザイ!

「鎌田先生バンザイ」という寄稿が、地元の新聞に大きく取り上げられた。

「私はもう80歳近い。いつお迎えがきてもいいが、痛みのない日がほしい。先生、がんの痛みなどに使うという絆創膏のようなものを使って、一日だけらくな日を何とかつくってもらえないかえ」

7月のある診察日、私は諏訪中央病院名誉院長の鎌田先生に直訴した。

平成14年春、柿の木の丸太をかついだまま、自宅横の川に転落、第一腰椎の圧迫骨折を負って以来六年、脊椎狭窄症や腎臓病や大腸の病気、膀胱などの病気で次々に手術。
いつも土俵際で奇跡的に助かってきた。
しかし、脊椎狭窄症のために、足のしびれは最近いちだんと強くなり、痛みのない日はなかった。
腎機能も低下しており、脊椎の手術は危険すぎた。

武(たけ)さんの泣きそうな顔で、僕は何とかしてあげたいと思った。
緩和ケア病棟の平方先生の予約外来をとった。

緩和ケアの専門医である平方先生の治療は、功を奏した。
武さんに冗談が戻ってきた。
そして、自称エッセイストの武さんが久々に地元新聞に寄稿したのである。
大きな取り上げ方である。

1110 武さんの言葉はいつも痛烈だ。
僕はツッコミ返す。
だが、武さんも負けてはいない。
「なんで先生、いつもふらふら遊んでいて、どこにいるかわからねえ。どこへいっちゃったかな? なんて思っていると、地球の裏側からコンニチハなんて声を出して、ほんとにしょうがねえもんだ」

僕は笑うしかなかった。
その通りなのだ。
僕は苦笑しながら言った。
「武さんは、言いたいことを言って、あくたれて、一杯飲んで元気でいるのがいい。地元新聞に投稿するくらいにね」

やっと、武さんの、武さんらしい寄稿ができた。
うれしい文で結ばれていた。
武さん曰く、
「もっとも信頼でき、大好きな鎌田先生、万感の感謝をこめて、鎌田實先生バンザイ」

こんな患者さんがいる。
だから、病院は辞めたけど、外来は止められない。
なんとも、うれし、はずかしである。

写真は、内科外来で、武さん夫婦と

2008年11月19日 (水)

岩次郎小屋に初雪が降った

1119_3

今朝、岩次郎小屋に初雪が舞った。

諏訪中央病院の唐松が紅葉し、いよいよ里は本格的な紅葉の季節になった。
唐松の紅葉が最盛期を迎えたあとは、針の葉が雪のように散っていく。
このときの美しさは、息も止まるほどである。1110

その唐松に、今朝は初雪が舞っている。
季節は、晩秋を一気に駆け抜けて、冬になりかけている。

2008年11月11日 (火)

筑紫哲也さん、ありがとう

Photo_2 一人のジャーナリストが亡くなった。

筑紫哲也さん、73歳。

昨年、松本市にある、親友・高橋卓志さんのお寺で行われた、辛淑玉(シンスゴ)の生前葬で、筑紫さんと隣同士になった。

これから、肺の治療なのだと聞かされた。
肺がんの入院治療をはじめる一週間ほど前のことだった。

その後、風の便りで、厳しい状況だと聞かされ、心配をしていた。

筑紫さんが元気だったころ、ニュース23で、伊那の高遠城址公園の夜桜を、全国中継したことがあった。
そのとき、ゲストとして出演させていただいた。
「がんばらない」という意識性について、満開の桜の下、語り合った。
がんばりながら、がんばらないという視点のユニークさを評価してくれた。
たいへんうれしかった。

経済が崩壊し、不透明な時代だからこそ、筑紫さんのような鋭いジャーナリストが必要とされている。
残念である。

ご冥福をお祈りする。

2008年11月10日 (月)

外国人健診

外国人の健康診断が諏訪中央病院で行われた。
毎年、秋の恒例である。

諏訪盆地全体の精密機械工業で働く人たちを対象にしている。11022
かつて景気がよかったころは、1日の労働時間が15時間にも及ぶ人がいたが、いまは8時間くらい。
「もう少し働いて、はやく母国へ帰りたい」と本音を言う人もいた。
日本人と結婚したフィリピンの花嫁もいた。
みんな「日本が好き」といってくれる。
虐待やいじめに遭っていたりすることはなさそうだと、ちょっと安心した。
外国人に対して、きちんと健診をする企業も多くなった。
この健診も、少しずつ受診者が少なくなってきている。

1102 健診にボランティアは欠かせない。
ベテランの医師や若いレジデント、看護学校の学生たちがたくさん参加してくれた。
地域のボランティア、国際交流クラブの方々も、通訳に参上してくれた。
今回は、ブラジルのドクターも来てくれ、ボランティアが豊富にそろった。
「私のこと、覚えていますか?」
突然、声をかけられて、すぐに思い出せなかった。
「左(さ)です」
と言われ、おおっと思った。
中国から諏訪中央病院看護専門学校に留学し、松本で働いている左さんだった。
たいへん美しくなっていて、見違えた。
ボランティアとしてかけつけてくれるなんて、とてもうれしい。

みんなが少しずつやさしい気持ちになって支え合えば、
これが日本のセイフティーネットになる。

この日の諏訪中央病院は、明るく華やいだ空気があふれていた。

70人のボランティアの方々、どうもありがとうございました!

2008年11月 9日 (日)

殴られる

中学生のころ、猛烈なビンタをくらった。
今でも忘れられない痛さだ。
中学3年のときだったと思う。
殴ったのは、社会科の青柳先生。殴られたのは野球部の悪ガキ、6人くらいいたかと思う。
横に一列に並ばされ、足を踏ん張れと言われて、思い切り頬を殴られた。

11062_2先生は30歳くらいだったろうと思う。
僕らは15歳の少年。
野球部の試合がある日だった。
対外試合のため、お昼を済ませて集まる予定だった。
だが、弁当をもってこない悪ガキどもは、授業を一時間エスケープして、中学校の横にあるラーメン屋にもぐりこんだ。
見つかってしまったのである。
6人もが授業を抜け出していれば、見つかるのは後から考えれば当たり前だったと思う。

殴られてびっくりした。痛かった。
でも、不思議と、根にもつようなことはなかった。
当たり前だと、6人の悪ガキどもは納得をしていた。1105
ルール違反をしたときには、ときには殴られるということも大事なのではないか、と悪ガキどもは思った。

Photo_7 その青柳先生と久しぶりに会った。
僕たちは60歳、還暦を迎えて、同級生がたくさん集まった。
青柳先生が、同級会に参加をしてくれたのだ。
77歳の青柳先生はかくしゃくとしていた。
この先生のおかげで社会科が好きになった。
授業のたびに、要点をまとめた、何枚ものプリントをガリ版で刷ってくれた。
社会の勉強の仕方を教えてくれた。
今も役に立っている。

1105_2 野球部の顧問をしていた。
一度、学校の事情で野球部の顧問はほかの先生に変わったが、僕たち悪ガキは、職員室に乗り込んで、
青柳先生に顧問をしてもらいたいとお願いにいったことを覚えている。
殴られても青柳先生が好きだった。
情熱はわかる。
悪ガキどもにも、だれが自分たちを熱い気持ちでみてくれているか、よくわかるのである。

青柳先生がそのときのことを克明に覚えてくれていること110もうれしかった。
殴るのも本気だったし、殴られるのも本気だった。
お互いが一生懸命生きていた。
いい時代だったなと思う。

悪ガキのカマタは45年たって、ちょい太のうまいもの好きになった。

京都出張の夜は、京のおばんさいに舌鼓。写真は、かきごはん、卵焼き、そしてフレッシュなトマト。おいしかった!

2008年10月30日 (木)

動かないことを選んだ植物

081028 38億年前に、地球上に生命が生まれた。
少しずつ変化をしながら、一つ細胞が複雑な生命になっていく。
その進化の道筋のあるところで、劇的に枝分かれが起こる。
一方は動物へ、もう一方は植物へと。

植物は、動くことができない生き物となった。
動けないのではなく、動かないことを選んだような気がする。
植物と動物のDNAは、7~8割が同じと聞いている。
植物には植物の敏感な選択があって、動かないことを通して、生き抜こうとする仕掛けが作られているのではないか。

パラドックス。
逆転の発想をしていくと、見落としていたものが見えてくることがある。

閉じこもっている子どもや、学校に行けない子どもは、閉じこもる力をもっていると考えるほうがいい。
なんだか、子どもの問題を解決してあげられるような気がする。
キレる大人や暴走老人、クレーマーだって、そうだ。
ちょっとうんざりではあるが、キレ続けることができる人、文句をいい続けることができる人は、脳の中にドーパミンがほとばしっていて、並外れた集中力をもっている人なのかもしれない。
ただ、ちょっと方向性が違うだけだ。
ボタンのかけ直しができれば、生き抜くために大切な力になる。
逆転の発想は、病気の治療にも、生き方の軌道修正にも役に立つと思う。

2008年10月27日 (月)

看護学生の一日研修

今年も、松本看護大学の学生たちが一日研修で、諏訪中央病院にやってきた。081027

一時間半たっぷり、レクチャーである。
できるだけ看護の大切さをわかってもらおうと思って、こっちも懸命だ。
いい感性とすぐれた技術をもち、患者さんのこころがわかる看護師になってもらいたい。
そんな、きっかけの時間になればいいなあ。

午後は予約外来。
56人の予約が入っていた。
「いいかげんがいい」なんて言いながら、ついついかげんを忘れてしまって、がんばってしまうのだ。

(写真は、レクチャーを終えて、看護学生たちと)

2008年10月21日 (火)

小さな秋の一日

訪問看護の実習で、看護学生をつれ、97歳のおじいちゃんの家を訪問した。
僕とおじいちゃんは、27年来の付き合いである。
ご家族も、27年間、おじいちゃんを看てきた。
いま介護度5、完全に寝たきりであるが、おじいちゃんは明るい。

八ケ081021岳の山々は、紅葉で色づきはじめている。
いい空気を吸い、いい景色を見て、原村の往診を終えた。

病院に戻り、ホスピス病棟を回診すると、病室ででれっと寝ているヤツがいた。
患者さんのおうちから、ヒメという犬がやってきていたのだ。
ヒメは、ほかの患者さんをびっくりさせたりしない。Photo_2
頭のいい犬である。
いつも静かにしていてくれる。
ヒメのおかげで、空気がなごむ。
ファンも多い。

秋の収081021_2穫祭のこの日のメニューは、豚汁に栗ご飯、それに舞茸の天ぷら。
季節の恵みは、体にもこころにも栄養たっぷり。
栄養士と調理師が地下の厨房から上がってきて、ホスピス病棟でいろいろな料理を作ってくれる。
さつま芋がふける、甘いにおいが漂っている。

幸せな、秋の日の病棟である。

ポール・ニューマンを偲ぶ

ポール・ニューマンが先月、83歳で亡くなった。

「私はじつに普通の男です」
これが、彼の口癖だったらしい。
だが、なかなかどうして。
銀幕のスターであっただけでなく、人間としてもかっこよかった。

4年前からイラクの子どもたちを支援するようになって、ポール・ニューマンの名をよく聞いてきた。
彼は、ポール・ニューマン財団を創り、イラクの白血病の子どもたちをずいぶん助けていたのだ。
僕たちが手を出せないような高額の治療を必要とする子どもたちも、ポール・ニューマンのおかげで、治療を受けることができた。
その子どもたちの治療が軌道に乗ったあと、後半の支援を僕たちが引き継いだこともあった。

ベトナム戦争のときにも、リベラルな立場を貫き、反戦や反核を唱えた。2
こういう人がたくさんいることが大事なんだろうなと思う。

ご冥福を祈りたい。

『明日に向かって撃て!』での、ロバート・レッドフォードとの共演はとにかく感動した→

2008年10月16日 (木)

平成の米百俵

081020 諏訪中央病院に、新潟のコシヒカリが大量に届いた。
昨年7月16日、再び新潟は震災に遭った。
そのとき、たくさんの支援で、毎日おにぎりが届けられたという。

「未来予想図プロジェクト」が地域で立ち上がった。
子どもたちに未来の絵を描いてもらい、展示会をしてお金を稼いだり、
子どもたちと一緒に、有機農法で無農薬の米を育て、はざかけまいを作った。
たくさんの支援をもらった恩返しに、今度は途上国に支援をしたという。

震災時、諏訪中央病院からは、車いっぱい点滴や薬をつめ、医師や看護師を派遣した。
鎌田も新潟日報の依頼を受け、毎月1回1年間、一面を使ってメッセージを贈った。
鎌田實の筆文字とともにエッセイを描き、企業の協力を仰いで広告とし、震災に遭った子どもたちへのサポートにあてた。
「がんばらなくていいけど、あきらめない」というメッセージが、うれしかったという。
そのときの僕の筆文字は、今年のカレンダーになった。大変好評だった。

新潟の子どもたちからもらったお米は、諏訪中央病院の病気と闘う患者さんたちに食べてもらうことになった。
おいしい新米とともに、そのいわれを、鎌田が筆文字で書き添えた。

081020_2 「たくさんの人の支援と手で生まれた、あたたかいお米をいただいております。震災からの心の復興を目指していることが、ひしひしと伝わります」

かつて、長岡藩は戊辰戦争に破れ、7万4000石から2万4000石に減り、藩士の生活は貧窮を極めた。
そのとき、ほかの藩からお見舞いとして、米百俵が贈られた。
だが、藩士に分配はせず、そのお米を資金に換えて学校を設立し、人材の育成を図った。
藩士の子弟のみならず、町民や農民の子どもも、入学させたという。
何かを我慢して、子どもたちを大切にする。
志が高い。

困難にぶつかったときは、とにかく気持ちよく助けてもらう。
そして、少し元気になったら、今度は、より困難な人たちを助ける。
そんな世界ができたらいいなあ。
新潟の新米コシヒカリを味わいながら、そう思った。

(写真は、少し色づきはじめた諏訪中央病院の庭)

2008年9月 4日 (木)

丘みつ子さんと対談

Okamitsuko丘みつ子さんとPHP「ほんとうの時代」11月号の対談をした。
お姫様女優だったころ、ぼくの憧れだった。
以前「鎌田實・いのちの対話」(NHKラジオ第1)でご一緒し、大変気があった。久しぶりの再会である。
彼女は、陶芸をしたり、マラソンをしたり、自然農法で農業をしたり、心豊かな生活を続けている。

PHP「ほんとうの時代」11月号をどうぞお楽しみに。

2008年8月31日 (日)

岩次郎小屋の太陽光発電

Image118 今年の春、岩次郎小屋の屋根をウッドシェイクからソーラーパネルに切り替えた。
電力を売るようになった。1kwあたり23円。ドイツに比べると1/3の値段である。
ドイツは自然エネルギーで作られた電気を、電力会社が高値で買い取るシステムを作り上げた。
世界一の太陽光発電国だった日本は、3年前にドイツに抜かれたのである。
世界のトップを走っていたものが、なんでもこうやって抜かれてしまう。
政府が自然エネルギーを大事にするという姿勢を見せれば、もっと国民の意識は高まり、誘導できるはずである。
福田首相が太陽光発電を尊重すると言ったことは大きい。
首相はこうしたアドバルーンを高らかにあげていくべきである。
太陽光発電世界一奪還は、日本の技術力をもってすればそう難しいことではないと思う。

Image120_2 岩次郎小屋にはクーラーがない。そのため夏の電力消費量が極端に下がる。夏は電力を電力会社に売ることができる。
極力原発に頼らず、自然エネルギーを大事にすること。
夏のピークの電力消費を、国民が協力して下げること。
1年のほんのわずかのピークに電力不足にならないよう、電力を過剰に作り出すことに問題がある。
8月の1-2週間を除けば、電力は充分足りていると考えていい。
このピークに電力供給不足がおきないよう、日本中の電力会社は余裕を持たせて電力を作り出そうとしている。
しかし、余った電力は使ってもらわないといけなくなってしまう。
今の技術力では、大きな電力を貯めて置けないという問題がある。
大事なことは、8月の2週間くらいの間に、電力をどう使わないようにするか。
これに皆が協力すれば、これ以上原発を作る必要はなくなると思う。

2008年8月29日 (金)

大阪~名古屋~京都

昨日は、大阪で、小説家で医師の久坂部羊さんと対談。小説「破裂」で有名だ。先月も中央公論のフロントページで後期高齢者医療問題について久坂部さんとの対談が掲載されている。

今日は、名古屋市長と名古屋テレビのいのちをどう守るかというテーマで30分番組の収録をした。9月中放送予定で、愛知県のみの放映だと思う。

テレビの収録を終えると京都へ行き、全国老人福祉施設大会での記念講演を行った。

2008年8月24日 (日)

ひさしぶりに帰ってきました

Image110 フランクフルト、ゴメリ、チェチェルスク、ベトカ、プラハ、ジュネーブ、シャモニー、モンダンベールなどを回り、やっと日本へ帰ってきた。

久しぶりの我が家へ直行といきたいところだが、妻のさとさんと成田空港で別れ、ぼくはタクシーに乗って羽田空港へ向かった。

羽田空港では、9月発売のクロワッサン・プレミアム10月号の取材を受けた。テーマは「気分転換」。ぜひ見て下さい。

取材を終えると松山へ。
坊ちゃんの湯の真前にある「寿司丸」に入った。10日ぶりの和食だ。やっぱり和食がいい。
寿司屋のおやじと環境問題について話した。
四国では一年中ムクドリがいるようになり、大量発生しているという。
季節になっても帰っていかないらしい。
鶯が、初夏だけでなく早春から秋まで鳴くようになった。
タンポポの花が、春だけでなく長期間咲くようになった。
松山の海で獲れていた魚がとれにくくなってきている。
そして魚つりにいくと、今まであまり見たことのない熱帯魚が増えているという。
温暖化はここにも確実に来ているようだ。

Image113 せめて長旅の疲れがとれるようにと、さとさんが温泉旅館を予約しておいてくれた。
「別邸 朧月夜」という名旅館である。

10月24日発売の「いいかげんがいい」の最終書き上げをした。詰め込み作業である。
お風呂に6回ほど入った。長旅の疲労が取れていく。
日本の食事はすばらしいなとつくづく思う。魚がうまい。野菜がうまい。

Image114_2右の写真は、夏目漱石が入ったという温泉「道後館」。
「ぼっちゃんの湯」と言われているそうだ。

Image116 松江では、小泉八雲記念館に寄り、皆美館の鯛茶漬けを食べた。これがすごくおいしかった。
Image115家族みんなに食べさせてあげたいと思うほどであった

そして今日ぼくは、やっとやっと、茅野のわがや岩次郎小屋へ約2週間ぶりに帰ってきた・・・。

2008年8月17日 (日)

介護の日記念講演会

11/11夕方  シダックスホールにて
「介護の日記念講演会」が行われます。

厚生労働省が、今後11/11を「介護の日」と決め、介護されている方のご苦労に報いよう、そして介護されていてもイキイキと生きようというメッセージを送りたいとしています。

厚生労働省の担当課長補佐と打ち合わせをして、舛添厚生労働大臣との対談を検討中です。
対談企画はまだ決定ではありませんが、鎌田實が出演することは間違いありません。
ぜひご参加ください。

主催は、「がんばらない介護の会」です。
4年前から9月に介護の日を設定して勉強会などさまざまな活動をしてきました。
それが国に認められ、大きな発展を遂げることができたのです。

2008年8月 7日 (木)

病院の中庭で

080702080701_2 諏訪中央病院の庭の写真を撮りました。

緑がきれいです。

080705こちらはホスピスに入院中の肝臓がんの末期の患者さん。
「緑の託老所に行ってきます」と、酸素を吸いながら車椅子で庭へ出て行く。

肋膜にも転移があり、胸水がたまり、過大静脈の閉塞もあり、両下肢の浮腫が多い。
いつも本を持って、この緑の木陰で1時間を過ごすのが、この方の日課である。
あたたかな穏やかな背中が、なんともほほえましい。

2008年8月 5日 (火)

学生たちと

080703 医学部の学生が毎週毎週たくさん諏訪中央病院に研修に来ている。
今日は1時間ほど3人の医学部の学生と、緩和ケア病棟の回診をし、意見交換を行った。

中国から看護学校に留学してきて勉強をしているチョウさんは、夏休みに中国へ帰らないというので、昼食に誘った。久しぶりの森のレストラン、カナディアン・ファームである。

大きな釜戸で焼いたハンバーグや、遠赤外線でじっくり焼かれた鶏肉。皮がパリパリでとてもおいしい。

チョウさんはよく勉強し、礼儀正しく、言語のハンディを跳ね飛ばし、2年生のときには卒業式で在校生代表として送辞を読んだ。

今まで6人の中国人留学生とお付き合いしてきたが、皆努力家で素直で、日本の文化にも溶け込んでくれて、優秀な学生たちが多い。日本で良い時間を過ごしてもらい、日本と中国が仲良くやっていける橋渡しをしてくれるといいなと思っている。

2008年7月20日 (日)

野球から学んだこと2

子どもの頃から野球少年だった。
小学校のときも、中学校のときも、日曜日は朝早く起きて、練習をしたり、試合に出たりしていた。

長野県に来て、地元の早起き野球のチームに入った。
開業医の土橋先生が持っている、土橋整形外科というチームに入れてもらった。
その早起き野球を通して意気投合した土橋先生には、
病院を運営をしていく上で、たくさんの指示や指導をもらい、
地域の医師会のドクターたちと仲良くなる橋渡しをしてもらった。
やっぱり野球だったのである。

いろいろな野球チームで、キャプテンをやることも多かった。
レギュラーになれる人となれない人をまとめて、どう上手くチームワークを作っていくか、
いつも試されていたような気がする。

野球の能力としては、打つほうは、まあまあ。
野球部の低学年のときは7番を打ち、中心になる頃には3番を打った。
足は速かった。盗塁をするのが得意だった。
キャッチャーとしては、肩があまりよくなかった。
相手の盗塁を刺す率が、あまり高くなかった。
肩があまり強くないことを、できるだけ相手のチームに知られないようにしたつもりである。

080720結局、選手としては、ちょっと運動神経が良いくらいの野球青年だったけれど、
キャプテンとしてチームを引っ張るとか、キャッチャーとして8人の野手を引っ張っていく、相手のチームを覚乱していく、そういう意味で、能力の開発トレーニングが行われ、現在の自分があるように思う。

当時、それが何かの役に立つと思うことはなかった。
すぐには役立たない、無駄に思えるようなことを、一生懸命やるってことって、なんだか大事なんだなあ。
明日のために役立つことではなくても、何年か先に役立つことを、一生懸命やっていることは、大切なんだなあ。

(写真は福岡県福津市より。明日はNHKラジオ「鎌田實・いのちの対話」を福津市より生放送します)

2008年7月19日 (土)

野球から学んだこと1

大学時代ぼくは野球部で、ポジションはキャッチャーだった。
キャッチャーというのは、9人のチームの中で、1人だけ
残りの見方のメンバーと向かい合っている、不思議なポジションである。

ピッチャーが何を考えているか、
自信を持っているのか、失いかけているのか、
どんなボールを投げたがっているのか、想像する。
他の8人のチームメイトに声を掛ける。
サインで支持を出す。
そして、バッターをうかがう。
相手のチームのベンチをうかがい、相手の監督が何を考えているのか推測していく。

ノーアウト1、2塁。ピンチである。
相手の監督は強攻してくるのか、バントで2人のランナーを送ろうとするのか、
気配をうかがう。
バッターの顔や、ランナーの動作や、相手のベンチの空気を、
ぼくは見抜こうとしていた。

相手チームは何を考え、何をしたいのか、
相手バッターの裏をかくためにはどうしたらいいのか、
同じチームの仲間であるピッチャーは、
ぼくに何をしてもらいたいのか、どんな支持を出してもらいたいのか、
そうやっていつもぼくは、色々なことを推測しながら、
ピッチャーや野手に指示を出すのである。

心理戦のトレーニングを積んできた思いがある。
それは、病院という1つのチームを引っ張っていくときにも役に立ったようにも思う。
そして病院を引退した今も、
外来や往診をしながら、チェルノブイリやイラクへの国際医療支援をどう続けていくか、
どんな人にどう応援してもらうか、どうしたら寄付や応援を頂けるか、
もしかしたらぼくのやってきた野球が、メンタルトレーニングになっていたかもしれないと思う。

2008年7月17日 (木)

帰ってきました

目が回るほど忙しい1日だった。

久しぶりに病院に復帰。看護学校や老人保健施設を回り、3週間の間に届いた手紙や原稿のチェックをした。

7/21 NHK第1ラジオ「鎌田實 いのちの対話」をぜひ聞いてください。子どもの命について語ります。朝9時から12時まで、福岡から全国生放送です。温かな話が満載です。とろけるほど温かくなると思います。

2008年7月15日 (火)

若者たちが時代を変える

ついにピースボートの船ともお別れである。

0807152_2 ぼくが船を降りるとき、ダンシングチームの若者たちがぼくに寄せ書きをくれた。
たくさんの若者が一人ひとり丁寧にメッセージをくれた。
これからの生き方を変えると明言する若者たちが多かった。

「ぼくらのような若者の心を揺さぶるのは難しいと鎌田さんは言いましたが、ぼくは鎌田さんの話で心が揺さぶられました。もっと平和のことを考えていきます」

「怒りや憎しみを感じたとき、相手を知りたいと思える人間になることを模索していきます」

「平和を守ること、難しいけどやっていきます」

「鎌田さんの話を聞くと、自然に涙が出そうになります。鎌田さんの優しさがあふれているからだと思います」

「出会えてよかったです。これからも平和とダンスを結びつけながら生活していこうと思っています」

「私達にできることを私達なりにやっていきたいと思います。ありがとう、ありがとう」

「『この世でただ独りの理解者を探すことは難しくても、この世でただ独りの理解者になることはできる』という鎌田さんのくだりで、何かひらめきました。大切に生きていきます」

うれしかった。

茶髪の若者。歌やダンスにしか興味を示さなかった若者。
今まであまり勉強もせずに…なんてなんとなくネガティブに思っていた。
でもこの若者たちに力があることがよくわかった。

ぼくの「なげださない」の主人公達と同じように、ダメ人間や弱い人間が変わった時、なにか時代を変えるのである。
若者たちがほんの少し変わることで、周りに大きな変化をもたらすのだ。
そしてきっと社会への力となっていく。
必ず新しい世の中を作り出していくだろう。

まだまだ僕たちの国は土俵を割っていない。
間違いなく俵に足がかかった状態で、若者たちがきっと踏ん張り出すだろう。
若者たちの力強さをひしひしと感じた。